見返り鬼譚《耳あり芳一外伝》【第三夜】飴と花(連作短編)
清閑寺の女が語る、夜ごとの鬼譚。
語られるのは、祇園に生きた誰かの結末――
けれどその結末は、ひとつではない。
同じ怪異、異なる結末。
読み手の耳に委ねられた真実。
『耳あり芳一』外伝 “見返り鬼譚”、ここに開帳。
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第三夜 飴と花
琵琶の音――
ポロン……
恋のはじまりというものは、春一番のようなものでございます。
吹いたと思えば去っていき、あとに残るは、畳のほこりと帳場の書きつけ……
されどこの話、去らぬ風の、物語でございます。
さてさて舞台は、都は祇園。
旅籠「蓮屋」に、ひとりの若者がおりました。
名を安兵衛。二十歳。男前。包丁さばきは見事の名人。
旅人の腹は満たせても、女心にはてんで無頓着という、朴念仁ときている。
そんな安兵衛に、熱い視線を送っていたのが――
飴屋の女将、お春でございます。
二十八の未亡人、色白で艶のある声。
朝は飴湯、昼は差し入れ、夕には「お母様の具合は……」と心配顔。
控えめに見えて、その実どうして、帳場仕事も口説きも達者な姉御肌!
しかもこのお春には娘がひとり。名をみすず。
目元ぱっちり、口数すくな。母と一緒に飴をこねて、町の人々に可愛がられる看板娘。
「蓮屋の若旦那が飴屋の親子に目ぇつけられとるぞ」
と町の婆様が茶をすすれば、娘たちは頬を染めて、「いいなあ、お春さん」とうらやましがる始末。
──ある雨の日。
蓮屋の裏口、荷を運ぶ安兵衛の前に、お春がひょいと現れて言いました。
「このあいだのお礼、何がいいかしら?」
濡れた肩をぬぐいながら、安兵衛、ちょいと目をそらして答える。
「いや、お春さんには、助けられてばかりで……すまぬな」
すると、お春はふっと笑い――
「……嫁にしても損はさせませんよ」
そのとたん、帳場の障子がわずかに開き、夕日がひとすじ差し込みました。
ポロン……
──それから三年。
蓮屋の看板は変わらぬままに、実権はすっかりお春の掌中。
「若旦那、もう六つ(朝六時)ですよ!」と布団をはぎ、
「帳簿、まだ終わってませんよ」と肩に冷たい手。
それでも蓮屋は繁盛、女将は有能、町の噂は上々。
娘のみすずは十歳になり、「若旦那の義理の妹」と呼ばれて花街の人気者。
一方、安兵衛は――
台所で包丁にぎりながら、時折天井を仰ぎ見て、ひとつ溜息。
(……まあ、これはこれで、悪くはねぇな)
◇◇◇◇◇
「賢い姉さん女房の飴は、甘くも苦くもなりませぬ。
けれど、喉に絡みつくような粘り気で、
一度味を覚えたら、もう離れられはしません――」
◇◇◇◇◇
さてさて、こちらがひとつの未来の形。
次に参りますは、もうひとつの、やわらかな結末。
◇
ポロン……
さてさて皆さま、
飴にするか、花にするか――人生は時に、菓子と草花の間で揺れるものでございます!
蓮屋の若旦那・安兵衛が、ふと足を止めたのは、夕暮れ時の花屋の軒先。
水を打った石畳に、しゃがんで花を束ねる小さな背中……
おや? と思って近づいてみれば――
これが噂の花屋の娘、お花でございます。
年は十七、色白で目元はやさしく、声は小さく、歩幅も短い。
言いかけてやめる癖があり、話すより頷くことの方が多い娘。
が、しかし!
安兵衛、なぜかこの娘と話していると、胃のあたりがほっとする。
まるで湯加減のいい風呂に入ったかのように、肩の力が抜けるのですな。
「……今日は、百日紅(さるすべり)ですか?」
そう声をかければ、お花がぱっと顔を上げて、ほのかに赤くなって、
「はい……色が、夏に似てて……」
……なんとまあ、かわいらしい返しでございます。
風が吹けば、花びらが一枚、二枚と舞い落ちる。
ふたりはただ、並んで、ぽつぽつと花の話。
これが安兵衛にとって、実にちょうどいい静けさ。
それからというもの――
朝の支度のあと、帳場の合間、買い出し帰り。
気がつけば安兵衛、花屋の前を通っている。
するとお花が、小さく笑ってくれる。
ただそれだけで、心が和らぐ。
──さて、それから三年が過ぎました。
蓮屋の看板は変わらぬまま、料理も帳場も若旦那の両肩に。
忙しゅうて、手が足りぬ、毎日てんやわんやの嵐の日々!
が、玄関にはいつも、季節の花がそっと一輪。
言わずとも、お花の手によるものと分かります。
朝は「いってらっしゃい」と見送られ、
夜遅く帳場に戻れば、灯の下――
お花が帳簿抱えて、こくん、こくんと舟をこいでいる。
安兵衛、そっと羽織をかけてやり、ひと息ついて椅子に腰を下ろす。
「……ああ、やれやれ。今日も無事に終わったな」
その声に目を覚ましたお花が、「おかえりなさい」と眠そうに笑う。
それだけのこと。
されど安兵衛は、その笑みに、また明日を生きる力をもらうのです。
◇◇◇◇◇
「花の香りは、一瞬。けれど、その香りが胸に残る夜がございます。
不器用な娘と手を取り合い、笑って泣いて、それでも日を重ねる。
……それもまた、幸福という名の、静かな怪談。」
◇◇◇◇◇
ポロン……
さてさて皆さま、ここまでお付き合いくださり、まことにかたじけのうございます。
「今宵のお話、なんだい、鬼も怨霊も出てこなかったじゃないか」――
おやおや、そう思われた方、いらっしゃいますな?
ふふっ、と清閑寺の女が、扇の陰から目を細めて笑います。
「いいえ。鬼なんぞ、とうに喰らってございます。
ええ、わたくしたち“女”が――ですよ。」
飴の甘さでほだされて、帳場の鋭さで丸めこまれ、
花の香りと、手のぬくもりで――
気がつきゃ骨までしゃぶられてる!
「ねえ、怖いのは、どちらでしょう?」
そう言って女、しゅるりと扇を閉じました。
「飴のようにしなやかで、
花のように儚げで、
けれど――
女というものは、
鬼をも喰うのでございますよ......」
と、その声に呼ばれたか、闇の奥、
誰かのくちづけの名残りのような灯が――ぽっ、とひとつ、揺れました。
「さあ、あなたなら、どちらの手を取りますか?
飴の女か、花の娘か。
……あるいは、どちらにも呑まれず、逃げ切れると、お思いで?」
ふふふ......
女の笑いは、風のようにさらりと夜へ消えて……
琵琶の音――
ポロン……ポロン……
お後が、よろしいようで。
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