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蘭丸、再び 第九話(完)

第九話 影は去りぬ




蝉の声が闇を押し返すように響いていた。
小山の陣、関ヶ原を目前に控えた夜。

徳川家康は、蝋燭の炎が揺れる中、黙して対座する男の顔を見つめていた。黒田長政――いや、その声が語り終えたものは、森蘭丸という名の若き小姓であった。

「……それが、すべてか」

声を低く落として尋ねると、長政はゆるやかに頷いた。
その目には、語り終えた者にだけ許される静けさと、どこかで何かを捨て去った者の影が漂っていた。

家康は、そっと手元の木簡に目を落とした。
伊賀の密教の符号が刻まれたその札は、その重みが、幾度目かの政変を生き延びた己の胸を深く刺す。

「信長様は、茶の湯で……?」

「私の語りが、真実であるとは申しますまい。ただ、語らねばならぬと思ったのです。……美しきもののために」

家康は、その言葉を噛みしめた。

「美しきもの、か」

ふと、かつて自らが見た、太陽のような男の姿が脳裏をよぎった。
尾張の若き鷹。炎を従え、時代を裂いて進んだ男。
その最期を、どのように描くのか。どのように伝えるのか。
語りとは、真実を伝える道具であると同時に、時代を導く火ともなり得る――



「語りとは、真実そのものではない。されど、真実に近づこうとする意思のかたちじゃ」

かつて誰かが語ったようなその言葉が、家康の胸裏に静かに響いていた。

長政の語りには、整いすぎた節がある。だがそれゆえに、虚ではない何かが伝わってくる。
まるで、自らの内にすでに形を成していた思いを、他者の口を借りて再確認するような感覚――。

それは、“語り”の力であり、“信”のかたちだった。

「長政――信長公の最期を知って、そなたはどう思った?」

家康の問いに、男はひと呼吸ののち、まっすぐ答えた。

「主君でございました。そして……命をかけて守りたかった、唯一の方です」

それは迷いのない声だった。
森蘭丸としての過去と、黒田長政としての現在――どちらの生も、その言葉を支えていた。

「そして、おぬしは……そのことを、なぜ語った?」

問いに対する答えは、すぐには返らなかった。
灯の揺れが、ふたりのあいだの静寂を縫う。

やがて長政は、ゆっくりと頭を垂れた。

「託すためでは、ございません。私は、ただ……語るべきだと思ったのです」

語ること自体が目的である。
聞く者の選別も、伝播の意図も、そこにはない。
ただ、語る。それだけのことが、時に命を越えて遺る。

家康は、胸の奥で何かが解けるのを感じた。

語られたことが、すべて真実であるとは限らぬ。
だが、語られたことがなければ、人は真実にすら近づけぬ。

「……そなたの語り、しかと受け取った」

そう言った家康の声に、静かな敬意が宿っていた。



夜が深まるにつれ、虫の声もまばらになった。
家康はひとり、囲炉裏の前に腰を下ろしたまま、うつむいていた。

あの語りは、真実だったのか。
それを確かめる術は、もはやどこにもない。

だが――。

「もし、それが真実であったなら……この天下は、あまりにも罪深いものよな」

ひとりごちる声が、火の音にかき消された。

信長は、本当に謀反で死んだのか。
光秀は、裏切ったのか。
秀吉は、正当に後を継いだのか。
そして――
自分は、何を見て、何を信じ、何を継ぐのか。

家康は掌を開き、木簡の感触を確かめた。
その節には、かすかな刻印がある。伊賀の密教の符号――それだけでは意味をなさぬ、ただの印。

だが、それを手にしているということは。
何かを受け取り、何かを残さねばならぬということだ。

家康は、木簡を懐に、目を閉じた。

思い出すのは、若き日の信長の背。
誰よりも先を行き、誰よりも孤独だった背中。
そして、誰よりも、美しきものを見ていた男の目。

「……語りとは、真実に近づこうとする意志か」

家康はゆっくりと立ち上がった。

「ならば、わしは――この天下に、その意志を遺してみせよう」

足元に火が揺れた。
その先に、まだ見ぬ未来の影があった。


※ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
歴史の陰に埋もれた“語り”に耳を傾けてくださったあなたに、心より感謝申し上げます。この物語が、ほんのひとつでも、あなたの記憶に残れば幸いです。ご感想など、お気軽にお寄せいただけましたら嬉しく思います。
未読の方は、こちらの作品もぜひご覧ください。

※「あとがき」を書かせていただきました。

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