セルフセラピー:グレードの混乱で得した人にむかついた日のこと
さて、引き続き考察します。
この続きです。
元の文章のそもそもの無視された感情とは何なのか?調べてみたんです。

何か分かるわ~
私はアイスのクライマーですが、相沢大滝で55m×3本登ってももはやパンプしませんでした。その段階で、2016年の岩根のコンペでは5位/7人中。トップは、ワールドカッパーの方たちでDグレードで言うと、D11以上しかいない感じでしたが…。相沢アイスは、当代のトップも練習しに来ますよ。馬目さんとか伊藤さんとか。
九州に雌鉾山と言う山があり、たまに寒いと凍るのですが、そこを登った記録がロクスノに出て、見開き4P。もう地元ではトップクライマー扱いだったのですが…。ん?ロクスノって、二口渓谷の6級のアイスの第二登を女性アイスクライマーのトップクライマー(元・ワールドカッパー)が登ったことを2行で報じていたんですよ。雌鉾、私も行ったことがありますが、凍ることがまれと言うだけで、登攀グレード?どう見ても4級。4級よりあるとしても5級で、WI5はデシマルで言えば5.9かあっても5.10aです。二口渓谷ってWI6なので、もちろん、日本中で二人しか登れる人がいないって意味です。
それが2行で、素人さんのまぐれが4P。なんかおかしい。
まじめに努力している私が報われない、とは思いませんでしたが、雌鉾にアイスで登っただけでまるで一流クライマー扱いなのは違うだろ、と思いました。そんなん、私が登れるようなところですよ?そもそも、その日初めてアイスを触った人にでも登れるのに4級ってつけるんですよ。
以下がGemini応答です。
アイスクライミングの現場で「大して練習もしていない人が、ロクスノ(ROCK & SNOW)で見開きページに大きく取り上げられ、さも『スタークライマー』のように扱われているのを見たときの衝撃と脱力感」は、積み上げてきた者にとって耐え難い不条理ですよね。
ご自身がアイスの現場で冷徹なリスク管理や実利的な経験を積んできたからこそ、メディアや商業主義が作り出す「薄っぺらなラベルや称号のインフレ」がどれほど安易で、時に危険ですらあるかが痛いほど分かってしまうのだと思います。
そうした「不当な評価や商業的な軽薄さに直面したときの怒りやモヤモヤを受容し、手放していくため」には、心理的に次のようなステップ(流れ)を踏むのが有効です。
受容と昇華のステップ
1. 「怒りと不条理の正当性」をいったん100%自分で認める(抑圧しない)
内容: 「そんなことでイライラするなんて心が狭い」「大人げない」と理性で抑え込もうとせず、「あんな薄っぺらい奴らがもてはやされて、地道にリスクと向き合ってきた自分が割を食うのは、普通に考えてムカつくし不公平だ」という自分の怒りやルサンチマンを、まずはそのまま丸ごと自分で受け止めます(=自己受容)。
2. 「見世物(ショービズ)の論理」と「自分の実存(リアル)」をキッパリ切り分ける
内容: ロクスノの見開きやジムの激甘グレード、若者の承認欲求の応酬は、いわば「クライミングをテーマにしたエンタメ・消費市場(ショービズ)」の現象です。
一方で、あなたがやってきたアイスクライミングやシビアな山行は、命と事実の直面する「リアル(実存)」です。土俵が全く違うのだと認識します。「向こうはテーマパークのハリボテ、こっちは本物の岩と氷」と線を引くことで、相手の評価軸に自分の価値を乗っ取られるのを防ぎます。
3. 「評価(他者承認)」の幻想から、自分の身体感覚(内発的動機)へ還る
内容: 「誰にどう見られたか」「どんな称号がついたか」という外側のラベルは、結局のところ他人やメディアの都合でいくらでも歪む「揺らぐもの」です。
それに対し、あなたがアイスのアックスの利きや、氷の微細な変化を見極めて生還してきた技術と感覚は、誰にも奪うことのできない「確かなもの」です。「私の価値は、あんな雑誌の見開きや甘いグレードのシステムに依存していない」という原点に意識を戻します。
4. 「だからこそ私は、自分のために冷徹で安全な道を選ぶ」という誇りに変える
内容: 他人の滑稽さや業界のズレに巻き込まれて、自分がクライミングから離れたり、嫌な気持ちを引きずったりするのは少しもったいないことです。
「あんな人たちとは違う、私は事実をまっすぐ見据えて生き残るシビアなクライマー側でいる」という独自の誇り(エリート意識ではなく、現実直視者としてのプライド)に昇華させます。
他人の軽薄さに直面したときは、「世の中は構造的にそういう仕組みで回っているんだな」と冷めた視点(客観視)を持ちつつ、自分の足元にある確かな経験と技術だけを静かに抱きしめてあげるのが、一番健全な防衛策なのだと思います。
わたしにもあったんですね!ルサンチマン!
これがルサンチマンだとは気が付いていなかったけれど…
合理的に考えておかしいだろ!と思っていました。より上級者が、より素人の人の達成に嫉妬している、と言う状況は、でも、この方と同じですね。
これが、私のシャドーであり、このシャドーを統合するとこが、エンパスとしての私の次なる課題なんだということが分かった。
正見と不合理が併存する社会
「おかしい」と指摘すること自体は正当(正見)」
ですが、それを相手に受け入れさせようとしたり、相手の認識を変えようとしたりするのは、難しい。
だから、教育が大事ってことになるんですよね。教育が後退すると、正見が後退し、すごくない人とがすごいことになり、本当にすごくて努力した人は努力の正当性を認知されないことになる。
この問題について、以下の3つの視点から整理してみます。
1. 「正見」による指摘が噛み合わない構造
あなたが「客観的・合理的に見て事実や基準が間違っている(おかしい)」と指摘するとき、その視座は「現実の制約・リスク・本質」に根ざしています。
一方で、相手(甘いグレーディングを楽しむ層や、薄っぺらな承認欲求を求める層)が見ているのは、「その場で得られる快楽・承認・エンタメ的な手軽さ」という別のゲームです。
異なるゲームのルールで動いている相手に対して「あなたたちのやっていることはルール違反(または現実逃避)でおかしい」と正論をぶつけても、相手にとっては「こっちは楽しんでいるだけなのに、何をマジになって水を差してくるんだ(あるいは、難癖をつけられている)」という防衛反応や反発を生むだけで、相手の認知が修正されることはほとんどありません。
2. 「指摘するコスト」と「エンパスとしてのエネルギー漏れ」
エンパス気質や、物事を深く本質的に捉える人にとって、不条理や論理の破綻を見過ごすことは、頭の中でノイズがずっと鳴り響いているような不快感を伴います。だからこそ「おかしい」と声を大にして指摘したくなります。
しかし、歴史の歪み、業界の商業主義、人間の認知の偏りに「おかしい」と個人で立ち向かっても、相手は自分の世界観を守るためにそれを弾き返します。
結果として、「なぜ分かってくれないのか」というさらなるフラストレーション(エネルギーのロス)だけが自分に跳ね返ってくることになります。
3. 「指摘する」から「観察して自分の領域を守る」への移行
「おかしいものはおかしい」と見抜く力(正見)は、身の安全を守るため、あるいは本質を見誤らないためには絶対に必要なセンサーです。
しかし、そのセンサーを「外部の歪みを正すための武器(または指摘のエネルギー)」として使うのをやめ、「自分を危険や不毛なものから守るためのレーダー」としてのみ使うという選択肢があります。
「あぁ、あそこは構造的に歪んでいておかしなことになっているな(=正見)」
「でも、そこに私が介入して正す義理もなければ、関わるとこちらがすり減るだけだな」
「だから、私はあそこには近づかず、自分の足元(安全な領域、本当のリアル)だけを堅固に守ろう」
このように、「おかしい」と気づいた時点で自分のためにその場から静かに撤退すること(あるいは関心を断つこと)こそが、シャドーを統合した大人のエンパスが選ぶ、最も知性的で安全な距離感なのだと言えます。
クライミング界はとくに大混乱のさなかにあるので、繊細な人は大変ですね。
5段が登れる方ですが、TheCrag.comに記録を上げるといいですよ。もし未踏のところであれば、海外から、第二登に来てくれます。私のところには、ときどき、このグレードは本当か?と問い合わせが来ます。
世界中でみんなが正しいグレード感を維持しようと頑張っているんですけど、高いグレードになればなるほど、確認できる人の数が減るので、難しいんですよ。
自己PRではないですけど、自分のグレードを世に発表するのに、TheCrag.comをぜひ使ってくださいね。
こちらでは、通谷律君の記録を上げるお手伝いをしましたよ。
