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僕らは選んだ道しか生きられない

引越しが完了してロンドンの自宅でこの記事を書いている。
ロンドンに来たのは3回目だが、やっぱりこの街が好きだ。

どこに住むのか。
どんな服を着るのか。
誰と会うのか。
何を食べるのか。

今この瞬間に『自分が何を選ぶのか』で、どんな未来が起きるのかが決まる。
これは僕らの人生における難しい話ではなく、とても単純な話だ。
でもそのシンプルさ故にそれを見過ごしてしまうこともあるだろう。

驚くべき数字だが、人間が1日でする意思決定の数は、約3万5,000回と言われている。
これは自分が意思決定したものではない未来が起きていた可能性が天文学的な数値に及ぶことも意味している。

意思決定は、選択と決断の2種類に大別できる。
決断については以下のnoteにまとめているので、今回は引っ越しを機に改めて気付かされた「選択」について僕の考えをまとめたい。


論理だけでは答えが出ない場合に「えいやっ」と思い切って選ぶ行為である決断。
複数の候補を比較検討しながら「最適なものを選ぶ」行為である選択。

「選択」について身近な例を用いてわかりやすくまとめる。

“今日のランチは中華にしようか、イタリアンにしようか。”

中華を選べば餃子や麻婆豆腐、イタリアンを選べばパスタやピッツアが僕らの胃の中に入り、それぞれの食べ物から得られる栄養素が僕らの身体に吸収される。

“週末は誰に会おうかな。”

友達を選べば居酒屋やカラオケで楽しい時間が生まれ、パートナーを選べば二人のかけがえのない思い出がまた一つ増え、恩師を選べばキャリアを積んだ人生の先輩に仕事の相談ができる。

ここでの選択に何が絶対的な正解はないだろう。
だが、「自分が何を選ぶのか」が自分の身に起きる未来、つまり『将来の今や僕ら』を決定することには異論の余地はないだろう。


もっと具体的な例として僕の高校選びを題材にする。

中学3年生の僕は「公立の男子校」を選び入学をした。
なぜ当時の自分は、思春期の男達が蠢く魔界(男子校)に行きたいと思ったのだろうか。

“日本のほぼ全ての大学が共学であることを考えると、男子校に行けるタイミングは今しかないんじゃないか。そしたらこの機を逃すのは勿体無い…!”

これが理由だった。
この考えに至った瞬間のことは今でもハッキリ覚えている。

「男子校での経験」を「今しかない」という観点で買った僕の選択は間違っていなかったように思える。
大学への再入学や大学院での学び直しだけでなく、高校への再入学制度も存在するが、そこに「男子のみの学校」という選択がないからだ。

当然だが僕が共学を選んでいたら、「共学の高校生」という全く別の未来が経験できていたことになる。
それをいくら想像したところで、実際に経験しているわけでもないので当然ただの想像の域を出ない。

僕らは僕らが選んだ道しか体験ができないのだ。


選択が今と将来の僕らのカタチを創っていく。

選択が大切なことは誰しも薄々感じているが、自分の目の前の選択を考える時に、僕らの思考や選択肢を狭めるノイズとして現れるものがある。
それは親ガチャ・出身国・才能に代表されるような僕らの『コントロール外』の要素だ。

コントロール外の理不尽さが僕らの人生に複雑に絡み合っているのは事実だ。その事実に気付いた時に辟易するのも無理はない。

“自分の家はお金に困っている。”
“自分にはスキルや思考力がない。”

昔は僕自身このような考えに陥ってしまったこともあった。
そんな自分だからこそわかることがある。


僕らがこの思考に陥る時は、必ずと言っていいほど自分自身に焦点が当たっていない時ではないだろうか。

つまり、自分を生きていない。


油断すると僕らは他人の人生や自分の境遇のような「コントロール外の事実」を頼りに、今の自分の現状へ束の間の正当性を与えようとする。
でもそれは文字通り「束の間」であるから、すぐにその正当性は瓦解し元通りの状態に戻ってしまう。


では、僕らの思考や選択肢を狭めるノイズに対抗するために、僕らはどうすべきなのだろうか。


僕は人に勧められた本は基本的には購入するようにしている。
Amazonのリコメンド機能を利用すれば僕が気に入りそうな本をすぐに見つけることはできるが、そればかりだと自分の趣味趣向の延長線上の本としか出会いがなく驚きが少なくなるからだ。

その点、僕とは異なる人のリコメンドには新しい本や言葉と出会える偶然性が開かれている。その余白と遊びが予想していなかった驚きや学びをくれることがあるから僕は購入するようにしている。

最近その中の一冊を読んでいる中で、「コントロール外の事実」への対抗策と捉えられる一文があった。

とりあえず手持ちの技術と、自分から湧いてくる偶然性で何ができるか?と考える。

出典:センスの哲学 千葉雅也

僕らは他人の人生や自分の置かれた境遇で頭の中が一杯になっている時に、自分の手元にある経験や技術や情熱をついつい忘れがちになる。
忘れるだけではなく、それらの存在を見ようとしないとも言える。

だが偶然にも物事は繋がるようにできていて、自分では大したことがないと思っている体験の中に気づきや情熱の火種があり、体験の延長線上には培われてきた技術や経験が付いてくるものだ。
そして考えることをキッカケに、それらが混ざり合い火種が爆発する。

だからこそ、僕らは自分自身の置かれた境遇や環境の理不尽さを憂うのではなく、その中で自分が持っているもの、そして自分のコントロール下にある数少ないものに目を向けるべきだ。
その数少ないものの中に、「何を選ぶのか」という選択があるはずだ。

だから僕は選択をちゃんとやっていきたい。
それが理不尽な世の中に対する数少ない対抗手段だから。


最後に。

原稿を書きながら、前述したような僕の考えは「強者の論理」なのかもしれないという思いが頭によぎった。

なぜなら僕は自分がハッキリと自認できるほどに、「自分が恵まれている」と考えているからだ。

幼少期の家庭の事情は複雑で、大人になってから僕自身も別れを経験したり大変な経験や時間も国内外で沢山過ごしてきた。
でも振り返ればそれらを乗り越える力だけでなく、謙虚に学び続ける心も与えられていると強く認識をしている。(そうでなければ手帳に9年間、noteに2年間もアウトプットを続けられないだろう)

正直、これは僕の努力のいかんに関わらず、与えられたものだろう。

“もし強者の論理であるなら、僕の言葉は誰かのためになり得るのだろうか。”

この疑問が湧いてから、すぐにまた別の問いが湧いてきた。

“そもそも、誰かとは一体誰を指すのだろう。”

思えば僕はnoteを書いている時に、いつも想定読者が思い浮かんでいない。これは、毎回テーマが異なるから刺さる人も変わるといったターゲティングの話や自分の内省のためにやっているからといった話ではない。

「どう受け取られるか」「一言一句の何がどう心に響くのか」が突き詰めれば僕のコントロールの効かない部分であると考えているからだ。

“自分のモヤモヤを言語化してくれてありがとう。”

こういった言葉を投げかけて頂けることも増えた。

“あなただからこの学びが得られたんでしょ。”

そういった声が聞こえてくる気もする。

だからnoteから何をどう解釈するかを選択する自由を、読んでくださった方に預けたいと思う。
僕が想定読者を創るのではなく、読者が僕の文章の中に自分自身を見つけていくイメージだ。

僕が書いているのは、誰かのための汎用的な答えではないと思う。
僕自身の問いであり、揺らぎであり、まだ輪郭の定まらない感覚になんとか言葉を紡いでいるにすぎない。

それでも、その不完全な文章の中に、誰かが自分のモヤモヤを重ねてくれることがある。
その瞬間にもはや僕の言葉は僕のものではなくなる。
その言葉が読んだ人のものになっていき、そこで初めて読者が生まれるような気がしている。


noteを始めて今月で2年経ちました。
今の僕にはこれくらいしか書けないですが、
これからも末長くお付き合いください。


さぁ久々にロンドンに戻ってきたので、自分の中から湧き出る直感を頼りに出かけよう。
今日の自分は何を選ぶのだろうか。


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