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「多数派と少数派」呪縛解放⑥ 宗教という鎖 🈭「ヤコブのユメ」


〇はじめに


前編はこちらから(特に内容に関連はありませんので購入されなくて結構です)。

※この記事は特定の宗教に対して批判したり、反対に入会を促すものではありません。


〇問、信仰は何故必要か(問いの方向性の変換)


信仰は何故必要なのでしょうか。

そのような問いは基本的に他者に向けられており、基本的にどのような回答が返ってきたとしても、この国では多くの場合「「彼ら」の理屈だ」、という結論を導き出すことでしょう。

故に質問の方向を他者ではなく自身へと向けることによって、よりあなたにとって分岐点のへと、この問いのカタチを変えていけたらと思います。

即ち、

何故あなたは信仰が無くて生きていけているのか


ということです。


〇マジョリティ(多数派)宗教


あくまで私の捉え方ではありますが、あらゆる宗教は大きく分けて2種類が存在し、それはマジョリティ(多数派)かマイノリティ(少数派)かの違いで、方向の違いはあるものの、同じくその根底のテーマは、「私」を超えてゆけるか、ということです(この「私」とは「自我」のことです)。


マジョリティの宗教、即ち共同主観を構築するための宗教(カトリックや大乗仏教、国家神道など)。

もしくは↓

小中高を卒業し、就職もしくは進学、30代前後で婚姻し、子どもを育て上げ、60代まで働き、余生を好きに過ごすことが人生の成功であり、それができなければ失敗…。

呪縛解放⑥ 宗教という鎖「前編」|

文化とも言ってよいものかもしれませんが、「私たち」、「みんな」という連帯感を生み出すものです。

けれど個人の意思の力、即ち「自我」の及ぶ範囲などちっぽけのものであり、目先の快楽や欲望、焦りや怒り、嫉妬、不安、悲しみ、勘違い、あと一歩が踏ん張れない弱さにより、「みんな」を裏切ってしまうかもしれない。
だからマジョリティ宗教の信仰者たちは神に祈るのです。
どうか「私」の弱さを超えていく力を、私に与えてください、と。
あの人のことを想うと「力」がわいてくる。
あの人にこう言われて「力」がもらえた。
その「力」とは神から由来するものだといえるのです。
たとえそれが、神に祈っているのだと明確に意識していないとしても。


〇マイノリティ(少数派)宗教


マイノリティの宗教、即ち共同主観(「社会」)や『社会』という「洞窟」を抜け出すための宗教(グノーシス派など、少数や個人の儀式や修行によるもの(上座部仏教、修験道))。

たとえば以下のようなもの


「自我」は周囲の環境に合うようにカタチを変える、そして同様にまだ未規定の「欲動」を言葉やカタチに整えることで安定化する。

この安定化とはカタチを保てるように、カタチにそぐわない要素を無意識領域に抑圧し、あらゆる例外を無視してA→B→C→Dの簡単な図式へと自身の世界に対する認識(その個体にとっての世界そのもの)へと変貌させる。

世界のカタチを捻じ曲げることであるとーそれこそが「表」であるとーお伝えしてきました。

そして、マイノリティの宗教はそのA→B→C→Dを「ブッコワシテ」、

真実の世界に「観測点」が突入し、「表」を成立させるための、A→B→C→Dといった、各要素を繋いでいる矢印が崩れ、AはDなりえるし、BはBのままでA→B→C→Dをすでに内包しうるし、Cは存在しないように消えていってしまうし、A=Cであるし、突然Zが現れて実はAもBもCもDもZであったことがわかったりする。

まんが日本昔話「きつね女房」考察(1Q84、エヴァンゲリオン、千と千尋もちょっとやるよー)

ということでした(それを再統合(「表」へ戻ってくること)ができるかはさておき)。

この目的は即ち、

ディオニソス的人間は、存在における日常の限界と制限を取り除くことを通してそれを追求する。かれは、かれの五感が課する限界からのがれて、他の経験の状態に入り込むことによってもっとも価値のある時間を得ようとするのである。ディオニソス的人間の欲望は、個人的経験や儀式において、ある種の精神状態に迫ることであり、極端に至ることである。

「文化の型」ルーズ・ベネディクト  米山俊直訳(講談社学術文庫)

荒々しい表現の言葉で表すのであれば「革命」

大学という形態の中で机は机であるけども大学が壊れたらそれは机でもなんでもないわけで。それは一つの事物ではないですか。そういった事物に対して我々が一方的に関係づけた場合、身の回りのすべてが武器になりうるし何にでもなりうる。その関係の逆転に革命があるのであろう。そのときはじめて空間が生まれるという事ですよね。

三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜 から、三島氏と芥氏の討論の抜粋と私の意見|


穏やかな言葉で表すのであれば「道」と言えるでしょうが、


そういった「道」ならともかく、洗練されていないそれらは基本的にマジョリティにとっての「穢れ」にあたるものであるのです。

穢れ汚れ(けがれ)とは、忌まわしく思われる不浄な状態。疫病性交などによって生じ、共同体に異常をもたらすと信じられ避けられる[1]

穢れ - Wikipedia

〇穢れ(クマ)と、「私」を超えていくことについて


「穢れ」の本質とは「カタチが崩れていくこと」だといえるかもしれません。もちろん、それがホントウに正しいカタチならば「穢れ」を遠ざけるのは生物の「正常」な防衛反応といえますが、もし見たくない「現実」を「穢れ」として遠ざけて、「それがニンゲンとしての正当な反応だ」、「『社会』を生きて行くことはそういうことだ」、「大人になるとはそういうことだ」などと誰かを黙らせて、自分自身すら騙しているのであれば、それはいつか「イタイメ」をみることになってしまうのかもしれません。


これらの点で基本的にマジョリティはいつもマイノリティ及び、その意見を「穢れ」的なものとして扱い、マイノリティはそれ故にマジョリティを憎む。もしくはマイノリティがマジョリティを憎んだのが先なのか。

卵が先か、鶏が先か、はさておき、ここでお伝えしたいことは、基本的な型として、マジョリティ宗教は公に対しての方向性で「私」を超えていこうとする。マイノリティ宗教は自身に対する方向性(実のところより大きな規模での公かもしれないが)で「私」を超えていこうとする。

上記で述べた通り、方向性は違えども、「私を超えていく」ことに関しては、同様に信仰のベースにあるものといえるでしょう。

つまり、「私(自我)」などというちっぽけなものを鼻から信用していないから信仰が必要になるのです。

では冒頭の質問に戻り、信仰は何故必要なのか、反対に信仰が必要ない状況はどのようなものかと、といえば、「私(自我)」の範疇内で生きて行けるように「安心・便利・快適」に制度やシステムを整えて、それに寄りかかっていさえすればカタチが保たれている状況、それであれば、「私」の外側など意識に昇ることすらないので、故に「私」を超えていく必要性も生じないのです。そのような個体に信仰も必要ないでしょう。

そういうことなのです。

けれど「安心・便利・快適」な制度の維持はもう無理であることが
年々、月々、日々
私たちの前に突き付けられている現状であり、
それを突き付ける人々を「穢れ」としているのか、
突き付けられてもわからない人々を「穢れ」としているのかは、さておき、
そのような状況で、個体によっては「信仰」の価値が重みを増しているのです。

さてその上でこの記事によって表現したかったことへと移りますが、冒頭のとおり、特定の宗教へ入会しろ、などとは言いませんし、個人的でも、公け的にでもいいのですが、「私」を超えていくための信仰を持っていていただきたいのです。

そういったものを「異常」と徹底的に刷り込まされてきた私たちですから、なかなか難しい事は承知しています。

けれどこの先、信仰を持っているか、持っていないかで、その個体の生存確率が大きく変動する可能性があるのです。

だからといって、ただ生き残るために信仰してる気になって「カイン」となるのも問題かとは思いますので、あくまでゆっくりと信仰の意味を咀嚼して内側に取り込んでいただきたいのです。


そのヒントになるかはわかりませんが、今後の内容に関わってくる可能性もあるので、旧約聖書のヤコブについて最後にお話しさせていただけたらと思います。



〇ヤコブの物語


イサクと妻リベカの間には長らく子が生まれませんでした。
故にイサクが主に祈り願うと、リベカは双子をみごもります。
しかしその子らはリベカの胎内で押し合ったのでリベカは主に尋ねた。

主の言われることは即ち、彼女の胎内に二つの「国民」、正確にいうなら、その「種」があり、兄の民は、弟の民に仕えるだろう、ということでした。

兄はエサウ、弟はヤコブと名付けられました。
ヤコブとは「出し抜くもの」、つまり「足を引っ張るもの」の意味であり、兄のかかとをつかんでいたので、そう名付けられたのでした。

その名の示す通りか、はたまたエサウが長子の特権を軽んじたのか、ヤコブは兄が飢え疲れて助けを求めた際、長子の特権を兄から買い取ったのでした。

長らく年月が過ぎ、イサクは年老い、その命が長くないことを自身で悟ると、エサウを呼んで言った。

「お前の武器をもって野に出かけて、わたしのために肉をとってきておくれ。
わたしの好きなおいしい食事をつくって食べさせてくれ。私は死ぬ前にお前を祝福しよう。」

イサクはエサウを愛していたのでした。

それを隠れて聞いていたのはリベカで、彼女はヤコブをより愛していたので、このことをヤコブに伝え、エサウと偽って肉を父に食わせるように言ったのでした。イサクは老いて目がかすんでいたのでわからないであろう、ということでしたが、エサウは毛深く、ヤコブは肌が滑らかだったので、触れられてしまえばバレしまい、父から呪われることを、ヤコブは恐れますが、リベカはその呪いは自身が受けると言って、ヤコブにその偽装を行わせたのでした。

父は彼に祝福した。

「ああ、わが子のかおりは、主が祝福された野のかおりのようだ。
どうか神が、天の露と、地の肥えたところと、多くの穀物と、
新しいぶどう酒とをあなたに賜るように。
もろもろの民はあなたに仕え、もろもろの国はあなたに身をかがめる。
あなたは兄弟たちの主となり、あなたの母の子らは、あなたに身をかがめるであろう。
あなたをのろう者はのろわれ、あなたを祝福する者は祝福される」

口語訳聖書 旧約聖書,創世記27,27-29 日本聖書協会 

祝福が終わり、ヤコブが父の部屋を出るとすぐにエサウが戻ってきた。
エサウは事情を知り大声で叫んだ。

「お父さん、わたしを、わたしのことも祝福してください」

それは叶いませんでした。

エサウは声をあげて泣きながら言いました。

「父よ、あなたの祝福は一つだけですか、お父さん、わたしも祝福してください」

イサクのいう事は、イサクの住家は地の肥えたところから、そして、天の露から離れた場所になること、そして剣を持って世を渡り、弟に仕えることになる、ということでした。

兄は弟を憎み、殺すことを企てる。それを知ったリベカはヤコブを自身の兄、ラバンの元に逃したのでした。

その旅の中でヤコブは「ユメ」を見たのでした。


ラバンはヤコブを歓迎した。
ラバンの元には二人の娘があった。

姉はレア。彼女は目が悪かった。
妹はラケル。彼女は美しかった。

ヤコブはラケルを愛した。ヤコブは7年の間ラケルのために働いた。
期日が満ちヤコブはラケルを妻にした。そして彼女と共に寝た。

しかし朝になってみると、それはレアであった。
ヤコブはラケルのために賢明に働いたのだということをラバンに訴えた。
ラバンのいうことは、その国では妹が姉より先に嫁ぐことはないのだという。レアと一週間過ごすなら、ラケルを妻に与える、ということでした。
結果ヤコブはレアと一週間過ごし、ラケルを妻としたが、彼はレアを嫌った。

主はレアにはヤコブの子を授けたが、ラケルには授けなかった。
レアは三人の子を産んだ。ラケルは嫉妬しヤコブに対して子を産ませないことを抗議し、自身に子を与えないのであれば自死するとおどす。

ヤコブは言った。あなたに子を宿らせないのは私ではない、神であると。

そこでラケルは仕えの女性にヤコブの子を産ませて自身の子とした。
「神は私の訴えを答えて子を賜った」としてダンと名付けた。
仕えの女との第二子には「激しい争いで姉に勝った」としてナフタリと名付けた。

そのようにしてレアとラケルはヤコブの子を生みあった。そのようにして生まれた子らは後にイスラエル12部族と呼ばれるようになる「種」であった。

そうしてヤコブがラバンの元に身を寄せて長くたつと、次第にラバン及びその家族の富はヤコブに多く集まるようになっていった。それにつれてラバンがヤコブに向ける表情は以前のようではなくなっていた。

主はヤコブに対して、故郷に戻ることを指示する。ヤコブはその妻たちと子どもらを連れて、その財を携えて故郷へともどった。ラバンは娘たちと孫たちとテラフィム(家の守護霊)を失った。

主の使者のいうことには兄エサウは400人を率いてヤコブを待ち構えている、ということだった。ヤコブは恐れ、エサウに使者を遣わして贈り物を捧げその様子を見ることにした。

ヤコブは恐れからか、妻や子どもら含め、連れ人達を先に川を渡らせて一人で川岸に残っていたが、一人のものと夜明けまで彼は取っ組み合いをした。そのものはヤコブの腿のつがいを触ると、ヤコブの腿はそのあいだ外れた。そのものは「夜が明けるから私は去る」といった。ヤコブはそのものが祝福を与えてくれるまではかえさないという。

そのものは言った。

「あなたの名前はなんだ」

彼は答える

「ヤコブ(出し抜く者)です」

そのものは言う

「あなたの名前は今日からイスラエル(神の勝利)だ。
あなたは神とタタカイ、人とタタカイ、そして勝利したから。」

そのものはヤコブを祝福した。

ヤコブは足が不自由になった。

ヤコブは目を啓き、エサウが400人を引き連れてくるの視たが、もう彼に恐れはなく、自ら先頭に立って兄の元へ向かい出た。

すると兄は走って迎えに来て、ヤコブを抱き、ともに泣いた。

エサウは長い年月の中でヤコブを許していた。

そうして久方ぶりに兄と弟は共にその仲間たちを紹介しあい、これまでと、これからのことを話し合ったのでした。

おしまい


〇最後に


ヤコブは足が不自由になった。
彼には今後「杖」が必要になるのです。
その「杖」こそが信仰である、ということです。

「私」を超えて歩いていくために。





最後まで読んでいただきありがとうございました。





✡︎関連


・詩

テレビやラジオじゃ
愛の歌の大行進いろんな形で驚かす

共通の痛みは
親近感を増す
対処の仕方は色々だけど

愛は最後の杖になる
健康な人には必要ないかも
心の病に一番きくね
まるであやしい宗教みたい
時にはよけいに気が狂う
最後まで真相はわからずじまい

80.0/26 病 (AZUKI NANA photo & anthoiogy)

・今回の音楽





・兄と弟


https://note.com/key_history_ch/n/ne5c7bf7a4289



 そして第一のアルコーンは、アダムと共に若い女が立っているのを、また、生命の光のエピノイアが彼女の中に現れたのを見た。そしてヤルダバオートは無知でいっぱいになった。
 しかし、万物のプロノイアは、(これに)気がついたとき、何人かの者を送り出した。そして彼らはエバから生命を抜き取った。
 それから第一のアルコーンが彼女を辱めた。そして彼女によって、一番目と二番目の二人の息子、すなわち、エロヒームとヤウェをもうけた。エロイー(ム)の方はの顔をした者、ヤウェの方はの顔つきをした者である。その一方は義なる者であるが、その一方は不義なる者である。彼はヤウェの方を火と風の上に据え、エロイームの方を水と土の上に据えた。これら(二人)を彼はカインとアベルの名で呼んだ。
(中略)
ところで、その二人のアルコーンを彼はいくつかの要素の上に立てて、彼らが洞窟を支配するようになった。

新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄(岩波文庫 青825-1) ヨハネのアポクリフォン 68

宮造り 静かに居ます
紀志井国 橘植ゑて
常世里、 先に捨てたる
ヒルコ姫 再び召さる
花のもと 歌を教ゑて
子を生めば 名もハナキネ(スサノオ)の
人なりは いざち雄叫び
重播きや 世の隅(くま)なせば
母の身に 捨て処なき
世の隅を わが身に受けて
諸民の 欠けを償ふ
三熊野の 深山木やくを
除かんと 生む火の神の
カグツチに 焼かれてまさに
終わる間に 生む土の神
ハニヤスと ミヅミヅハメぞ。

ほつまつたゑ (上巻) 鏑邦男 (著



エレン、ジーク


・ヤコブのユメ

Art from the Future


•タイトル画像

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