応神天皇はなぜ八幡大神になったのか
大和朝廷の全国統一 第三十六話 応神天皇最終回
ヘッダー画像:石清水八幡宮
宇佐の歴史
応神天皇といえば、全国でもっとも数の多い神社である八幡神社の祭神として知られています。しかし、ここまで見てきた生身の応神天皇と、後世に全国へ広がった八幡神とは、ひとまず分けて考えた方がよいでしょう。
なぜなら、八幡総本宮である宇佐の八幡神は、最初から「応神天皇そのもの」として現れたわけではなく、長い歴史の中でさまざまな要素を取り込みながら、その姿を変えてきた神格のように見えるからです。
宇佐神宮の現在の由緒では、八幡大神は応神天皇の御神霊とされています。しかし同時に、宇佐の地には、八幡神以前から比売大神という古い地主神が祀られていたことも伝えられています。つまり宇佐の八幡神は、最初から単純な応神天皇信仰として始まったのではなく、在地の古い信仰を土台にしながら、後に応神天皇と強く結び付けられていったと見る方が自然だと思います。
さらに宇佐の宗教世界には、在地信仰だけでなく、渡来系氏族や仏教の影響も重なっていました。宇佐神宮自身も、神仏習合の説明の中で、隼人征討、放生会、香春岳の銅、新羅神、鍛冶翁などとの関わりに触れています。辛島氏のような渡来系氏族の存在も考え合わせると、宇佐の八幡神を一つの系統だけで説明することはできません。むしろ、在地信仰、渡来系要素、仏教、そして国家権力という複数の流れが合流する中で成立した神格と考えた方が、その成立の過程は理解しやすいと思います。
八幡神が地方神の域を超える最初の大きな契機となったのは、奈良時代に九州で相次いだ動乱と、そこから国家事業へと関わっていった過程でした。隼人の乱に続き、七四〇年の藤原広嗣の乱もまた九州を舞台に起こっており、宇佐の八幡神は、こうした地域の危機に関わる中で、しだいに朝廷からも重く見られる神になっていったと考えます。宇佐では、隼人との戦いにおける殺生を悔いた八幡神が仏教に救いを求めたことに由来するとされる放生会が始まり、神仏習合の先駆的な姿が現れます。さらに七二五年には弥勒禅院が建立され、宇佐宮と弥勒寺が並び立つことで、八幡神は仏教とも深く結び付いた特別な神格へと成長していきました。


続いて決定的だったのが、東大寺大仏建立への協力です。宇佐八幡は、全国の神々も造仏に協力するとの託宣を下し、国家的仏教事業の守護神として前面に立ちます。さらに宇佐八幡神託事件では、その神託が皇統の行方を左右するほどの重みを持つものとして扱われました。こうして奈良時代を通じて、八幡神は「国家に関与する神」として急速にその存在感を高めていったのです。
そして、その国家的な守護神へと成長していく過程で、その中心に据えられていったのが応神天皇でした。現在の宇佐神宮では、八幡大神は応神天皇の御神霊とされ、「大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方」と説明されています。ここには、後世の人々が応神天皇を、単なる古代の一帝ではなく、国家の発展と外部世界への開放を導いた天皇として理解していたことがよく表れています。八幡神が国家鎮護の神として権威を高めていくうえで、応神天皇という歴史的人物は、その中心に据えるにふさわしい存在だったのでしょう。

王城鎮護の神へ
その後、八幡信仰は宇佐を離れ、都の近くへと進出します。石清水八幡宮の由緒によれば、八五九年、宇佐八幡宮にこもった僧・行教が「都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という託宣を受け、男山に八幡大神を勧請したことが始まりとされています。石清水八幡宮は創建以来、王城鎮護の神、さらに伊勢神宮に次ぐ「国家第二の宗廟」として尊崇されるようになり、八幡神は一地方の有力神から、都を守る国家的神格として確立していきました。
この変化は、祭神の祀り方にも表れています。宇佐神宮では、三殿の中央に祀られているのは応神天皇ではなく比売大神です。この形式は、大分県内に見られる古い八幡社にも受け継がれています。


一方、石清水八幡宮では中央に祀られるのは応神天皇であり、さらにその流れを受けた鶴岡八幡宮や全国に広がった多くの八幡神社でも、中央祭神は応神天皇となっています。
つまり、全国へ広がった八幡信仰は、宇佐の古い姿がそのまま受け継がれたのではなく、石清水八幡宮を経て再編された姿が広まったと見ることができます。この祭神配置の違いそのものが、八幡信仰の歴史的な変遷を静かに物語っているように思えるのです。
武家の守護神へ
さらに八幡神を全国区の存在へ押し上げたのが、源氏との結び付きでした。石清水八幡宮の由緒によれば、清和天皇の嫡流である源氏一門は八幡大神を氏神として篤く崇敬し、源義家は石清水八幡宮で元服して「八幡太郎義家」と名乗ります。こうして八幡神は、国家鎮護の神であると同時に、武家の守護神としての性格を強めていきました。
ここで少し興味深いのが、河内源氏という系譜です。源氏が河内を本拠の一つとし、その地に応神天皇陵があることは、単なる地理的な偶然とは思えません。
河内守となった源頼信の時代以後、河内を本拠とする源氏と応神天皇、そして八幡神との結び付きは、しだいに強く意識されるようになっていったのではないでしょうか。もちろん、このような伝承には後世の脚色も含まれていると思います。しかし、「河内」「源氏」「応神天皇」という三者の結び付きが、応神天皇を武家の守護神として印象付け、八幡信仰の広がりを後押ししたことは十分に考えられます。

全国へ
やがて八幡神は、源氏とともに東国へも広がります。鶴岡八幡宮の由緒によれば、その始まりは源頼義による勧請にあり、後に源頼朝が現在の地へ遷し、鎌倉の中心に据えました。ここに至って八幡神は、都を守る神であるだけでなく、武家政権そのものを象徴する神格となります。
こうして見ると、いわゆる「日本三大八幡宮」と言われる三つの八幡宮、宇佐、石清水、鶴岡は、それぞれ異なる時代の役割を担っていたことが分かります。宇佐では在地信仰と神仏習合の中で神格が育まれ、石清水では国家鎮護の神となり、鶴岡では武家の守護神として全国へ広がっていきました。八幡信仰の歴史は、そのまま日本の歴史の流れとも重なっているのです。
さらに中世には、元寇のような国家的危機を背景に、八幡神の国家守護神としての性格はいっそう強く意識されるようになります。八幡神は、必勝・弓矢・国家鎮護の神として、より広く信仰されていきました。
ここまで見てくると、応神天皇は最初から八幡神だったのではなく、八幡信仰が地方から国家へ、そして武家社会へと広がっていく長い歴史の中で、その中心に据えられていったことが分かります。
神としての応神天皇とは、一人の天皇がそのまま神となったという単純な物語ではありません。在地信仰、渡来系文化、仏教、国家権力、そして武家社会――そうした幾つもの流れが長い時間をかけて合流し、その象徴として応神天皇が位置付けられていったのです。
私は、ここに応神天皇という人物のもう一つの大きな姿を見る思いがします。生前には大和朝廷を飛躍へ導き、没後には長い歳月を経て、日本で最も広く信仰される神の一柱となった。その歩みは、一人の人物の生涯を超え、日本の歴史そのものと重なって見えるのです。
宇佐創建について思うこと
以下は少し専門的な内容になりますので、興味のある方だけお読みください。


この画像は、金富神社に掲示されていた宇佐創建に関する一つの説です。もちろん宇佐神宮の成立については諸説あり、これはそのうちの一説と理解しています。
私は、比売大神が八幡神以前の古層に位置付けられること、八幡信仰が最初から現在の姿ではなかったこと、そしてその成立には在地祭祀、氏族、渡来系要素、神仏習合など、さまざまな要素が重なっていたという点については、おおむね賛成です。
しかし一方で、三世紀から九世紀までを一本の連続した物語として復元している点については、慎重に考える必要があると思っています。とくに三~五世紀については史料が限られており、その空白を細部まで連続した歴史として描くには、どうしても多くの推測が含まれてしまいます(私も推測を書くことがありますが、その場合は「推測」「妄想」であることを書き添えています)。
近年は、学説ではありませんが、SNSなどを通じて、八幡信仰をヤハウェや九州王朝、あるいは邪馬台国へ直接結び付ける説も見受けられます。しかし、現時点ではそれらを積極的に裏付ける史料は十分あるとは言えません。魅力的な話であることと、史料によって裏付けられることとは分けて考える必要があります。
私は、歴史を「一本の線」で説明しようとすると、かえって歴史本来の姿を見失ってしまうことがあるように思っています。
このシリーズを通して繰り返し書いてきたように、歴史は、川の流れのようなものです。支流が集まり、ときに分かれ、再び合流しながら大きな流れを形づくっていきます。
八幡信仰もまた同じでしょう。在地の信仰があり、渡来系文化が加わり、仏教と結び付き、国家に支えられ、武家社会へ受け継がれていく――その長い流れの中で、応神天皇は八幡神の中心に据えられていったのです。
そう考えると、応神天皇が八幡大神となった歩みもまた、日本という国が歩んできた歴史の流れ、そのものだったのではないかと思えます。
今回で応神天皇編は一区切りとします。お付き合いいただき、本当にありがとうございました。次回からは、応神朝が築いた基盤の上に立つ仁徳天皇の時代を歩いていきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
おまけ
石清水八幡宮のある男山は、京の都から南西の方角、裏鬼門にあたる場所。

ここは木津川、宇治川、桂川の三川が合流して淀川となる少し手前の位置。三川の対岸にあるのが、

さて、石清水八幡宮参拝のあと、近くの小谷食堂さんで、店の名物、カレー中華をいただきました。和風だしのきいた蕎麦屋のカレーうどんの味。麺がうどんじゃなく中華麺。中華麺も合うんですね

そして、一の鳥居前にある老舗の走井餅を土産に買って帰りました。

お知らせ
拙著『飛鳥の風の人』に続く、飛鳥・藤原宮都三部作の第二弾『大道(おおじ)を歩く』を、7月24日(金)に発売します。
今回は小説ではなく、難波から飛鳥へと続く横大路・竹内街道を歩きながら、風景の下に眠る古代飛鳥を考える歴史紀行です。
noteでいつも書いているような連想や発想、そして私なりの歴史の読み方を、一冊にまとめました。
発売前に改めてご案内いたしますので、ぜひご期待ください。

