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【ランニング/お仕事小説】ここから先は、私の想い 第4章 覚醒〜ディープインパクト

前の話 第3章:新たな出会い

第4章:覚醒〜ディープインパクト

5月から8月にかけて、東京は記録的な猛暑に見舞われていた。アスファルトから立ち上る強烈な陽炎は、朝の5時であっても容赦なくランナーの体力を奪っていく。

この時期、藤崎美由紀は人生最大の多忙の中にいた。
証券会社勤務4年目。チームの中核として大きな資産運用案件を任され、新入社員の指導係にも任命された。オフィスでも顧客先でも、顧客からのシビアな要望と後輩のフォローに追われる毎日。
美由紀は、仕事の手を一切抜かなかった。ランニングにのめり込むあまり、本業を中途半端にして周囲に迷惑をかけることだけは、彼女のプライドが絶対に許さなかった。日中は洗練された営業トークと緻密なデータ分析で顧客の信頼を勝ち取り、誰よりも濃密に仕事をこなす。

しかし、その裏での練習は「試練」の一言だった。
10月末の水戸黄門漫遊マラソンでのサブ3(3時間切り)達成に向け、美由紀はこの夏、月間350kmという未知の領域の走り込みを自分に課していた。

「今の藤崎さんの走力なら、この夏を乗り越えれば必ずサブ3の壁は破れます。でも、肉体はギリギリの線上にある。皆さんの力を頼ってください」
山田の言葉通り、美由紀を支えたのは、山田が紹介してくれたプロフェッショナルたちだった。週に一度、岩本整骨院で筋肉をケアし、宮下特製の回復サプリメントを、美由紀は毎日欠かさず摂取し続けた。それでも、肉体と精神の疲労は確実に蓄積していった。

7月の終わり。陸上競技場での1000m×5本のインターバル走を終えた夜、美由紀は自宅の部屋のソファで、泥のように動けなくなっていた。
「美由紀、お疲れ。はい、これ」
恋人のサトシが静かに、氷の小気味よい音を立てる冷たい麦茶のグラスを差し出した。
「ありがとう。サトシくんがいてくれて、助かった。」
一気に麦茶を喉へと流し込み、美由紀はポツリと本音を漏らした。
「時々ね、何のためにこんなに必死になってるんだろうって、分からなくなるの。でもね、走っている時だけは全部忘れられる。仕事は頑張っても成果が出ないことがある。でも、ランニングは違う。自分で目標を決めて、計画を立てて、自分が努力した分だけ、自分に成果として返ってくる。その時間が、今の私にとって一番の救いだし、たまらなく楽しいの」

美由紀はグラスを両手で包んだまま、遠くを見つめるように言った。
「私、山田さんやマナミさんと話していて、すごく羨ましくなったんだ。みんな、ランニングの素晴らしさを世の中に伝えたいって、純粋な想いを持って仕事をしてる。私もね、仕事で落ち込んでいる同世代の人たちや、何かに一生懸命になりたい人たちに、この『自分次第で人生を変えられる楽しさ』を、いつか誰かに心から伝えられるようになりたいな。なんてね。今の証券会社の仕事が忙しすぎて、そんなのただの夢物語なんだけど」
美由紀は少し照れくさそうに笑った。

サトシはそんな美由紀を温かく微笑みながら見つめ、静かに言った。
「夢物語なんかじゃないよ。現に今でも会社で立派に後輩の力になってあげられてるじゃない。美由紀が本気でそう願うなら、いつかきっと形にできる。そのためにも、水戸は昨年と同じく大事な大会になるね。」
「うん。水戸で、サブ3を達成する」

10月末。ついにその日が訪れた。
秋晴れの爽やかな青空の下、美由紀は再び、あの懐かしい水戸黄門漫遊マラソンのスタートラインに立っていた。
空気を切り裂くような乾いた号砲が響き渡る。一斉に流動を始めた数千の人の波の中へ、美由紀は静かに滑り込んだ。

(1年前の今日は、ここで大阪国際女子マラソンの切符を掴み取ったんだ)

手首の時計を見ずとも、体感だけで1kmを4分15秒のサブ3ペースへとピタッと合わせる。その正確無比なリズムの裏には、夏の猛暑の中で必死になって追い込んできた圧倒的な練習量があった。1年前、大阪国際女子マラソンの基準タイム3時間7分をクリアしたあの日の自分と対話しているような不思議な感覚だった。

30kmを過ぎ、レースは佳境の千波湖へと突入していく。多くのランナーが完全に脚を使い果たし、苦悶の表情で歩を緩め始める、この大会最大の難所だ。
1年前の美由紀も、ここで大腿四頭筋に焼き付くような重さを覚え、ゼーゼーと荒い呼吸を響かせながら必死に耐えていた。

(ここからが勝負。さあ来い、千波湖)

37km付近の給水所が視界に入る。
(そう、去年はここでコーラを飲んだんだよね)
走りながら飲んだ後、指先がベタベタになり、「こんな極限状態で、私、なんて間抜けなことを気にしてるんだろう」と思わず苦笑した、あの愛おしい記憶。

しかし、今年の美由紀は違った。岩本が整えてくれた強靭な体幹と、宮下の緻密なエネルギーマネジメントプログラムにより、千波湖を走り切った後も、肉体のコアにはまだ十分な出力が残っていた。コーラの誘惑を笑顔で見送り、自前のサプリメントを冷静に補給する。自身の確かな進化を実感し、胸がじわりと熱くなった。

やがて、前方に薄暗い梅香トンネルの入り口が見えてきた。
トンネルの内部に足を踏み入れた瞬間、美由紀の全身を強烈な音響の壁が包み込んだ。ボランティアの学生たちの黄色い歓声が、コンクリートの壁面に反響し、増幅され、まるで巨大なスタジアムの真ん中に放り出されたかのような地響きとなって迫ってくる。その圧倒的な熱量を皮膚から血管へと吸い込み、美由紀はさらに加速した。

トンネルを抜け、最後の折り返しを終えると、ついに目の前に現れた。
ランナーたちを絶望のどん底に突き落とす最後の激坂。
想像を絶する角度で天空へとそり立つ、容赦のない急勾配の壁。1年前、周囲の誰もが生気を失って立ち止まる中、「1、2! 1、2!」という応援のリズムに命を預け、歯を食いしばって上り詰めた、あの因縁の激坂だ。

「美由紀ちゃん、いけーーー!! 腕振って!! 自分の走りを信じて!!」

坂の途中、ひときわ突き抜けた大きな声が美由紀の鼓動を撃ち抜いた。
ハッとして視線を向けると、沿道で声を枯らして叫んでいたのは、ゲストランナーとして来ていたマナミだった。約束通り、彼女は美由紀の挑戦を見届けるために、その場所に立っていた。

(マナミさん! 私は、一歩も引かない!!)

狂気にも似た執念が、死んでいたはずの脚を強引に前へと繰り出させる。皆が苦しむその壁を、美由紀は力強く一歩ずつ踏みしめ、1年前よりも遥かに鋭いキレを持って上り詰めていった。

坂を上りきり、角を曲がる。その先にある長い直線の視界の先に、ついに、フィニッシュゲートが姿を現した。
無我夢中で、全ての想いを乗せてフィニッシュラインを駆け抜ける。
激しく肩を上下させながら、震える手首の時計に目を落とした。液晶画面に表示されていた、その運命の数字は。
「2時間58分42秒」
悲願のサブ3達成。
美由紀は思わず笑顔で一人、喜びを噛みしめた。

「おめでとう、美由紀ちゃん! 最高の走りだった!」
マナミが駆け寄り、自分のことのように喜んで抱きしめてくれた。
「おめでとう!あなたは凄いよ!」
カメラを構えた山田が感動している。

自分で決めた目標を、みんなの力をかりて100%やりきったという圧倒的な達成感が、美由紀の全身を歓喜で満たしていた。
そして、「走る喜びを誰かに伝えたい」という胸の奥の火種は、この水戸の秋空の下で、より深く、より熱くその根を張っていた。

水戸での歓喜からわずか1ヶ月後、11月下旬。美由紀は、今度はつくばマラソンスタートラインに立っていた。
つくばはアップダウンが少なく、記録が出やすいことで有名な高速コース。都心から近いこともあり、人気の大会だ。

当初の予定では、1月末の本番である大阪国際女子マラソンまで水戸から少し間が空くため、一本入れておきたくて、申し込みした大会。
もし水戸でサブ3できなかった場合、ここで再チャレンジする予定だった。しかし、水戸でサブ3を達成した美由紀にとって確かな目標はなかった。

(今回は気楽に、タイムに縛られず、自分の走りたいように走ってみよう)

号砲が鳴り、広い大通りを走り出した瞬間、美由紀の身体は、自分でも驚くほどの異変を感知していた。

(軽い。水戸の時よりも、身体がさらに軽い)

水戸でのサブ3達成は、美由紀のランナーとしてのメンタルを完全にエリートの領域へと引き上げていた。これまで心のどこかにあった「本当に3時間を切れるのだろうか」という迷いや恐怖が完全に消え去ったことで、フォームの無駄な緊張が完全に削ぎ落とされていた。

1km4分15秒の予定だったペースが、自然と4分10秒、4分05秒へと跳ね上がっていく。
呼吸は乱れておらず、心拍数もいつもの数値で安定している。これは暴走ではない。肉体が完全にネクストステージへと進化した証拠だった。

(私は、もっといける。守りに入る必要なんて、どこにもない)

30kmを過ぎてからの平坦な直線道路。水戸の千波湖やボス坂のような難所がないつくばのコースで、美由紀の走りは完全にゾーンに入っていた。
周囲のシリアスランナーたちが後半の疲労でペースを落とし始める中、美由紀だけが、まるで1本の矢のように、一人、また一人と前を行くランナーを抜き去っていく。
それは、ただタイムを縮めるための走りではなかった。
自分の身体の隅々までを完全に支配し、風をも味方につけてロードを突き進む、圧倒的な自由の体現。

(これだよ。この、自分が限界を超えて、どこまでも進化していける最高の感覚。この震えるほどの感動を、私はたくさんの人に届けたいんだ)

水戸での成功体験を経て、彼女の走りは、もはや利己的なタイムへの執着を超え、「走る素晴らしさの証明」そのものへと昇華されようていた。

つくばのフィニッシュゲートを駆け抜けた時、時計が弾き出したタイムは、周囲の度肝を抜く2時間54分30秒。
ステップレースのはずの場所で、水戸の自己ベストをさらに4分以上も短縮する、衝撃的な大ジャンプアップだった。
「藤崎さん、あなたという人は、一体どこまで強くなるんだ」
ゴール後、駆け寄ってきた山田が、呆然としていた。

美由紀は、冬の気配を帯びたつくばの澄んだ空を見上げ、激しく脈打つ胸に手を当てた。
この2ヶ月での、凄まじい、もう一段の進化。それは、1月末の大阪国際女子マラソンに向けて、これ以上ない絶対的な自信と、本物の市民エリートとしての覚悟を彼女に与えてくれた。

しかし、走力が上がれば上がるほど、彼女の発信は世間の注目を集め、本業との両立の壁もまた、より高く、鋭いエッジを持って美由紀の日常に迫りつつあった。光が強くなるほどに、濃い影が忍び寄っていることを、まだ美由紀は知らなかった。

次の話

本小説は「ここから先は、私の時間」の続編です。

証券会社で働く藤崎美由紀は、何気なく参加した労組のイベント「皇居ラン」を機にランニングの世界へ。仕事と違って自分の意思で自由に走れる魅力に惹かれた彼女は、地道な練習を重ねるうち、低心拍数のまま高いペースを維持できる「天性の心臓の強さ」という眠っていた資質を覚醒させる。着実に実力をつけた美由紀は、ついにエリートランナーの証である最高峰の舞台「大阪国際女子マラソン」の出走権を掴み取る。
だがその裏で、親友の梨沙や家族の日常に予期せぬ影が差し込む。激しい葛藤のなか、美由紀は彼らに明日を生きる勇気を届けるため、「サブ3」を掲げて大阪のスタートラインに立つ。
レース終盤、猛烈な疲労と激しい向かい風の壁に阻まれながらも、大切な人たちの祈りを背に死力を尽くしてゴールへ突っ込み、倒れ込んだ。目標に僅かに届かなかったものの、全てを出し切った美由紀は、病床の梨沙に完走タオルを手渡し、次の未来へ走り出す。

小説「ここから先は、私の時間」 ダイジェスト

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