「運動会の準備の日、私はザ・ファントムギフトに取り憑かれた」第2回:“僕だけの宝物“とともに過ごしたあの頃(エッセイ)
静岡での孤独なファン活動
私は、首都圏在住でないばかりにインディーズ時代のファントムに乗り遅れてしまったが、自分の住む地域の中では、きっと、いち早くファントムギフトに気づいている。それは、ある種の優越感でもあった。
しかし、ファントムギフトはネオGSムーブメントの中でもトップの存在である。そして、デビュー曲も文句なく格好いい。すぐにデビュー曲は売れ始めてしまう。自分が優越感に浸れるのもそう長くは無いだろう……とそのときの私は思っていた。
しかし、少なくとも私の住む静岡県の中ではファントムギフトの名は知れ渡らなかった。オリコンシングルチャートの初登場は96位。翌週には圏外へ消えてしまったのだ。
アルバム『ザ・ファントムギフトの世界』発売
待望のデビューアルバム『ザ・ファントムギフトの世界』は10月に発売された。当然、私は毎日繰り返し聴き続ける。1曲目の「ハートにOK!」からラストの「鏡の国の合い言葉」まで13曲。1曲もハズレがない。最高である。
グループサウンズの姿を借りてはいるが、決してパロディではない。パンクであり、ガレージである。「この良さが分からない人は可哀想だ」と本気で思った。
この時期、多くの雑誌にもネオGSが取り上げられた。最先端を行く洒落た記事として紹介されたり、1960年代のグループサウンズの一大ブームから20年後の「珍奇な現象」として扱われたりと、温度差のある反応だった。
結局、『ザ・ファントムギフトの世界』もチャートを賑わせることはなく、私の周囲にもファントムギフトを知る者は増えなかった。
だが、私はそれがうれしかった。「分かる人だけ分かればいい」。そして、私にはそれが分かる。
誰にも知られていない、でもとびきり格好いい音楽を独占するような、あの感覚。好きなアーティストが売れることへの妙なジレンマと、自分だけが知っていた優越感。
矛盾しているのに、なぜかしっくりくる。
その“矛盾”こそが、私にとってのファントムギフトの魅力そのものだったのかもしれない。
「太陽とベロニカ」の歌詞を借りれば、「僕だけの宝物」となったのだ。
セカンドアルバムは幻に
「いずれ大学生になって静岡を出れば、ファントムギフトを知る友人もできる。ファントムギフトのライブにも行ける」という希望を胸に、予定されていると言われたセカンドアルバムの発売も楽しみにしていたが、それは一向にかなわなかった。
そして、私が浪人などしてモタモタしているうちに、1989年にはピンキー青木が脱退し、ファントムギフトは活動を休止してしまったのである。
せっかく大学生になり、ファントムギフトを知る仲間もできたころには、ファントム不在でライブには行けない。ただ、幸いだったのは、私の所有していないインディーズ時代のレコードを友人がダビングしてくれたことだ。当然、何度も聞き込んだ。高校時代にテレビ番組「冗談画報」の「ネオGS大会」を見逃してしまっていた私は、このテープで初めて「魔法のタンバリン」を聴いたのだ。この曲は、ファントムギフトのオリジナルの中でも3本の指に入るお気に入りの曲となった。
大学4年生の時には、何とか付き合ってくれる知り合いを引きずり込んでファントムギフトのコピーバンドを結成し、ライブハウスで演奏もした。私はギターを担当した。当然、彼らの超絶なテクニックには遠く遠く及ばなかったが、ガレージ感(納屋感?)だけは存分にあったと思う。
このコピーバンドのライブは、大学のサークルの卒業ライブに参加する形で実現したものだったが、私個人としても「ファントムギフトからの卒業」という感覚があったことを覚えている。
ザ・ファントムギフト不在の世界
ファントムギフトが静かに姿を消してから、何年もの時が経った。
時代は移り変わり、音楽の流行も大きく変わった。
大学を卒業し、社会人となって、さすがに頻度は落ちたが、それでも私は彼らの曲を時おり聴き返していた。
ひとり静かに、胸の奥の“宝物”を取り出すように。
そして、私は常にどこかでファントムギフトの欠片を求めていた。
彼らがカヴァーしていたグループサウンズの元の曲を集める、メンバーそれぞれのその後の活動をチェックする、ネオGSムーブメント界隈の人々の作品を聴いてみる……。
しかし、いずれも私の心の穴を埋めるには至らなかった。
(第3回へつづく)
次回は、ザ・ファントムギフトの欠片を集め続ける日々と、そんな中で訪れた「奇跡」とその先について綴ります。
第3回はこちらです↓
第1回を見逃した方はこちら↓
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