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【ランニング/お仕事小説】ここから先は、私の想い 第3章 新たな出会い

前の話 第2章:はじめての取材

第3章:新たな出会い

雑誌『爽』に掲載されたインタビュー記事は、藤崎美由紀の日常に、静かな波紋を広げつつあった。
「藤崎さん、こちらが僕の信頼しているランニング関係者の面々です」
4月の終わり、山田に連れられて訪れたのは、神田にある小さなスポーツ整骨院だった。プロの陸上選手や実業団ランナーも通うというその場所で、美由紀を待っていたのは、山田が手配した各分野のスペシャリストたちだった。

「初めまして、藤崎さん。山田さんからお話は伺っています」
そう言って人懐っこい笑顔を見せたのは、院長の岩本だ。元実業団のトレーナーで、ランナーの解剖学を知り尽くした男である。今回は顔合わせということもあり、岩本は美由紀の現在の練習状況を聞きながら、今後のコンディショニングについての重要性を優しく語ってくれた。

その隣には、国内大手のスポーツシューズメーカーで技術者を務める高橋。そして、数々のトップアスリートの栄養管理を行ってきたサプリメントメーカーの宮下が出揃っていた。
二人は、美由紀の「1年10ヶ月で大阪国際女子マラソン完走」という経歴に、一様に目を見張っていた。

「藤崎さん、普段はどんなシューズを履いてるんですか?」
シューズ技術者の高橋が、興味深そうに尋ねてきた。
美由紀は少しきまり悪そうに微笑んだ。
「レースの時は、高橋さんのメーカーのカーボンプレートシューズを履かせていただいています。すごく推進力があって、走りやすいです。ただ、何足かある普段の練習靴は、実は他社さんのものを使い回していて。すみません」
「ははは、謝ることなんてないですよ!」
高橋は豪快に笑って手を振った。
「練習靴は自分の足に馴染むものが一番ですから。ただ、うちのカーボンはちょっとクセがあるんですが、きちんと履きこなされているようですね、ありがとうございます。あと、他社さんの練習靴でもね、うちのこのインソールを一枚入れるだけで、ジョグの時の疲労の溜まり方が全然違ってきますよ。よければ今度、試してみます?」
「はい、ぜひお願いします」
美由紀の目が輝く。

続いて、宮下が手元の資料を美由紀に差し出した。
「フルマラソンの後半の失速って、筋持久力と根性の問題だけじゃないんです。やはりエネルギー切れが大きいんですよ。藤崎さんの代謝量から計算すると、15キロ、25キロ、35キロの時点で、この成分のジェルをこの量、タイミングをずらさずに摂る必要があります。サンプルを差し上げますので、よかったらロング走の時、お試しください」
目の前に提示される、具体的でプロフェッショナルな知見の数々。
たった一人、動画や本を読み漁りながら手探りで組み立ててきた自分のランニングが、専門家の知見によって、鮮やかに解き明かされていく。

しかし、美由紀は高揚する心を一度グッと静め、そして、まっすぐに三人を見つめた。
「岩本先生、高橋さん、宮下さん。本当に素晴らしいお話をありがとうございます。あの……、最初に費用についてお伺いしてもいいですか。今後の診察やアドバイス、これからお世話になる場合の費用、それからシューズやサプリの代金を教えていただけますか」
三人は一瞬、きょとんとした顔で互いを見合わせた。
山田が横から「藤崎さん、今回はプロモーションの一環というか……」と助け舟を出そうとしたが、美由紀はそれを制した。

「いいえ、山田さん。皆さんの素晴らしい技術や知識を、タダで受け取るわけにはいきません。それに、私は『これをSNSで宣伝してください』と言われるような、いわゆる案件のインフルエンサーになるつもりは一切ないんです。私は普通の会社員です。だから、かかった費用はすべて、一人のランナーとして自分の給料から、正当な対価をお支払いさせてください」
美由紀の言葉には、証券会社の営業として数々のビジネスの現場を潜り抜けてきた、彼女なりの「誠実さ」と「プライド」が宿っていた。

静まり返った室内で、最初に吹き出したのは高橋だった。
「ハハハ! いや、参ったな。山田さんから聞いていた通りだ」
高橋は嬉しそうに頭を掻きながら、美由紀を見た。
「藤崎さん、実はね、僕らもちょっとウンザリしてたんですよ。大して走り込みもしないのに、フォロワー数だけ多い人に『タダで靴くれ、PRしてやるから』って言われるのにね。僕らは、自分の技術を、本気で目標に向かっていく『本物のランナー』に使いたいんだ。サンプルは使っていただき、正規商品のお金はきっちりいただきます。その代わり、僕らもプロとして、あなたが今後更に記録を伸ばしていくために、1ミリの手抜きもしませんよ」
「うちの治療院も同じです」
岩本院長も深く頷く。
「打算のないガチなランナーを診るほど、トレーナー冥利に尽きることはないですから。藤崎さん、これから最高のコンディションを、一緒に作っていきましょう」

相手のプロフェッショナルな姿勢を最大限にリスペクトし、対等な信頼関係を築く。美由紀が仕事で培ってきたコミュニケーションのあり方が、図らずも、この場にいた頑固な職人たちの魂に火をつけたのだった。

美由紀は改めて自分の内面を見つめていた。
彼女がランニングに求めているのは、ただの「タイム」という数字そのものではなかった。自分で目標を決め、そこに至るまでのプロセスを自分でコントロールし、どうやって達成するかを考えて実行する。組織の理不尽や市場の動向に左右される仕事とは違い、ランニングは「自分次第で100%成果が出る」。その純粋な因果関係こそが、美由紀にとって何より楽しく、日々のモチベーションだった。
「私の次の目標は、10月末の水戸黄門漫遊マラソンでのサブ3達成です。そこまでは、死に物狂いで食らいつきます。皆さん、よろしくお願いします」

美由紀の言葉に、職人たちは力強く頷いた。その先にある大会への具体的な計画は、今の美由紀の頭にはまだなかった。ただ、あの大阪国際女子マラソンという舞台だけは、タイムを追うためではなく、梨沙や家族、そしてサトシの温かい思いを乗せて、いつかまた笑顔で走りたい最高の場所だという確信だけが、胸の奥に静かに存在していた。

それから二週間後の週末。
山田のセッティングにより、美由紀はもう一つの「運命の出会い」を果たそうとしていた。
場所は、皇居のランナーたちが行き交う大手町のスタイリッシュなカフェ。
「藤崎さん、お待たせ。紹介するよ。彼女がマナミさんだ」
山田の言葉に、美由紀は思わず息を呑んだ。
そこに座っていたのは、美由紀が初マラソンに挑戦する前から、スマートフォンの画面越しにずっと憧れ、その背中を追い続けてきた女性インフルエンサー、マナミその人だった。
「初めまして、藤崎美由紀さん。山田さんから、もの凄いランナーが現れたって聞いて、今日すごく楽しみにしてたんだ」

マナミは、SNSのアイコン通りの洗練された美しい笑顔で、美由紀の手を握った。
小柄な体躯のどこにそんなパワーがあるのかと思わせるほど、無駄のない引き締まった四肢。何より、その瞳の奥にある光の強さが、彼女がただの「ランニング女子」ではなく、大阪国際を何度も走り抜いてきた本物のエリート市民ランナーであることを物語っていた。

「は、初めまして! 藤崎です。あの、マナミさんの投稿、ずっと前から全部読んでいました。仕事ですごく落ち込んだ日も、マナミさんの言葉に何度も救われて……。今日、本当にお会いできて夢みたいです」
緊張のあまり早口になる美由紀を見て、マナミは「ふふ、ありがとう」と優しく笑った。

しかし、コーヒーが運ばれてきて、山田が少し席を外した瞬間、マナミの表情からふっと「タレント」としてのオーラが消え、一人のシビアなランナーの顔がのぞいた。
「藤崎さん、雑誌の記事、読みましたよ。次の水戸でサブ3を狙うんですって?」
「あ、はい……。まずはそこを絶対に達成したくて」
「素晴らしいと思う。私のSNS、私ってけっこう強く見えるでしょ?」
マナミは自嘲気味に微笑んだ。
「実は私もけっこう落ち込んだりしてるのよ。インターバルの後、しばらく動けなくなっていたり。最近だと腰痛が慢性化しちゃって苦しい時もあるし、疲れも年々取れにくくなってきちゃったり、何度も『何のためにこんなことしてるんだろう』って泣きべそかいてこともある。おまけに、有名になればなるほど外野の雑音も酷くなる。『どうせ案件だろ』『大して若くもないくせに無理しちゃって』って……SNSを開くたびに、見ず知らずの人間から心ない言葉を投げつけられる。発信を続けるっていうのは、そういう孤独と、毎日戦い続ける覚悟がいるんだよね」
マナミの告白は、あまりにもリアルで、あまりにも重かった。

しかし、美由紀の心の中に湧き上がったのは、恐怖ではなかった。むしろ、目の前の美しいランナーに対する、深い敬意だった。
この人は、傷つきながら、泥をすすりながら、それでもあの笑顔の裏で「走る楽しさや素晴らしさ」を、バトンとして誰かに届けようとしていたのだ。マナミも、そして目の前の山田も、みんな「ランニングの素晴らしさを世の中に伝えたい、多くの人に届けたい」という純粋な想いを持って、自分の仕事に向き合っている。その事実に、美由紀の魂が激しく揺さぶられた。

「マナミさん」
美由紀は、テーブルの上で自分の両手を強く握り締めた。
「教えてくださって、ありがとうございます。私、これまでマナミさんのことを『遠い世界の、きらきらした憧れの人』だと思っていました。でも、違いました。マナミさんは、誰よりも真剣に自分と戦って、その背中で誰かを救っている、本物のランナーなんですね」

美由紀の瞳に、新しい光が宿る。
「私、今度の水戸で絶対にサブ3を達成します。真ん中にあるのは自分自身の挑戦だけど、私もマナミさんや山田さんのように、自分が走ることで学んだ楽しさや、自分次第で成果が出せるっていうリアルを、同じ世代の人たちに伝えたいです。仕事で落ち込んでいる人や、何かに一生懸命取り組んでみたい人たちの心に、届くような発信をしていきたい」

美由紀の真っ直ぐな言葉を聞き、マナミは一瞬、驚いたように目を見張った。
そして、今度は心の底から楽しそうな、悪戯っぽいアスリートの笑顔を咲かせた。
「いい度胸ね、藤崎さん。わかった、じゃあ約束。今年の秋、10月末の『水戸黄門漫遊マラソン』、コースのどこかであなたの走りを絶対に見てるから。連絡先、交換しよ。ここからは、憧れはおしまい。ライバルとして、よろしくね」
「はい! よろしくお願いします!」

その夜、東京の自宅へ戻る電車の中で、美由紀の胸の中には、これまで経験したことのない熱い感情の嵐が吹き荒れていた。
山田、マナミ、そして岩本たち。多くの魅力的なランニング関係者と交流し、その熱量に直接触れれば触れるほど、「自分次第で人生を変えられるこの世界の素晴らしさを、もっと多くの人に伝えたい」という想いが、抑えきれないほどに膨らんでいく。
今はまだ、日々の過酷な証券営業の仕事と、迫りくる秋のレースに向けた猛練習の両立だけで頭がいっぱいだった。けれど、彼女の心の中に灯った「走る喜びを誰かに届ける」という小さな火種は、多くのプロフェッショナルたちの言葉を吸収しながら、確実に、そして急速に発酵を始めていた。
10月の水戸でのサブ3達成という絶対の目標に向けて、藤崎美由紀のランナーとしての、そして一人の人間としての新しい挑戦の日々が、今、確かな密度を持って幕を開けようとしていた。

次の話:第4章 覚醒〜ディープインパクト

本小説は「ここから先は、私の時間」の続編です。

証券会社で働く藤崎美由紀は、何気なく参加した労組のイベント「皇居ラン」を機にランニングの世界へ。仕事と違って自分の意思で自由に走れる魅力に惹かれた彼女は、地道な練習を重ねるうち、低心拍数のまま高いペースを維持できる「天性の心臓の強さ」という眠っていた資質を覚醒させる。着実に実力をつけた美由紀は、ついにエリートランナーの証である最高峰の舞台「大阪国際女子マラソン」の出走権を掴み取る。
だがその裏で、親友の梨沙や家族の日常に予期せぬ影が差し込む。激しい葛藤のなか、美由紀は彼らに明日を生きる勇気を届けるため、「サブ3」を掲げて大阪のスタートラインに立つ。
レース終盤、猛烈な疲労と激しい向かい風の壁に阻まれながらも、大切な人たちの祈りを背に死力を尽くしてゴールへ突っ込み、倒れ込んだ。目標に僅かに届かなかったものの、全てを出し切った美由紀は、病床の梨沙に完走タオルを手渡し、次の未来へ走り出す。

小説「ここから先は、私の時間」 ダイジェスト

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