「陰」二つのものが一つ「陽」
この手、この目、この鼻、
口、頬、胸、足…どこまでも「私」を運んでくれた、
私の身体、「細胞群」
あのとき一緒に帰った、上手く伝えられなかった、
好きなことを話し合えて嬉しかった、
寒い、寒い、言って、そればっか言ってただけでも一緒にいれた人、
懐かしい…私の記憶、「経験要素群」
どんな場所でも、自我のカタチを合わせて適応し、観察と観測をし続けようとする…どこでもいつでも湧き上がる「私」、「観測点」
もしも、仮にもしも、
それらが落ちて、バラバラに砕け散って分かれてしまったとしたら、
肉体「細胞群」と、記憶「経験要素群」と、「私」、
どれが「私たち」で、
どれが「彼ら」なのだろうか?
きっと「私たち(「彼ら」)」は、
一つに戻りたいと、
そうして「ユメ」の中であなたに語りかけるのであろう。
善悪、勝ち負け、正誤、それら相反するものたちが一つにあること
それを無としての一つ(悪平等)じゃなく、
「在る」の一つとしてどう感覚的に簡潔に説明できるかを考えていたら、エレベーターが「我こそは」と語りかけてきたよ
たしかに「昇る」と「降りる」の相反するものが一つに「在る」
これは世界をより深く知るうえで非常に重要な視点であり、私はこれを「この世界で何かあると言いたいとき、反対の何かも必要である設定」、といくつもの記事で表現してきました。
対立するAとB、このときAとBは反対に見えて「対立」というパッケージの中にある「一つ」ということです。
これを「二つのものが一つ」と表現します。
この視点をあらゆる事柄で持っていていただきたいのです。
たとえば「犯罪者」は何故存在しますか?
それはルールがあって、ルールを守る者がいるからです。
例えば、いま唐突に私が「刑の宣言が先―評決は後回し」だとかいう独自のルールを周囲の人々に対して宣言しても、それを守る者がいなければ、ルールを破っている者しかこの世にはいないことになるので、「刑が先、評決は後」のルールにおける「犯罪者」はいないことになりますから、この点において、ルールを守る者がいるから、ルールを破る者がいる、ということになるのです。
また、そもそもルールがなければ、ルールを破る(「犯罪者」)、という概念がなく、ルールが適応された瞬間に「遵法者」と「犯罪者」の「二つ」が生成されることであり、この点で「遵法者」と「犯罪者」は対立軸に見えてルールという枠組みに組み込まれた「一つ」だといえるのです。
これを屁理屈と感じる方もいるかもしれませんが、法律論における基本的な考え方も、この考え方に近いものがあり、それが発展して憲法にも繋がってくるのです。
たとえば、もしも上記の理屈でルールが「犯罪者」を生成すると考えるとして、それは言い換えれば、ルールを設定する者が任意に特定の層を「犯罪者」にできるということです。もし、それがあからさまで、さすがに反発をくらうとするのなら、未来での攻撃手段の確保として、今は遵法が可能でも後々には守れなくなることが分かり切っているルールを設定しておくとか、一つ一つは守るのに大した負担でなくても一々確認できないほど大量にルールを設定して敵の動きを縛ったり、解釈に幅を持たせてあとで自分たちに都合の良い解釈方法へ変えたりすることによって敵を攻撃する。
ルールを定めるものはその気になればそういうことができてしまうのです。
彼はルールの本質を理解していました。
それは「ルールはルールをつくった者たちを守るためのもの」という本質です。
上辺は「あなたたちを守るため」
「社会をより快適にするため」
「損する人を少なくするため」
などと言うでしょう。
しかし結局はルールをつくった者たちが損をしないようにつくられるのです。
もちろんいついかなる世でも、ルールの設定者はそういった「悪」なのだとかが言いたいのではありません。
ただ、
ニンゲンとは物事をどのようにでもしてしまう生き物で、
どんな「あの頃」に対しても、後に蓄積した経験と照らし合わせて、
「善」にしたり、「悪」へと再解釈したりできてしまうのです。
ですから、仮に設定当初はどれだけ「善」で作られたルールでも後に「悪」にされてしまうこともある、ということです。
故にルールをつくる側に対して、「理念」という大枠のルールを設定することでルールが適応される側が身を守ろうしようとしたのが、元々の憲法の考え方であり、本来は企業理念、経営理念、学問理念も同じなのです。
さて、ここで重要なのは「二つ(遵法者と犯罪者)」が「一つ(ルール)」になったものに対して、新たな「理念」という「一つ」がでできて、「二つ(ルールと「理念」)」になったことで、さらに大枠の「一つ」があると想定できる、ということです。
さてそれはなんでしょうか………?
というよりかは、その過程に終わりはあるのでしょうか???
そのように考えていくと、これは延々と続く二項対立であり、
戦争は平和である(WAR IS PEACE)
自由は屈従である(FREEDOM IS SLAVERY)
無知は力である(IGNORANCE IS STRENGTH)
アーリマンであることも見えてくることかと思います。
しかし、そこでさらに浮かぶ疑問符は、冒頭のエレベーターとアーリマンは同じ「二つのものが一つ」でも、何かが違うのではないか?、という「感覚」と「直観」で、つまるところ、
「二つのものが一つ(「善」)」と「二つのものが一つ(「悪」)」があるということなのでしょう。
この世界はホントウに面白いですね。

「二つのものが一つ」にし続けてこの世界から解き放たれるか、
もしくは、自らが「二つのものが一つ」のカタチとなって、
この世界にその生きざまを刻み付けるか、
今はまだ目には見えずとも、
耳には聞こえずとも、
肌に触れることはできずとも、
認識できずとも、
それがカタチとなっていずれあなたの前に大きな問いとして突き付けられることを覚えておいてください。
そして、あなたがどういった答えをだすか、だけでなく、あなたの周囲の人々がどういった答えをだすかまでも、今から片隅に住まわせて、観測の対象にしておくと良いと思います。
イエスは授乳された小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った、「この授乳された小さな者たちは、御国に入る人々のようなものだ」。
彼らは彼に言った、「私たちが小さければ、御国に入るのでしょうか」。
イエスが彼らに言った、「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人(単独者)にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがたは、「御国」に入るであろう」
荒井献
購談社学術文庫
p158
パズルのピースのようにバラバラになった「私たち(「彼ら」)」を繋いで「元型」を完成させること。
もっともっと遠くから、
もっともっと深いところから。
ホントウのゴールを目指して祈りを捧げ続ける日本人の元型が
「元型」、即ちその文化が最終的に辿り着こうとするホントウのゴール、「文化の型」
あなたも、私もそのピースであること。
「ユメ」を拾い集めて、繋いで、「物語」を再構築するのです。
それは果たして、
カタチとなることなのか、もしくはカタチから解き放たれることなのか
揺れる、揺れる、揺れ続ける、
その間中いつだって
「ニンゲン」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
▽タイトル画像
おもちゃの家とサンタクロースのお人形 - No: 28269594|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
▽今回の音楽
