雑記11「国家」(日本国憲法について)
他面、国家を形成するアポロンはまた個別化の原理の精霊であり、国家と郷土心は個別的人格の肯定なくしては生き得ない、ということも同様に確実だからである。
あなたは日本国憲法に何が書かれているか、まじまじと眺めたことはありますか?
私が特定の政治思想へ読者を誘導しようとはしていないことは何度か記事を読んでいただいた方ならご理解いただけると思います。
その上でここでは、どのような印象を持つのも個人の自由であると前置きをし、日本国憲法をほんの少しだけ一緒に勉強していきたいと思います
非常に奥が深くて興味深いですから。
※あくまで私個人の解釈が強いことを先に述べておきます。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
よく法律はその法が適用される各領域の国民が守るもの、憲法は国が守るものとして説明されます。上記前文の「われわれとわれら子孫」とは日本国民のことであり、日本国憲法は「われわれ」から国に対して宣言するものである、ということです。
さらには先の「戦争の惨禍」が起こったのは「政府の行為」、即ち主権が「国家」(天皇)にあったためだと主張し、それを繰り返さないために「主権」はあくまで国民にあって、国政の権威はあくまで主権を持つ国民が政府に信託していることに由来しているのだと宣言しています。
そして、それは「人類普遍の原理」であるとも宣言している。
その宣言に「反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」、とも述べています。
ここが少し面白いと私は感じるのですが、「排除」する対象として「憲法」が含まれています。
つまり、憲法が憲法自身に反するケースを想定している、ということです。
たとえば後に改憲や修正されることで「人類普遍の原理」に反してしまうことや、言葉という「箱」に組み込まれた「力(概念・プログラム・神)」の多態性を利用して別の解釈が生じることをある程度予測していているのではないでしょうか。
それゆえにこの文言に「憲法」が含まれていると考えます。
逆にいえば、「人類普遍の原理」に反していないのであれば、改憲や修正、解釈の変更はある程度想定されているとも読めます。
ここまででなんとなく憲法の読み方が掴めてきたのではないでしょうか?
それではさらに前文を読み進めましょう。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
私が個人的に含蓄に富んでいると感じるのが上記の文言です。
まず、「人間相互の関係」、たとえば「私」と「あなた」の間に「関係」を繋ぐ「何か」があることを「深く自覚する」と述べています。
その「何か」とは「崇高な理想」で、
その「崇高な理想」とは、
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し(中略)、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」
していることだといえます。
そして何より興味深いのが、その「崇高な理想」が「私」と「あなた」を繋いでるわけですが、その繋がりを「支配」と呼んでいるということです。
さて、ここで是非とも(うんざりしている方もいるかもしれませんが)、「善」と「悪」をグルグルと巡らせてみていただきたいのです。
「私」と「あなた」を繋いでいるものは何?
「崇高な理想」?もしくは共同の「幻想」?洞窟に映る影(迷信)?
その「何か」を「支配」というのは「善」? それとも「悪」?
もし「崇高な理想」が「支配」しているのだとするなら、
「支配」は「善」? それとも「悪」?
もしも「支配」や「幻想」や「迷信」なくして国規模の「私たち」を維持できないのだとしたら、
「私たち」は「善」? それとも「悪」?
これらのDはあくまで〜「家の」というような、ofのような使い方と認識されています。つまり出身や所属、起源、そういった意味ということです。
・DOMINANT 支配
15世紀中頃にさかのぼる dominauntは、四番目の天使の階級の名である ordre dominauntに由来しています。
これは古フランス語の dominant(13世紀)からきており、ラテン語のdominantem(主格は dominans)の現在分詞形から直接派生し、dominari「支配する、統治する」を意味し、これはdominus「主、支配者」からきています。
さらにdominusはdomus「家」から派生しています(PIEの根 *dem-「家、家庭」から)。
即ち、西欧の価値観では伝統的に「家」(「私たち」の最小単位)と「支配」が共通の「何か」からの顕れであるともみれます。
その「何か」とはもしかしてアポロン?
それとも「ディオニソス」?
私の記事においては神とは「力(概念・プログラム)」のことであり、「あちら側(無意識)」から零れ落ちてきて意識下に欠片が認識されるようなものとしてお伝えしてきました。
零れ落ちた欠片は個体ごとの自我のカタチにあうように意味付けされて調整されるため、「こちら側」で神を解釈しようとしたときに内容が多岐に渡るようになる、ということです。
もしくは………
この二つの存在は非常に複雑に絡まり合っています。
ディオニソスのものがアポロンとして語られたり、その反対もしかり。
奪ったり、奪われたり
自らの手柄にしたり、手柄にされたり
利用したり、利用されたり
一つになったり、別れたり
タタカッタり、仲直りしたり
敵対してるようにみえて
実は手を組んでいたり
故にマルドゥクもディオニソスのようにもアポロンのようにも見える存在になるのです。
エンキ=プロメテウス=アポロン(ニギハヤミ))にコンプレックス(アポロン′=アーリマン=マルドゥク(ニギハヤヒ))が生じる。
フロイトがトラウマと表現したもの、ユングがコンプレックスと表現したもの。
そもそも、「私たち」を繋いでいるのはそんなに冷たいものなのだろうか
「あの頃」はそうではなかったのではないだろうか
「あの頃」はどこにいってしまったのだろうか………
さてあまりに独自の解釈に突き進んでしまったので話を元に戻します。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
先ほどの「崇高な理想」をさらに詳しく述べた上で、全力をかけて達成することを誓っています。憲法は国民から国政に対しての命令という扱いなので、この誓っているのは国政ではなく国民、つまり私やあなたである、ということです。
自国のことに専念して他国を無視してはならないことを含め、これまで述べられてきたことは「普遍的」な「政治道徳の法則」であること。
そして日本国民は「信ずる」。
「普遍的」な「政治道徳の法則」に従って「主権を維持し」て、「他国と対等関係」に立とうとするのが「各国の責務」であると。
ここで重要なのは「普遍的」な「政治道徳の法則」とはこれまで述べてきた諸々ですが、その核が、
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」
ということで、国民に主権があるということでした。ですから、主権が国民に無い国があったとしたら、ある意味「信じられない国」とここまでの解釈上はいえるでしょう。
もう一ついうなら
自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
「他国と対等関係に立たうとする各国」、
即ちあらゆる国と国は対等関係に立とうしているが、現状そうではないという「現実」的な認識が暗に明記されています。
つまり拡大解釈するなら、各国は対等関係でない「現実」を覆そうとする可能性があるため、それに対する布石として、「普遍的」な「政治道徳の法則」に従うことが責務であると信じている、と宣言しています。
対等関係に立とうとする過程の中で自国の主権を放棄したり(自国の主権が国民にあることが普遍的な政治道徳の法則という立場、故に国民に主権がない状態を作ること)、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍」が起こりうるため入れ込んだ一文と考えますが、あくまで憲法は国民から国政に対しての命令なので、各国に対しての宣言ではなく「信ずる」となっています。
各国はそうであると私たちは信じているから、国政もそれに従いなさいよ、ということです。
その上で
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
ということなのですが、
ところであなたは「誓った」ことがありますか?
冒頭で述べたように日本国憲法に対しては様々な解釈や印象があり、それぞれを否定したり、肯定したりするつもりはありませんが、一つ知っておいていただきたいのが、「憲法とは成文法ではなく慣習法である」ということで、明記されてなくても慣習としてあればそれは「力」を持ちますし、明記されていても慣習でなくなれば「力」を失うのです。たとえばドイツのワイマール憲法は廃止されることなくヒットラーを生み出したのですから。
即ち、「歴史」同様、
「宗教」同様、
「お金」同様、
「認識」のお話なのです。
多数派がどう認識しているか、というお話です。
はっきりいって、「善」と「悪」を巡らせる、だとか、
「支配」とはなんだとか、
「私たち」と「彼ら」だとか
理屈っぽいお話なんて、まったく意味がなくてうっとおしくさえ感じるでしょう?
それは「認識」が世界を構築していることが腹にまで落ちていないからだと思いますが、「認識」があなたを守っていた、という側面もあることを頭の片隅にいれておくと良いでしょう。
そこに遅効性の毒が含まれている可能性も含めて。
ここまで読んでいただきどうもありがとうございました。
結局何が言いたいのかといえば、
あなたがどう認識するのかということです。
意味がないと認識されれば本当に意味(力)がなくなるし、
意味があると認識されればホントウに意味(力)をもつのがこの世界だといえるでしょう。
あなたは何に意味を与えますか?
何から意味を剥奪しますか?
政治について、そのタタカイのバトルフィールドにわざわざ立つことはお勧めしませんが、多数派が今後どのような認識に流されるかについては注意深く観察し、できる限り巻き込まれないようにするといいでしょう。
巻き込まれないようにする、とは無知でいるということではないので、都度都度関心は持つようにしていけるといいと思います。
どうもありがとうございました。
