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大阪物語 04 【久々の下宿と大学への再訪で想った事 part1】

下宿と大学へ行った事を書こうと思う。去年はGW入った4月末、今年はGW明けた日と6月下旬に行った。どう想ったかを記したい。

【去年と今年、久々の下宿と大学への再訪で想った事 part1】
<24年のGW入った4月末>
大阪の下宿は、大学から自転車で8分程度。下宿に帰る時も大学に行く時も坂を上り下りるということが日常だった。
たまに不意に、高校1の時に、学校にコンサートに来た沢田聖子の「坂道の少女」を口ずさんだものだ。

何せ、大学方面に行かないと普段の生活から照らし合わせるとまともなお店がなかったので、結構頻繁に峠とは正式で無い上り坂下り坂を行き来していた。

この時、出身大学行って思う存分昔と変わった事を実感しに来た、という事をやった。ようやく念願の事をやった感じだった。
早朝の新幹線で新大阪へ。そして、在来線に乗って駅に降りた。そこから昔そのJR駅と下宿との行き来で使った阪急バスに乗ることにした。20分ぐらい待ってその場所始発のバスが来た。バスの外観色は昔と変わらない。ただ、頻繁に有った経路のバスがあまり無く、やむを得ず、ある程度頻繁に良く有る経路のバスに乗る。始発は駅の南だが、結局駅の北にもバスは止まり、知っていたらバス待っていなかった。JRのアンダーパスをくぐり歩いて北から乗っても良かったなあと想った。バスは更に北上し、名神高速をくぐる。あれ、こんなに建物有ったけ?という感じ。また、俺がいた頃はこんな良い道でなかった。途中、右に曲がり更に左に曲がる。下宿で住んでいた近くのバス亭に着いた。ここら辺もお世話になった自転車屋、漫画や趣味の雑誌を買った小さな本屋も無く、別の店か一般の住居になっていた。交番の隣に有った雑誌自動販売機も無かった。ま、40年近く過ぎたから仕方ねえよと自分に言い聞かせても、何か虚しさとか脱力感を感じる。これが時間がたったんだな、ということ。まともに歩けば昔住んでいた下宿までは10分ぐらいだが、下宿付近に昔から有るお寺にでも寄ろうかなと。

誰も居ないので暫く御堂の木の階段に座っていたが、住職さんが出入りされ庭をはいたりしてたので、何となくずっといるのも何だかなと思った。お寺を出て直ぐの昔有った下宿跡に向かう。実は、ググールアースで下宿、どうなっていたのか画像で知っていた。なので、改めて自分の目で、ということだ。下宿跡に着いた。

下宿の出入り口が白壁に変わった

どうやら下宿をやめてしまっているが、元々の大家さんの住居はそのまま。大家さん住居が真ん中にあり、平屋の離れがL字で囲むように有り、五人か六人程の下宿生がいた。部屋6畳に窓際続き1畳の廊下兼キッチンが有るので部屋は広く、風呂は下宿に無く銭湯(阪急駅付近、佐竹台)に行く、トイレは共用、キッチンで使う小型プロパンガスが有り、無くなったら大家さんに言って交換する。
黄金の四年間だった、とても楽しかった。
愛知に帰ってサラリーマンになり、お金は幾らか稼いだ。40歳で今の嫁さんと結婚し、幸せな日々を過ごしていると同じように幸せだった。大阪時代の四年間は、約40年前というのに、未だに大阪時代は良かったなあと思う始末。そして、大阪の土地は全て合理的で俺に合っていた。ただ、当時として、あまりにも自身が充実し過ぎたので、あまりにも自分の世界が壊れそうになったら、防御反応というか逃げていた事もあった。前に書いた、この書き込みが、大阪時代にも発動していた。

外観や近所を適当に撮影した。そして、暫くの間、黄金時代を過ごしたところの前でたたずんでいた。お寺と違って座るところが無いし、道路の脇で長時間じっとしているのも、どう考えてもおかしな人になるので、立ち去る事にした。ともかく、俺にはここに居るところでは無いなと実感すると、何故か寂しさよりも、居場所の無くなった事実がこの目で見れたのでそれはそれでかえって良かった。とは言え、本音は親の意向を完全に無視し、大阪でずっと居たらどんな人生を歩んでいたかなと一瞬思うが、そんな事よりこれから老いていく現実を捉えると、何が出来るかを考えそれで日々充実した毎日を過ごせれるような工夫するのに今は頭がいっぱい。
下宿付近を離れる。

後ろ髪を引かれる思いで後にした

歩いて大学までの道を歩く。昔のように上り下った。途中、無かった道や建物が有り、時の流れを感じた。のんびり歩いたので、昔通っていた頃より、かなり時間がかかった。  

何度この住所看板をみただろうか

大学の裏門に来た。昔のように、近所の人も通り抜け出来るようになっていた。

いつかこれを借りてこの近所走り回ろうか!

大学も、大きな体育館を始め、体育が出来る施設がかなり充実しており、スポーツで青春四年間を過ごす人達は、さぞかし幸せだと思う。俺という息子が運動音痴で無く、普通に合わせて運動が出来ていれば、人生変わるだろうなと、思って両親がいろいろやってくれたが、才能が無い奴はどう努力しても駄目で、出来る事に集中させてくれればよかったものを、全てが普通に卒無くとの考えだったので、そんな両親から一時的に避難し、自分のやりたい事は何か、自分として人に流される事無くどうしていけば良いか、という黄金の鉄板みたいなものを得たのが、大阪時代の大きな成果だろう。ただ、問題は、その黄金の鉄板は、苦労して勝ち得たものなので、自分だけで十分、別の人が乗って来るのを拒否した事だ。以下に書かれている

カンダタのようだといわれてもおかしく無い。それだけ大阪に来る前は卑屈で、心の狭い人間だった。いや、今でも少しマシになった程度で、本筋は変わって無いかもしれない。ただ、自分としては、謙虚でなく人を同等に捉えず人生を過ごしてしまった両親とは一線を画してこれからも生きて生きたいので、太字のように敢えて謙虚に生きたい。
大学構内を更に進む。ほとんどの学舎が綺麗になっている。そして、元々食堂や書店や雑貨が有った大学生協の建物が無い。次に学んだ経済・商学学舎へ。ここは、当時は階段登って教室に入って行ったが、建物自体建て替えられ、一階には何とファミマが有る。しかもイートインが有るので、歩き疲れたのも有るが、フアミマで飲み物買ってイートインで暫く寛ぐ。行ったのはGWの中間の平日だったので、学生は多かった。

案外目の前の学生が通っていく。それも飽きたので出ていく。在籍していた三回の時に出来上がった図書館の前を通る。

この図書館の前でクラスの友人と卒業記念撮影

正門を出て大学前通りを下る。下宿との往復ほどでないが、なんとなくダラダラと正門から阪急の踏切まで下っている。実は、数年前に大阪駅前でセミナー受講で梅田に来て、そのついでに夜、大学までの通りを歩いた。その時、矢鱈と拉麺屋が多く出来たのを知っていて、それを改めて見ても驚いた。大阪に居た頃は、踏切付近になか卯が有ったが無くなり、松屋が阪急の駅付近と通り途中のやや大学正門付近に出来た。阪急踏切付近には、大阪王将も出来た。仕方がないが、京都王将が同じ場所に改装された以外は、殆ど変わった。あれだけ有ったゲームセンターは有ったか全滅したかどうかわからないように変わった。
普通なら京都王将ということでも無難だが、何となくこれだけの多くの拉麺屋を見せつけられたら、では拉麺でも良いかなと思い、拉麺屋に入った。

踏切付近の拉麺屋

昔なら、どこか喫茶店のランチでもと思ったが、ちょっと時間的に早かったので、ま仕方がない。せめて、コーヒー飲んでゆっくりと思ったが、拉麺屋ばかり目について良くわからない。

また正門くぐり抜け、大学図書館でも入るかと決めた。OBなら入れることは知っていた。図書館のカウンターで手続きをして入る。昔は月刊雑誌とか見て時間潰してたが、彷徨いてもそれらが集めて有るところが良くわからない。何とか新聞探して読んでたが、それではつまらなかったので、興味を持てそうな本が無いかなと開架本棚を物色する。仏教か社会問題か地理あたりをと思ってたら、鉄道関係の本が有った。二冊ぐらいパラパラと読んで、ちょっとうとうと。それにしても、自習エリアがかなりあり、試験前でも無いのに、学生が思った以上に多い。昔は、机に座るエリアも狭かったし学生もこの時期こんないなかので、これも時代が流れたせいか。図書館に居るのもしんどくなったから、外に出る。ここまで来ると、下宿というベースキャンプが無い以上、ここにはもう俺にとって居場所というのが無いのだなと、改めて実感した。

元々、身体が他の男子と違って弱いし、大学時代もそうだった。小さい頃風邪気味で皆が体育で短パンになっても長ズボンのままで、馬鹿にされたのを覚えている。なので、大学時代も、昼飯を生協で人混み避けた時間に行き、遅いランチを頼み揚げたてのフライがメインの350円のコープランチを食べ、下宿に戻って、疲れてたら寝る、多少元気なら自炊用の買い物したり、銭湯に行ったり、洗濯したり。ただ、部屋は荒れ放題で、日々とっていた毎日新聞はそのままで、酷い時は部屋から廊下に出る間で新聞に滑りそうになった。俗にいう変な茸は生えなかったが、その代わり天井は夜になると、何かの運動会が催されたようで、時にコイツらが勝手に俺の部屋に作った獣道を寝ていた最中に走っていて、これを見た時には一瞬、力が抜けた、だが翌日以降は怒りしかなく、直ぐ様毒餌買って、後は当時ネズミ取り器は無かったので、その獣道に使用中のゴキブリホイホイを敢えて置いておき、その期間だけ炊事場も清潔にしてたら、夜中ピーピー煩いので、そのネズミがかかったゴキブリホイホイを、ママレモンを若干入れた水が張ったバケツに、そのままぶちこみ、朝全てが完了したのを見届けて、可燃ゴミ袋に入れた。こんな事が二度はあったので、それ以降結構炊事場だけでも綺麗にした。

さて、更に元気な時は梅田に行き、  

に書いたように、映画を見たり大きな書店に行っていた。

服はあまり買う方でなく、どうしても必要なら、近くのニチイか吹田街中のダイエーでというレベル。彼女もいないし、女性と出会う機会も何故か途切れてたので、付き合うための其れなりの服が不要だったのもある。
ともかく、下宿という居場所かしっかりあって、自由というのは何事も代えられず、それ以外は今から思うとだらしない無い格好良く無い生活だった。
図書館から出て、このように思った以上帰る手もあったが、そう簡単にはこの吹田には来れないので、本当に居場所が無くなるまで居る事とする。まだまだ、法文学舎とか新しい建物・場所も見て無い。幸いな事に、冬で無いので、外に居ても大丈夫な季節。法文学舎方面に歩くと、途中新しい建物が有り、何とスタバがそこに入っていた。

営業中なので入っていったが、ほぼ満員でコーヒー飲みながら寛ぐ感じでは無かった。すぐ外を見ると、座れるところが有るので持ち帰りにするという手もあったがやめて、再び法文学舎方面へ歩く。そうして、入学当初の総合図書館が大学博物館になっていた。

由緒有る建物だが、在学中の図書館時代にここへはあまり来なかった

中に入って良さそうなので、中に。大学の歴史を改めて知らされ、とても良かった。座れるところもあったので、案外ゆっくりしたはずだが、敢えてこの「大阪物語04」では書く気が無いので省略。

外に出て、昔は生協だったところへいく。夕方間近になったので、人も少なくなった。

暫くぼんやり

ここに良くご飯食べに来たのだなと、ぼんやり。実は、私自身、旅が好きで、旅をして培った事として、食べる・寝る・風呂・トイレがきちんと確保されていればそれでいいんじゃないということで、あとはこれに余計なものが加わるだけということかな。なので、大学生協は、下宿から近いというのも有るが、生きていく一つの糧とだったという意識。
新しい生協の建物に行く。凜風館という名前になっている。この建物は1-3Fとなっており、2Fが食堂、3Fが売店となっている。1Fは談話エリアというより、以下のようなコンセプトのエリアのよう。

新しい生協の建物、凜風館

「コラボレーションコモンズ」とは、そんな考え当時無かったわいと、自分に勝手に突っ込みをしながら、2Fに上る。食券買って、何か飲み物でもと一瞬考えたが、午前中のファミマのコンビニ店員と何も言わない方と違って、生協員じゃないですかとか、おばちゃんからあーだこーだー言われるのも何か面倒だなと思ったので、何台か有る自販機のうちアイス売っているのがあったので、買って外をぼんやり見てた。見える先は、当時から有る数々のサークルのboxで、どのサークルが現存してるかは良く分からなかった。その後、サークルボックスを見て、その後経商学舎の昔通った教室の建物を見た。

帰る時間だ。最寄りの電車の駅に大勢の人並みともに行く。何か疲れた。昔だったら、こういう疲れた時はすかさず下宿に戻ってテレビ見ながら横になっていたものだが、いまはそんな場所が無いので、電車で座れれば良いと思った。が、その時間は学生の帰りに重なって、乗った天下茶屋行きは混んでいた。淡路で梅田行きに乗り換え、阪急・南方で降りる。その気になれば、新大阪まで歩けば着くが、既に疲れているので、信号渡り地上に出ている地下鉄御堂筋線の西中島南方から1駅だけ電車に乗る。新大阪に着き、お土産エリアで土産買った。改札前で、スマートexでちょうど良い時間の新幹線の指定をとり、構内に入る。以下の、浪花そばという店で、

この「大阪物語04」の最初の写真のざるそばをたべた。そば食べた後、立ち食いの串カツ屋が有るので、そこにも立ち寄る。

これで、腹が膨れたので大阪を離れる。本当はもっと大阪に意味もなくぶらぶらするだけでも良いから居たかったが、大阪の居場所が今となってはなくなっては、帰るしか無い。また、来れば良い、それで良い。アバヨ俺の大阪、また来るぞ、と。

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