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死ぬ前に人は何を後悔するのか? 特養で100人を看取ったHSP作業療法士が答える、今からできる7つのこと

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「死ぬ前に人は何を後悔するのか」
この問いに、本気で向き合ったことがある人は少ないと思う。
普段の生活の中で、自分の最期を想像することはあまりない。仕事のこと、家族のこと、明日のこと。考えることは目の前にいくらでもあって、「死」という遠い話に思考を向ける余裕はない。
私は作業療法士として16年、特別養護老人ホーム(特養)で機能訓練指導員として働いてきた。これまでに100人近くの方の最期に立ち会ってきた。
そして私自身、HSPで、人の感情や場の空気を人より深く受け取る気質を持っている。
その二つの視点が重なる場所から見えてきたものを、今日は読者の問いに答える形で書いてみたい。
きれいごとを並べる記事ではない。焦らせるための記事でもない。ただ、現場で繰り返し感じてきたことを、できるだけ正直に書こうと思う。
読み終わったときに、明日の過ごし方が少しだけ変わるかもしれない。そんな静かな記事になればいい。

Q1. 死ぬ前に後悔することって、本当にあるんですか?

ある。これは断言できる。
ダイヤモンド・オンラインで連載された『後悔しない死の迎え方』という本がある。16年にわたって医療現場で1000人以上の患者さんとその家族に関わってきた看護師の方が綴った本だ。「後悔しない」というタイトルそのものが、後悔は確かに存在するという前提に立っている。
私自身、特養で100人近くを看取ってきて、「この人、最期に後悔していたな」と感じる方を何人も見てきた。
忘れられない方がいる。仮にAさんとしておく。
元々職人気質の方で、面会に来る娘さんにも「わざわざ来るな」とぶっきらぼうな態度ばかりとってきた人だった。亡くなる数日前、食事も水分もほとんど摂れなくなり、一日の大半をウトウトして過ごしていた。
その日、娘さんが「お父さん、来たよ」と手を握った瞬間、朦朧としていたAさんが、ほんの少し目を開けた。
そして、たった三文字を絞り出した。
「……ごめん、な」
ずっと素直になれなかった自分への後悔と、最期の最期でようやく届いた謝罪が、その三文字に凝縮されていた。私はその場で、静かに手を止めた。
Aさんの後悔は何だったのか。
私はそれを「人に頼れなかったこと」だったと思っている。
強がり続けて、感謝を言葉にできず、不器用なまま生きてきた。それが悪いことだとは思わない。でも、最期の瞬間に「ごめん、な」が出てきたという事実が、何かを物語っている。
後悔は、元気なうちは見えない。身体が動かなくなり、言葉も満足に紡げなくなり、ただ天井を見上げるだけの時間が増えたとき、それはじわりと滲み出てくる。

Q2. 幸せな最期を迎えた人と、そうでない人の違いは何ですか?

recovery-groupに、看取り経験100人以上の看護師さんが書いた記事がある。「幸せな人生だった」と口にされる方には3つの共通点があるという。
ひとつは、周りへの感謝。「ありがとう」を言える方。 ひとつは、周囲を頼れる方。 ひとつは、自分の意思を表出できる方。
私の現場感覚としても、まさにその通りだと思う。
100人近くを看取ってきた中で、穏やかに逝かれた方を一人挙げるなら、つい最近書いた記事の中の方になる。私の小学校の同級生のお父さんだった。
パーキンソン病を抱えながら、特養で4年間過ごされた方だ。歩行器を使ってでも歩きたいという執着が強くて、夜中の1時に自主訓練でこけては事故検討会の議題になっていた。機能訓練が終わるたびに「お疲れさん」と言って、はちみつ入りのコーヒーを私におごってくれた人だ。
その方は野球が大好きだった。高校野球、メジャーリーグ、阪神タイガース。朝、機能訓練でフロアをラウンドすると、自然と野球の話になった。パーキンソン病で表情が乏しくなる症状があるはずなのに、その方は私には分かりやすく笑ってくれた。
亡くなる10日前まで、野球の話で笑ってくれた。
亡くなる5日前まで、酸素マスク越しに、辛うじてうなずいてくれた。
「森下打ったよ」と声をかけると、口元がわずかに動いた。それが最期のコミュニケーションだった。
その方の最期は、穏やかだった。
なぜそう言えるのかというと、最期まで自分の好きなことを諦めなかった人だったからだと思う。歩きたいから歩く。野球が好きだから観る。娘さんに会いたいから電話する。全部、自分の意思で動いていた人だった。
自分らしい「好きなこと」を最期まで持っていた人は、表情が穏やかなまま逝かれる。これは100人近く看取ってきた現場感覚として、確かにそう感じている。

Q3. HSPだから気づけた"最期の本音"はありますか?

これは正直に答えたい。
HSPの感覚として一番大きいのは、表情のわずかな変化を拾えることだ。
普通だったら見過ごしてしまうような、口元の0.1mmの動き。目元の力の抜け方。視線の方向のわずかなズレ。そういうものを、私の脳は無意識に拾ってしまう。
森下打ったよのお父さんが、パーキンソン病で表情が乏しいはずなのに、私には分かりやすく笑ってくれた、というのは、たぶんそういうことだ。普通の人には見えにくい笑顔も、私には見えていた。それだけのことかもしれない。
ただし、ここで誠実に書いておきたい。
呼吸のリズムや空気感を読み取るのは、看護師の方が圧倒的に得意だ。バイタルの変化や全身状態の評価は、医療の専門職としての訓練の差が大きい。私が「HSPだからすべての変化に気づける」とは思っていない。
それから、もう一つ。
利用者さんの微細な筋緊張から「この人は今、痛みを感じているかもしれない」と察知するのは、HSPの感覚というより、作業療法士としての専門性だ。身体の動きや筋肉の状態を見続けてきた16年の蓄積が、そう判断させている。
だから正確に言うなら、「HSP×作業療法士」という二つの視点が重なる場所だからこそ拾えるものがある、という話だ。
繊細さだけでも、専門性だけでもない。両方が同じ人間の中にあるから、誰かの「最期の本音」を受け取れる瞬間がある。
これは、私自身も最近になって整理できてきた感覚だ。

Q4. 親や家族の最期にどう向き合えばいいですか?

これは、たぶんこの記事を読んでくれている人の中で、一番気になる質問だと思う。
日経スタイルに、看取りのプロである小沢さんが対話術について語った記事がある。家族として最期にどう向き合うか、というテーマで読まれている記事だ。
ただ、私は現場で見てきた人間として、少し違う角度から答えたい。
特養で看取り期になった利用者さんがいると、まずケアマネージャーから家族に連絡が入る。「面会に来てあげてください」と伝える。でも、来るか来ないかは家族次第だ。
これが正直な現実だ。
毎日通ってくる家族もいれば、何ヶ月も顔を見せない家族もいる。連絡を入れても来ない方もいる。それぞれに事情がある。遠方に住んでいる、子育てで手が離せない、そもそもの関係性が良くなかった、いろいろある。
そういう光景を見ていると、その人にとって家族はどういう存在だったのかが、自然と見えてくる。
だから私は、「面会に必ず行ってあげてください」とは言わない。
でも、もし行けるなら、伝えておきたいことがある。
何もできなくていい。ただ、そばにいてあげてほしい。
そして、声をかけてあげてほしい。聴覚は最後まで残ると言われている。返事ができなくても、聞こえている可能性が高い。「来たよ」「大丈夫だよ」「ありがとう」、何でもいい。
在宅で看取る方の場合も同じだ。声かけは大事だ。意識がないように見えても、最後まで耳は届いていることが多い。
そして、もう一つ。
行けなかったとしても、自分を責めないでほしい。
人は必ず死ぬ。そのタイミングは選べない。「あの日行けばよかった」「もっと話せばよかった」という後悔は、誰にでも残る。それは仕方のないことだ。
罪悪感や後悔を抱えすぎると、残された人の人生まで重くしてしまう。
「やれることはやった」と納得する家族と、「もっとこうしてあげればよかった」と後悔する家族の違いは、結局のところ、心の持ちようだと思う。事実そのものより、それをどう受け止めるかの方がずっと大きい。
人は必ず死ぬ。だからこそ、罪悪感は持たないでほしい。これが、100人近くを看取ってきた現場からの、私の本音だ。

Q5. 死を意識すると、なぜ"今"が変わるんですか?

正直に書く。私自身も、死生観については整理しきれていない部分がある。
人は必ず亡くなる。亡くなり方も人それぞれだ。
老衰で穏やかに逝く人もいる。癌で痛みや苦しみを伴いながら逝く人もいる。もちろん今は緩和ケアが進んでいて、麻薬性鎮痛薬で痛みはコントロールされる。それでも、最期が穏やかかどうかは、本当にその人次第だ。
私自身、もし明日「あなたは看取り期です」と言われたら、後悔せずに死ねるかと聞かれたら、正直疑問だ。今はまだ後悔しか残らない気がする。
特別に「どこかに行きたい」とか「これをやり残した」というのはあまりない。
ただ一つだけ、子どもの成長は見届けたい。
7歳の娘がこれからどう育っていくか、それだけは見たい。これは正直な気持ちだ。
そう考えると、「死を意識すると今が変わる」というのは、たぶん「自分にとって本当に大切なものが何かが見える」ということなんだと思う。
100人近くを看取ってきて、繰り返し感じることがある。
最期は枯れるように逝く。
ほぼ飲まず食わずになる。声も出にくくなる。動けなくなる。それでも、それまでに「自分が好きなこと」「本人らしいこと」を続けてきた人は、表情が穏やかであることが多い。
だから家族にお願いしたいのは、看取りになったら、できるだけその人が好きだったことを提供してあげてほしいということだ。
好きな食べ物を一口でもいい。好きな飲み物を少しでもいい。好きだった音楽を流してもいい。
「基礎疾患があるから無理」「もう食べられないから無駄」と諦めないでほしい。看取り期になったら、改善することはほぼない。だからこそ、できるだけ後悔ないように、その人の「好き」を最期まで届けてあげてほしい。
死を意識することの意味は、たぶんそこにある。「最期に何を残してあげたいか」を考えることが、今この瞬間の関わり方を変える。

Q6. 看取りの仕事をしていて、自分がしんどくなることはないですか?

東京都健康長寿医療センター研究所の研究で、衝撃的なデータがある。介護職員の64.6%が精神的健康が良くない状態にあるというものだ。看取りケアに対する積極的な態度や良好な職場環境が、メンタルの健康と関連しているという。
これは特養という現場の重さを、データで示している数字だ。
では、私自身はどうか。
正直に言うと、利用者さんの死で私自身がしんどくなることは、あまりない。これは嘘ではない。
ただし、これはあくまで「機能訓練指導員」としての見解だ。一番近くで介護をしている介護職員さんは、また違うかもしれない。毎日の食事介助、排泄介助、入浴介助で、私より圧倒的に近い距離でその人と関わっている。だから感じ方も違う可能性がある。
私の場合、機能訓練という関わり方の中で、利用者さんに「ありがとう」と感謝の気持ちを持って接してきた。だからこそ、最期がきたとしても見送ることができている。もらい泣きしそうになる瞬間はある。でも、それは「しんどい」とはまた別の感覚だ。
そして、HSPで看取りの仕事をしている人に伝えたいことがある。
看取り期に入っていなくても、利用者さんがある日急に亡くなることはある。心筋梗塞、脳卒中、誤嚥、いろいろな理由で。
そういうとき、自分を責めそうになる。「もっと早く気づけたら」「あの時こうしていれば」と。
でも、私はこう思っている。
私がその人の寿命を延ばせるわけではない。
これこそ、アドラー心理学で言う「課題の分離」だ。その人の寿命は、その人の人生の中の出来事だ。私はそこに対して、できる限りの関わりをするだけ。それ以上は背負わない。
常に感謝の気持ちを持って関わっていれば、急にお別れがきたとしても、「その人にとって、それが寿命だった」と受け入れられる。
これがHSPで看取りの現場にいる人の、私なりの自分の守り方だ。

Q7. 今日から私が変えられる、たった1つのことは?

最後の質問だ。
これを読んでいる「これから老いていく世代」に向けて答えたい。
利用者さん本人としては、人に頼ってほしい。これが現場から見ていて一番強く思うことだ。
ただ、ここに難しさがある。
今特養にいる80代90代の方々は、戦後の混乱を生き抜いてきた世代だ。我慢することが当たり前で、人に弱音を吐かないことが美徳だった世代でもある。だから、最期になって「人に頼ろう」と言っても、なかなか今更それは難しい。
団塊の世代もまた、高度経済成長と競争社会を生き抜いてきた人たちだ。「自分の力で何とかする」という価値観が強い世代だと感じている。だから、これから老いていくこの世代も、人に頼ることへの抵抗感は大きいかもしれない。
だからこそ、もっと若い世代、つまり今30代40代50代の人たちは、今のうちから「頼る練習」をしておいた方がいい。
小さなことでいい。「これ、お願いしてもいい?」「手伝って」と言える練習。「ごめん」じゃなくて「ありがとう」で受け取れる練習。
それが、最期の瞬間に「ごめんなさい」じゃなくて「ありがとう」と目を閉じられる生き方につながる。
そして家族の方へ。
身内が看取りになったら、本人が好きだったことを、できるだけ詳細にスタッフに伝えてほしい。
「父はジャズが好きだった」「母は梅干しが大好きだった」「祖父は阪神ファンだった」、何でもいい。スタッフに伝えてもらえれば、施設側で用意できることもある。直接買ってこられないものでも、こちらで準備できる場合がある。
面会も、来てほしいとは言わない。でも、後悔ないようにしてほしい。
そしてもし来られなかったとしても、自分を責めないでほしい。
これが、現場から伝えたい、たった一つのことだ。

おわりに

ここまで読んでくれた人へ。
この記事は、焦らせるために書いたものじゃない。
「死ぬ前に何を後悔するか」と考えると、つい「今のうちに何かしなきゃ」と焦りそうになる。でも、そんなふうに自分を追い込まないでほしい。
人は必ず死ぬ。これは変えられない事実だ。だからこそ、その事実を受け入れて、今日を少しだけ穏やかに過ごせるなら、それで十分だと私は思っている。
そして、もし今、身内を施設に預けている方がこの記事を読んでくれているなら、伝えたいことがある。
スタッフは、あなたが思っている以上に、利用者さんのことを考えている。
毎日のラウンドで、表情の小さな変化を見ている。好きだったものを覚えている。「今日は機嫌が悪そうだな」「今日は調子が良さそうだな」を共有している。看取り期になれば、ポジショニングを何度も見直して、最期まで身体を守ろうとする。
完璧じゃない。届かないこともたくさんある。でも、私たちはそういう思いで現場に立っている。
それを少しだけ知ってもらえたら、嬉しい。
「最後の1%が幸せなら、その人の人生は幸せだ」
これは、私が特養での仕事の中で大切にしている言葉だ。
派手な人生じゃなくていい。ずっと幸せじゃなくていい。最期の瞬間に、ほんの少しでも穏やかな表情があれば、その人生は十分に意味があった。
そう信じて、私は今日も特養で誰かの隣に立っている。


作業療法士16年目|特養・ユニットケア勤務|元認知症ケア指導管理士|HSP・ISFJ


📌 ハッシュタグ

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📚 引用・参考にしたソース

文中で紹介した外部資料はこちらです
『後悔しない死の迎え方』(ダイヤモンド・オンライン連載)👇👇👇

看取り経験100人以上の看護師が見つけた「幸せな人生だった」と口にする方の3つの共通点(recovery-group)👇👇👇


看取りのプロが教える 人生の最期が近い人との対話術(日本経済新聞)👇👇

介護職員の64.6%が精神的健康が良くない状態(東京都健康長寿医療センター研究/ドクターメイト)👇👇👇


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