蟹男|第一章|第五話「優しい微笑みの下で」
アパートに戻ると、いつものように彩花が迎えてくれた。
「おかえりなさい、海堂くん」
二十八歳の彼女は、今日も完璧な笑顔を浮かべていた。
しかし今日は、その笑顔を見た瞬間、海堂の胸に異様な圧迫感が走った。
なぜだ?いつもの彼女なのに
「今日は大変だったのね。お腹空いてるでしょう?」
ダイニングテーブルには、既に夕食が並んでいた。
しかし、海堂は違和感を覚えた。
部屋の空気が、いつもと違う匂いで満ちている。
潮の匂いに似た、でも何か別の──
血の匂い?
「和風パスタにしたの。海の幸がたくさん入ってるのよ」
海堂の視線がテーブルに向かう。
確かに蟹が使われているが、ごく普通の家庭料理だった。
彩花は料理が得意で、いつも手の込んだものを作ってくれる。
考え過ぎだ。
いつものことじゃないか
でも手が震える。
「美味しそうだね」
海堂は席に着いたが、なぜかフォークを持つ手に力が入らない。
「海の恵みって素晴らしいわね」彩花が微笑みながら言う。
「みんな一生懸命生きてるの。それをいただくことで、私たちも生かされてる」
いつもの彼女らしい優しい考え方だ
海堂は少し安心した。
彼女はいつもこんな風に、食材への感謝を忘れない人だった。
「そうだね。感謝していただかないと」
でも食事の途中で、海堂は冷蔵庫を開けて水を取ろうとした。
そして、奥に赤い容器を見つけた。
「彩花、これは?」声が少し震えている。
「あ、それ?」彩花が振り返る。
「トマトジュースよ。今度サンドイッチに使おうと思って買ったの」
トマトジュース
確かに、よく見ればトマトジュースのパックだった。
ラベルも見える。
なんで血だと思ったんだろう
海堂は自分の神経質さに苦笑いした。
今朝の事件のショックで、普通のものまで不気味に見えてしまっている。
落ち着け。
ただのトマトジュースだ
でも心臓の鼓動は、なかなか収まらなかった。
次回:第六話「蟹男の誕生」
テレビに映る犯人の名前。そして彩花の不可解な反応──。
前回:第四話「海が記憶している」
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