見返り鬼譚《耳あり芳一外伝》【第九夜】七里の渡し(連作短編)
清閑寺の女が語る、夜ごとの鬼譚。
語られるのは、祇園に生きた誰かの結末――
けれどその結末は、ひとつではない。
同じ怪異、異なる結末。
読み手の耳に委ねられた真実。
『耳あり芳一』外伝 “見返り鬼譚”、ここに開帳。
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第九夜 角一と彦七の忠義 其の四
七里の渡し
◇
──ポロン。
琵琶のひと撥が、夜の空にほころびを作った。
旅のつづきを呼ぶような、そんな音。
それは声ではない。けれど、たしかに何かを告げる音。
誰かが、何かを始めようとする音──
「舟を出すには、覚悟が要ります。
向こう岸が見えていればまだしも、
霧が濃く、風の行方も知れぬ夜ならば──それはもう、賭けのようなものです」
「戻れぬと知りながら、なお渡る。
足元の水が深くとも、目の前の道が消えていても、
それでも進むという人がおります」
「けれど、どんなに意を決して舟を出しても、
それが進んでいるのか、沈んでいないのか、誰にもわからぬことがあるのです」
──ポロン。
「そんなとき、人はふと思うのでございます。
『誰かが、私を見ていてくれたら』と」
琵琶の音が、ひときわ長く余韻を引いた。
「これは、とある夜。
声の届かぬ霧の中を、渡ろうとした者たちの、小さな物語でございます」
──ポロロン......
◇◇◇◇◇
遠州灘の風を背に、二人と二頭の影が、ゆるやかに揺れておりました。
角一と彦七、そして彼らの馬──それぞれ一騎ずつ。
霧の気配を帯びた潮風の中、彼らは騎乗のまま進んでいた。
「鳴海宿までは、あと少しだな」
そう言ったのは、角一。
相も変わらず背筋は真っ直ぐ、疲労の色も見せず前を見据えている。
その隣を行く彦七は、すでに肩をぐるぐる回している。
「けっ……この辺の道は粘っこい土ばかりで馬の脚も重ぇ。
このままだと俺の尻のほうが先に割れちまいそうだぜ」
道沿いの竹林がざわめく中、鳴海の町並みがようやく姿を現す。
日はとっぷりと暮れ、宿場の灯りがぽつぽつとともり始めていた。
二人は町はずれの小さな旅籠に身を寄せ、
馬たちに水を与え、夕餉(ゆうげ)の粥をかきこんでから、すぐに床へと伏した。
──だがその夜、角一は夢を見た。
いや、夢というより、音のない空間だった。
誰かの名を呼ぼうとするが、声が出ない。
手を伸ばすが、何かに届くこともない。
自分の足元が、水か霧か、揺らめくなにかに沈んでゆく。
いやだ。まだ、やらねばならぬことがある。
戻らねばならぬ場所がある。
そう思うのに、言葉が出ない。
「角一殿──」
誰かが、呼んだ気がした。
だが次の瞬間、目を覚ました角一のまわりには、静かな夜だけがあった。
身体を起こすと、隣の部屋からは彦七のいびき。
月は薄雲に隠れ、灯りは消えている。
寝間着のまま、ふらりと宿の外に出る。
──そこに、ひとつの影があった。
門の柱に寄りかかり、杖を突いたまま座っている老人。
年の頃は七十を越えていようか。
白く伸びた眉、削げた頬、だがその眼だけは、やけに澄んでいた。
「おや……お騒がせいたしました。
夜風が心地よくてのう、つい、ここに」
そう言って頭を下げたのは、旅装をした老いた僧だった。
「この脚では、渡し場までの道のり、ご一緒させていただけますか。
陽が昇るまでに辿り着けそうもないもので……」
角一は、その言葉にしばし沈黙し、やがて口を開く。
「……我らも、渡し場へ向かう。構わぬ」
その声に、旅籠の格子戸がガラ、と開いた。
「まったく、爺さんも角一も、寝ないんだから……
まあいいさ、三人と二頭、賑やかになるってもんだ」
彦七が寝癖の髪のまま、欠伸をしながら現れる。
──こうして、二人の下知役と、一人の老僧。
そして二頭の馬による、七里の渡しへの道行きが始まったのでございます。
◇
夜が明けると、鳴海の空には薄い灰色の雲がたなびいておりました。
浜風はやや湿り気を帯び、道の端々には朝露が鈍く光っている。
角一と彦七、そして老僧は、連れ立って宮宿へと向かっていた。
馬は二頭。
角一と彦七はそれぞれの馬にまたがり、旅の老僧は角一の後ろに、早朝の東海道を進んでいく。
彦七は軽口を叩きながらも、馬上で器用に手綱を操っていた。
「宥玄(ゆうげん)どの、その脚でよう旅をなさる……」
と角一が言えば、
「歩かねば、見えぬものもございますゆえ」
と宥玄は微笑む。
その言葉に、角一はふと昨夜の夢を思い出し、しばし無言となった。
やがて、宮宿の渡し場が見えてくる。
七里の渡し──
海を越え、桑名へとつながる東海道唯一の「海路の宿場」でございます。
渡し場に着くと、数人の旅人たちがすでに舟を待っていた。
岸辺には、三艘の平底舟が控えており、そのうち一艘が、彼らを迎える舟である。
「馬も一緒に?」
舟頭は、二頭の馬を見て少し目を細める。
「構いませんが、あまり暴れるようなら、途中で……」
そう言いかけたとき、彦七が手綱をしっかりと引いて馬の鼻先を撫でる。
「こいつらは大丈夫さ。な、ちゃんと黙って乗れよ。……舟は初めてだがな」
それでも馬たちは、舟に近づいたところで足を止めた。
波の気配、見えぬ水底、揺れる足場──生き物の勘が怯えているのだ。
角一はゆっくりと近づき、自分の馬のたてがみに手を添えた。
「……この子たちも、見えぬ先が怖いのだな。
けれど、進まねばならぬ」
その低く穏やかな声に、馬は鼻を鳴らし、一歩だけ前へ出た。
舟頭が感心したように頷き、手伝いの男たちが舟へと馬を誘導する。
宥玄も、杖をつきながらゆっくりと舟へ乗り込む。
舟は、浅瀬からゆっくりと海へと滑り出す。
櫓が軋み、波がゆるやかに舷側を打つ。
「今日は、霧が深い」
舟頭がぽつりと呟いた。
「海と空の境も、わからなくなるやもしれません。
舟が、進んでいるのかどうかも──」
その言葉を背に、霧の白が、すべてを飲み込んでいく。
舟はすでに、視界の外へと入り込んでいた。
風は止まり、波音も消え、櫓の音すらも遠ざかっていく。
舟の上には、人と馬と、そして霧。
音も、色も、方角すらも──なにひとつ定かではない世界。
ただひとつ、確かなのは、
舟がもう、戻れぬところへと進んでいるということだけ。
静かなる、霧の航路が始まったのでございます。
◇
舟は、進んでいる。
けれど、それは誰の目にも、はっきりとはわからなかった。
あたりは霧。
音もなく、風もなく、海と空の境さえ溶けて見えなくなっていた。
人の声も、波の気配も、いまやすべてが遠く、遠く、
ただ白く沈んだ、ひとつの空間に──舟だけが、浮いていた。
馬が小さく鼻を鳴らす。
それは、怯えではなく、何かを確かめるような響きだった。
角一は、そっとそのたてがみに手を置く。
「……舟が進んでいるか、わからんな」
ぼそりと、口を開いたのは角一だった。
「舟が止まっていようと、沈んでいようと、いまの我々には、どうすることもできぬ。
……ただ、任せるしかないのだな」
「なあ角一」
彦七が、隣で呟く。
「俺たち、ほんとうに渡ってるんだよな? ……ちゃんと、向こう岸に行けるんだよな?」
角一は、すぐには答えなかった。
しばし沈黙ののち、低くつぶやく。
「……もし、今この舟が沈んだとしても──
誰にも気づかれず、ただ消えていくだけなのかもしれぬ」
その言葉に、彦七は肩をすくめ、冗談めかして返す。
「……やめろって。
縁起でもねえ」
──と、そのとき。
「わたしは」
静かに、宥玄が口を開いた。
声は細く、それでいて、霧の中の舟にしずかに広がった。
「わたしは、若いころ──
声を上げるたびに、何かが遠ざかっていくのを感じておりました」
角一も彦七も、黙って耳を傾ける。
「……わたしは、仲間を見捨てました。
墨俣川の戦のさなか、炎と叫びの渦の中で……
自分の命だけを、ただそれだけを、守ろうとしました。
背後で……何かが、呼んだのです。
声か、音か……あるいは……名もなき“もの”か。
振り返れば、見えてしまう気がした。
……だから、見ませんでした。
振り返らずに、歩きつづけました。
今でも、ときどき思い出します。
あのとき、わたしの背を見ていた“誰か”の……目を。」
宥玄は、膝の上で組んだ手を見つめながら続けた。
「それからというもの、祈っても、誰の返事もない。
声を上げれば、誰かが背を向ける。
そんな気がして……
いつの間にか、声を出すことすらやめていたのです」
波の音は、まだ聞こえない。
舟は、まるで時間の外を進んでいるようだった。
「それでも」
と、宥玄は言う。
「生きていた。歩いていた。
なぜかと言えば……
誰かが“見ていた”気がしたからです」
角一が、小さく眉を動かす。
「誰か、とは?」
「わかりません」
宥玄は、ふっと笑う。
「人かもしれぬし、通りすがりの獣かもしれぬ。
あるいは、わたしが作り出した幻かもしれません。
……けれど、“誰かが見ている”と思えたからこそ、
わたしは、自分の道を歩けたのです」
角一は、俯いたまま、何かを噛み締めるように黙していた。
馬が、また鼻を鳴らす。
今度は、もう一頭のほうも。
その音に、角一はゆっくりと顔を上げ、たてがみに手をやる。
「……この子たちも、霧の中で何かを感じているのかもしれんな。
我らと同じように」
宥玄が、少し首をかしげた。
「霧の中では、誰も見ていないように思える。
けれど、誰かが見ていたと、そう思えるだけで──
人は、舟を進ませることができるのです」
誰も、言葉を返さなかった。
舟は、なお進む。
音もなく、揺れもせず、ただ白の中を。
それでも、たしかに「向こう岸」が近づいていることを、
彼らは、まだ知らなかった。
◇
──霧が、わずかに揺れた。
それは、気のせいのようでもあり、
何かが終わりを告げたようでもあった。
舟は、静かに岸へと近づいていた。
浜辺の白砂が、霧の底からじわりと浮かび上がる。
波の音が、久方ぶりに耳へ届いた。
「……着きましたぞ」
舟頭の声が、霧を割った。
誰も言葉を返さなかったが、角一も彦七も、そっと身を起こす。
馬たちは鼻を鳴らし、一歩だけ前へと足を動かす。
その動きは、まるで、舟の方が馬たちに押し出されているようであった。
舟が砂に乗り上げ、船底が「ぬる」と軋む。
岸へと渡った彼らを包んでいた霧も、少しずつ、溶けていく。
──そのとき、宥玄が、角一のもとへ近づいた。
「これを、あなたに」
と、懐から、ひと繋ぎの数珠を取り出した。
古びた赤い瑪瑙の珠が、光を吸い込むように鈍く光っている。
いくつかの珠は黒ずみ、一つだけ、擦れた白が混じっていた。
「これは……わたしが長いこと、捨てられなかったものです。
祈りの品ではありません。
ただ、“わたしを見ていたかもしれぬ誰か”を、信じた証です」
角一は、その数珠を静かに受け取った。
それが何の力も持たぬただの“かたち”であることを知りながら。
「……預かります」
その一言のあと、彦七が横からひょいと覗き込み、
「なんだよ角一、そんなもんもらって。
それ、腕に巻くか? 馬の尻尾にでもぶら下げたら、魔除けになるかもな」
と軽口を叩いた。
宥玄は、ふっと小さく笑った。
「……では、わたしはこのあたりで」
そう言って、浜辺の白砂をゆっくりと歩き出す。
杖の音が、
ぽっ、ぽっ......
と残る。
誰も彼を呼び止めなかった。
彼もまた、振り返らなかった。
ただ、白い霧の向こうへと──
その影は、すうっと溶けていった。
そこに、彦七の声が落ちてくる。
「なあ角一。……あの爺さん、今どこ行った?」
「……さあな」
「お前、覚えてるか。鳴海宿の手前で、地蔵を拾い上げてたろ?
……まさかな、あの爺さん――幽霊ってことは……ねえよな」
角一は、返事をしなかった。
ただ、数珠をそっと懐にしまうと、馬の背へと身を預けた。
「……渡ったな」
と、角一が呟く。
彦七が、隣で鼻を鳴らした。
「おう、渡ったとも。
でも、舟から降りただけさ。
これからまだ、ずっと先がある」
角一は、その言葉に、ゆっくりと頷いた。
二人と二頭。
新たに歩き出す足音が、今度は、確かに砂の上に残っていく。
東海道の風が、浜を渡り、彼らの背を押すように吹いた。
◇◇◇◇◇
──ポロン。
ひと撥、ふた撥。
琵琶の音が、夜の帳をそっと撫でる。
「見えぬ先へと、舟を出すというのは──
なんと、心細いことでしょうな」
「誰もいないように思える霧の中。
声を上げても返ってこず、
振り返っても、そこには何もいない」
「けれど、それでも人は、進むのです。
なぜって……誰かが“見ていてくれる”かもしれぬと思えるから」
「それが幻でも、勘違いでも、
ただの願いであったとしても──
人は、それを心の端に、灯のように抱えて、歩けるものでございます」
──ポロン。
音が、静かに消えていく。
「さて。今宵、あなたが舟を出すならば、
誰に見ていてほしいと、思いますか?」
「……ふふふ。
名乗るほどの者ではございませんが、
たまさか、わたしも見ております。
この夜の、向こう側から──」
──ポロロン......
そして、琵琶の音とともに、女の姿もまた、
夜の霧に、ふっと溶けていった。
◇
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