相談できる人がいるということ|1920(大正9)年3月7日(日)|
📓 1920年、17歳だった祖父が書いた日記を、孫である私が、2026年の同じ日に紹介しています。
師範学校の合格発表があり、祖父は不合格でした。その翌日の日記です。
🧭 この日のあらすじ
師範学校の合格発表から一夜明け。
朝、近所に住む小学校時代の担任、河内先生を訪ね、不合格だったことを伝えた。
先生の言葉はシンプルだった。
「起きたことは仕方がない。悲観するな」
「代用教員をしながら、来年また挑戦すればいい」
そうか。
田舎で代用教員をしながら体を鍛え、来年、もう一度リベンジしてやる。
夜は芝居を観に行った。
📅 日記本文
朝、河内先生のところに行き、これを話す。
先生言わる。
もはや失敗したからはどうともしようがない。
しかし決して悲観するには足らない。
代理教員でもして、また来年を待つが良い、と。
そうだ、田舎に行きてこれをなし、かつ体を強くする決心なり。
夜、芝居を観に行く。
📌 背景メモ
戦前の小学校には、「代用教員」と呼ばれる立場がありました。
正式な免許はまだないけれど、人手不足などの事情で教壇に立つ人たちです。
師範学校を目指していた若者や、試験に落ちて進路を模索していた人が多かったようです。
ただ、この道に向けられる視線は、決してやさしいものばかりではありませんでした。
「それで将来はどうするんだ」
「男子一生の仕事ではないだろう」
そんな空気が、当たり前のようにあった時代です。
実際、1月8日の始業式では、校長が
「代理教員をしながらでは、本来の夢を見失ってしまう」
という趣旨の話をしています。
(こちらの記事↓)
💭 孫のつぶやき
そんな中で河内先生は、代用教員という道を頭ごなしに否定しませんでした。
当時の代用教員は、今でいうフリーターのような目で見られていた面もあったのかもしれません。
一時的な仕事、腰を据えるには心もとない道、そんな空気が感じられます。
そんな中で、河内先生は別の言葉をかけました。
遠回りでも、立ち止まらずに進むための現実的な選択肢として、祖父の前にその道を置いたのだと思います。
そしてこの日の夜、祖父は芝居を観に出かけています。
もしかしたら母が、「今日は少し、外に出たら」と気分転換に誘ってくれたのかもしれません。
悲しく辛い思いをした祖父ですが、その悔しさを知った人こそ教壇に立ってほしいと、私は思います。
師範学校の合格発表の日の日記はこちら

『明治少年懐古』
