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〝宇治〟の意味

大和朝廷の全国統一 第三十四話 応神天皇⑥  〝宇治〟の意味

ヘッダー画像:宇治神社と大吉山

美談としてではなく、流れとして読む


前回は、『古事記』の〈和邇吉師〉を、固有名詞ではなく、菟道稚郎子の母系である和珥氏にかかる【属性+称号】として読めないか、という仮説を述べました。もしこの読みがまったくの見当違いでないなら、次に問うべきは、その菟道稚郎子が強く結びつけられる〝宇治〟という土地の意味です。

応神天皇の崩御前後の記紀の記述で、印象に残るものに、兄弟が皇位を譲り合う物語があります。

大鷦鷯尊おおさざきのみことと、菟道稚郎子うじのわきいらつこが互いに先を譲ります。最後には菟道稚郎子の死によって大鷦鷯尊が仁徳天皇として即位したという話で、話自体は、儒教的な徳を示す「美談」として語られています。

けれども、この叙述を地理の上に置き直してみると、見えてくるものが少し違ってくるのです。

当時の皇位継承は、単に誰が次の天皇になるかという問題だけでなく、どの土地の、どの氏族との結びつきを政権の基盤に据えるのかという問題でもありました。

そうして見ていくと、応神紀の皇位継承譚は、皇統を支える政権内部にあった複数の流れのうち、どこへ重心が移っていったのかを物語るものとして読むことができます。



宇佐神宮に祀られる菟道稚郎子

応神天皇の神霊を八幡大神として祀る宇佐神宮では、子である大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)と菟道稚郎子が祀られています。

大鷦鷯尊を祀る社  若宮神社
菟道稚郎子を祀る社  春宮神社


「長子と小子」の問いが隠しているもの


応神天皇は、末子の菟道稚郎子に皇位を継がせたいと考えていました。

ある日、長男の大山守命おおやまもりのみことと次男の大鷦鷯尊の二人に、「長子と小子と、どちらがまさっているか」と問います。大山守命は長子の優位をそのまま答えましたが、大鷦鷯尊は、まだ幼い末子の方がいっそう心にかかると答えました。応神天皇はこれを喜び、末子の菟道稚郎子を皇太子に立て、大鷦鷯尊にはこれを補佐するよう命じます。

 このことを、応神天皇までは末子相続が多く描かれるのに対し、仁徳天皇を契機に、兄弟間や長子相続へ転換していく契機と解釈する説もあります。

しかし、ここで本当に重要なのは、長子か末子かということではありません。
この問いが置かれることによって、誰を次の政権の中心に据えるのか、その人物を通してどの土地とどの勢力を皇統と結ぶのか、という問題が美談の中に隠れているように思います。

応神天皇が望んだのは、菟道稚郎子でした。そこには、単に父の寵愛や継承慣行だけではとらえきれない意味が含まれていたのかもしれません。

彼の母は、宮主矢河枝比売みやぬしやかわえひめ(宮主宅媛)といい、和珥わに氏の女性です。和珥氏の勢力範囲と菟道稚郎子その人が宇治という土地と強く結びつけられていることを考え合わせると、ここで問われているのは人間関係だけではなく、政権の地理的な重みの置き場所そのもののような気がしてなりません。

応神天皇は、難波大隅宮なにわのおおすみのみやという淀川河口の重要地点にも行宮を置き、大和では、剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池などの造池記事が見えるなど、水に関する記述の多い天皇です。

古市の応神御陵も大和川と石川が交わる水運の要衝に築かれています。そこから見える応神天皇像というのは、菟道稚郎子に皇位継承させたいという叙述を、皇位継承をどの水の道へ結ぼうとしていたのかという問題に置き替えて読む方が自然です。そのほうが後に続く記述ともよくつながります。

大隅神社

かつて神社周辺は淀川の河口に浮かぶ「大隅島」と呼ばれる島であったとされます。そこに応神天皇の大隅宮があり、天皇崩御後、里人らが祠を建てたのが始まりと伝わります。

大隅神社 鳥居と拝殿
本殿


巨椋池という水上の十字路


菟道稚郎子を考えるうえで決定的に重要なのは、宇治という土地の位置です。宇治は、三つの大きな川が集まる巨椋池への入口にあたる場所でした。

三重県と奈良県の県境に源を発し、京都府南部を貫流する木津川。日本一の湖・琵琶湖の唯一の自然放流先である瀬田川(宇治川)。そして丹波山地の分水嶺に端を発し、保津川が嵐山で名を変え、京都市内を流れる鴨川も合わせる桂川。

これら三川が、かつてあった巨椋池へ流れ込んでいたのです。さらに巨椋池から淀川を下れば、難波津へつながります。

位置関係がやや複雑なので、三川と巨椋池、そして淀川から難波へ至る流れを図にしてみました。細部は省略していますが、宇治が巨椋池への入口にあたり、そこから難波へ通じることが見て取れると思います。


古代において、水はそのまま交通であり、物流であり、政治の基盤でもありました。巨椋池は単なる大きな池ではなく、畿内の水運を束ねる結節点だったと言えます。

菟道稚郎子が〝宇治〟の地と強く結びつけられていることから見ても、この場所の持つ意味は小さくありません。

琵琶湖をさかのぼれば北陸・日本海側へ通じ、木津川をさかのぼれば大和盆地北東部へつながり、桂川は山城から丹波へつながります。そして巨椋池から淀川を下ると難波へ出る。巨椋池と宇治は、北の水の道と西の道をつなぐ喉元にあたる土地でした。

巨椋池まるごと格納庫 (京都市伏見区向島)の展示映像。 河川だけではなく各地につながる街道の要衝でもありました。
同上施設、巨椋池と周辺水系の位置関係を示す展示パネル


しかも、応神天皇は淀川河口の大隅宮に行宮を置き、のちの仁徳天皇は難波高津宮から堀江・茨田堤といった水の制御にかかわる事業で記憶されています。

応神天皇から菟道稚郎子、そして仁徳天皇へと続く線を見たとき、そこには単なる継承譚ではなく、水運と治水を軸にした大和朝廷の連続が感じられるのです。

伝承は後世に言い換えられ、土地の由緒も後から整えられる。しかし、山並みや川の向き、盆地の開き方といった大きな地形はそう簡単には変わらない。

実際の地形を見ていくと、記紀の叙述は思っている以上に、その土地のあり方をよく踏まえています。宇治と巨椋池もまた、その典型の一つだと言えます。

宇治神社・宇治上神社の背後にある大吉山に登ると、眼下には宇治川が流れています。現在は巨椋池は埋め立てられてしまいましたが、この高台から眺めれば、なぜこの場所が交通と水運の要衝だったのかを実感できます。

大吉山からの眺め

中央:大吉山だいきちやま(仏徳山)
大吉山の展望台からの眺め。麓の宇治神社・宇治上神社辺りが応神天皇の行宮、桐原日桁宮きりはらひげたのみやであり、後に菟道稚郎子の宮居した場所と伝わります。当時は巨椋池が見えたはず。


すでに始まっていた重心移動


重心移動という考え方については、以前の記事で触れました。


四世紀後半から五世紀にかけての古墳の動きを見ると、奈良盆地北部の佐紀盾列古墳群に巨大古墳が集中する一方、その後は河内の百舌鳥・古市古墳群が強い存在感を示すようになります。

また、日本海側の丹後では四世紀に巨大古墳が相次いで築かれたのに対し、五世紀に入るとその勢いが弱まり、畿内と瀬戸内海側の結びつきがより強く前景化してきます。

こうした変化は、大和政権の内部で、どの地域とどの勢力が主導権を握るか、その重みが移っていったことを示していると考えます。

氏族の配置もこの流れと無関係ではありません。以前にも書いたように(「重心移動という考え」記事参照)、この時期には尾張氏の存在感がしだいに後退し、葛城氏が前面に現れてくる一方で、和珥氏は生き残りました。この時期の政権内部の重心の組み替えを考えると、応神天皇の崩御後に記紀が描く継承譚も、単なる兄弟の美しい譲り合いとしてだけではなく、その背後で進んでいた政権の重心移動の一場面として読めます。

北へ開く水の道、すなわち敦賀・琵琶湖・宇治・巨椋池へつながる流れ。そして西へ開く水の道、すなわち難波・河内・瀬戸内海へつながる流れ。その双方が政権の内部に併存し、しばらくは並び立っていたからこそ、菟道稚郎子の立太子と仁徳天皇の即位とのあいだに、簡単には収まりきらない揺れが生まれたのではないかと思います。


『記紀』は、応神天皇から仁徳天皇へ移る間に、三年の天皇不在の期間を記します。



和珥氏と葛城氏の相克は、こうした政権内部の重心移動の文脈の中で見るべきでしょう。二勢力が単純に正面衝突していたというより、中央政権の内部で、北寄りの基盤と西寄りの基盤とが、どちらもなお重みを持ったまま並存していた。その均衡が崩れていく過程が、応神紀から仁徳紀へかけての記述に映し出されているように見えるのです。

記紀が伝える「三年」の空白も、そう見ればただの美談ではありません。
誰が先に動いても政権内部の均衡を崩しかねないほど、複数の基盤がなお均衡していた時間として読む方が、むしろこの時期の重さにふさわしいように思えます。

継承の決着と、流れの再編


菟道稚郎子の死によって、大鷦鷯尊は仁徳天皇として即位し、政権の重心はしだいに難波・河内側へと傾いていきます。その後の難波高津宮、堀江の開削、茨田堤の築造、そして河内における巨大古墳の築造を見れば、五世紀の政権が、大和川水系と淀川水系の制御を強く志向していたことがうかがえます。

これまでも、何度も取り上げてきましたが、ここで見えてくるのは王朝交代ではなく、そのように呼べないほどの連続性です。

応神天皇から仁徳天皇へ至る流れには、政策の一貫性があり、地理的な連続性があり、その一方で主導権を握る氏族や地域の重みだけが移っている。変わったのは皇統ではなく、政権を支える基盤の重心だったと見るほうが自然だと私は考えます。

もしこれが本当に王朝交代であったなら、前の流れはもっと明確に断ち切られていなければならないはずです。ですが、実際には、宇治に結びつく流れも、和珥氏につながる流れも、消えてしまうわけではありません。和珥氏はその後も歴代天皇に妃后を輩出し、中央政権内部に生き続けます。流れが消えたわけではないのです。

ここで起きたのは、川が突然別の川に入れ替わるようなことではなく、川筋が変わり、流れの重みが移っただけです。応神朝の終わりから仁徳朝の始まりにかけて見えるのは、まさにそうした再編の過程だったのではないでしょうか。

おわりに――「長子と小子」の先に見えるもの


応神天皇が二人の皇子に向けた「長子と小子」という問いは、一見すると親子のあいだの問題のようにも見えます。けれども、それは単に誰をかわいがるかという話ではなく、皇統が次にどの流れへ重みを移していくのかをめぐる問いとして読んできました。

菟道稚郎子は宇治と巨椋池の側に置かれ、仁徳天皇は河内と難波の側へ政権の重心を移していく。そこにはたしかに揺れがあり、交渉があり、氏族の主導権争いもあったでしょう。

しかし、そのことはかえって、同じ政権の内部で、どこに重みを置くかが変わっていったことを示しています。

五世紀の河内で行われた巨大古墳群の築造は、大和政権における主導権の重心移動であり、河内開発によって政権基盤を固めていく地理的重心移動でもありました。そこに見えてくるのは、断絶ではなく、同じ流れの中で主導権の置き場所が変わっていく姿です。

記紀を無批判に読むのでもなく、かといってその内容を最初から否定してかかるのでもなく、歴史を一つの流れとしてとらえる。そうした立ち位置から菟道稚郎子を見たとき、彼は単なる悲劇の皇子ではなく、政権の重みがどこへ置かれようとしていたのかを映し出す存在として浮かび上がってきます。

前回、〈和邇吉師〉という表記の背後に、菟道稚郎子の母系である和珥氏の気配を感じ取りました。今回、宇治と巨椋池の地理を見てくると、その気配は単なる連想ではなく、皇子が置かれた政治的な位置そのものに結びついていたように思えてきます。そして宇治という土地は、そのことを今も静かに語り続けているように感じるのです。


宇治の聖地を巡る


宇治神社
祭神である菟道稚郎子命が道に迷った際、ウサギが振り返りながら正しい道へと導いたという見返り兎の伝説が伝わります。

朝霧通り沿いにある鳥居と社号標
由緒書
社殿


宇治上神社

菟道稚郎子、応神天皇、仁徳天皇を祀ります。本殿は日本最古の神社建築。

朝霧通りから、さわらびの道へ入り、宇治神社のすぐ上です。
拝殿
国宝の本殿


宇治墓

宮内庁治定 応神天皇皇太子 菟道稚郎子尊 宇治墓。

 個人的には、この墓は後世に現在の形に整えられたものと考えています。
宇治墓の向かいは、「史跡 宇治川太閤堤跡」。キレイに整備されています。


次回は応神シリーズのまとめとして、応神天皇その人にスポットを当てて書いてみたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


おまけ

宇治神社鳥居すぐ側にある、喫茶コンソラさんでランチ♪

ナポリタンのランチセット
そろそろセミが鳴き始める頃でしょうか?この夏も、元気に乗りきりましょう!





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