蟹男|第一章|第四話「海が記憶している」
海堂は近くの漁師小屋を訪ねた。
小屋の扉を叩くと、内部から物が落ちる音がした。
そして皺だらけの老人が現れた。
磯部という名前の、この港で七十年以上も漁をしてきた男だった。
「あんた、記者さんかい?」
「ええ、今朝の──」
「分かってる」磯部が海堂を小屋の中に招く。
「あの事件のことだろう。お茶でも飲んで話そうか」
薄暗い小屋の中は、数十年分の海の記憶が染み付いていた。
古びた急須からお茶を注いでくれた磯部の手は震えていた。
この人も震えてる
「実はな」磯部が窓の外の海を見つめる。
「この海は、昔から人を食うんだ」
海堂の手がカップを取り落としそうになる。
「人を?」
「十五年前のことだった」磯部の声が急に小さくなる。
まるで海に聞かれることを恐れているかのように。
「潮干狩りの事故ってことになってるがな」
磯部は立ち上がり、窓辺に立った。
その影が壁に大きく投影され、一瞬、巨大な蟹のように見えた。
海堂の目が錯覚を起こしているのか──
「男の子が一人、沈んだ。蓮って名前だった。七歳の可愛い子でな」
海堂は手帳を取り出したが、磯部は手で制した。
「記録なんかに残すもんじゃない。ただ、覚えておけばいい」
磯部の視線が遠くなる。
まるで十五年前のその日を、今も見ているかのように。
「その子と一緒にいた姉妹がいてな。双子だった。片方は一緒に沈んで、もう片方は──」
「もう片方は?」
海堂の声が上ずる。
ポケットの中の殻が、また脈打つような感覚。
「分からん。いなくなった」磯部が振り返る。
その瞬間、老人の目が一瞬、異様に光ったような気がした。
「でもな、時々見るんだ。夜の海で、誰かが蟹と話してるのを」
蟹と話している?
海堂の手が震えた。
「その双子の名前は?」
磯部の目が細くなった。
その表情に、深い同情と──恐怖が混じっている。
「彩音と、彩花。確か、そんな名前だった」
海堂の世界が、音を立てて崩れ始めた。
彩花
心臓が激しく鼓動する。
血の巡りが悪くなり、視界が暗くなる。
まさか──まさか──
次回:第五話「優しい微笑みの下で」
愛する人の正体に、海堂は気づき始める──。
前回:第三話「血に染まった手がかり」
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