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耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い⑤

──鐘の音、諸行無常の響きあり……


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第五章 喰らい、喰われる




川沿いの草むらに、ひとつの影が転がっていた。
雨吉である。

鬼鮒を腹いっぱい喰らったその夜、満ちた腹を抱えて、川べりの木陰に身を沈めていた。
空は茜色を過ぎ、しだいに墨を流したように濃くなっていく。

「……ん、そろそろ、日が暮れるか」

腹を撫で、雨吉は目を細める。
鬼鮒の味が、舌の奥にじんと残っていた。生臭さの中にほのかに甘い、まるで悪夢のような味。だが、それがどうしようもなく、うまかった。

「……また、喰いてぇな」

ぽつりと呟き、川面を見下ろす。
しかしもう、鬼鮒の姿はない。脂の浮いたような濁りが川面に残っているだけだ。

「鬼ってのは、なかなか出てきちゃくれねぇ……けどよ、あの時──」

脳裏に浮かぶ──蓮屋のお兼の、あの歪んだ顔。

鬼に変わる寸前の、怒りに満ちたあの目。

「あれは……怒ってた。怒らせれば……また、ああなる……」

飴屋のお春。

あの女も、怒らせれば──きっとまた鬼が生まれる。

そう思った雨吉は、ふらりと立ち上がり、よろけながら川を後にした。

「……次は、飴の鬼か……ふふ、どんな味がすんだろうな」



祇園の町筋に出ると、まだ薄明かりの空に、灯籠の灯がぽつぽつと灯り始めていた。

飴屋に向かう道すがら、雨吉はふと足を止めた。
花屋の前、軒先に腰をかけて、話し込んでいる男女の姿がある。

安兵衛と、お花だった。
蓮屋の若い料理人と、町娘。

ふたりの顔には笑みが浮かび、肩を寄せ合うようにして、ゆったりと語らっていた。
雨吉は無意識に後ずさり、軒の陰に身を潜める。

「……ちっ」

そのとき、別の気配に気づく。
裏手の塀沿いに、小さな影がひとつ──じっと、安兵衛たちを見つめていた。

「……お幸、か」

その影は、すぐに気づいたように身を引いた。
そして、雨吉の存在にも気づいたのか、振り返り、歩み寄ってくる。



「雨吉さん……」

茶屋『三福』の娘お幸が、戸口に立ち、声を潜めて言った。

「団蔵……父を見かけなかったかしら」

お幸の声は淡々としていた。だが、その視線の先はなお、安兵衛とお花を追っている。

「知らねぇなぁ。あっしはずっと、川のほうで……」

雨吉がそう答えると、お幸はそっと微笑んだ。

「じゃあ、団蔵が戻るまで……中で待ってて? あたし、お茶くらい淹れるから」

そう言って、お幸は手を差し出した。

雨吉は、心のどこかで違和感を覚えながらも、その柔らかな手に導かれるまま、灯の落ちた茶屋の中へと吸い込まれていった。



茶屋の引き戸が、きぃ……と軋んだ音を立てて開いた。

中は、しんと静まり返っていた。
灯はなく、外からの光だけが細く差し込んで、畳の縁を青く照らしていた。

「……こりゃまた、随分と静かだな。お客さんもいねぇのか?」

そう言いながら、雨吉は足を踏み入れた。
すると背後で、お幸が音もなく戸を閉める。

ふたりきりの空間。
張りつめた空気が、徐々に肌を撫でてくる。

「なあ、お幸。おまえ……ほんとうに、団蔵を探して──」

振り向いたときだった。
暗がりの中、お幸が手にしていたものが、月の光を鈍く照り返した。

包丁だった。

「──あ?」

刹那、喉に灼けつくような衝撃が走った。
雨吉は息を呑み、声にならぬ呻きを上げる。のけぞった体が、床板に音を立ててぶつかる。

手には、冷たい光を放つ包丁。
それを握るお幸は、ただ無言のまま。

雨吉の胸元に、再び刃が沈む。
一突き、また一突き。
ためらいのない動きに、何の感情も見えない。

雨吉は仰向けに倒れ、痙攣しながら、口を開いたまま声にならぬ叫びを繰り返した。

──なぜだ。

──なぜお幸が……。

お幸は、ふいにしゃがみこみ、血で濡れた指先を舌でぬるりと舐めた。

お幸の手が止まったとき、雨吉の視界はすでに滲み、色を失いかけていた。

それでも、雨吉は目の前の年端もゆかぬ娘を見た。

──その目は、いつもの、お幸のままだった。

優しく、どこか寂しげで、町の誰もが信じていた無垢な娘の瞳。

それが、笑いも怒りも浮かべぬまま、ただ淡々と──雨吉を喰らっていた。


「……ぁ……」

雨吉は最後にその目を見たまま、息を飲みこんだ。
ああ、自分は、特別ではなかったのだ。

自分が特別な存在で、鬼と話し、喰い、鬼と共に生きる者だと──
そんな幻想は、脆くも崩れた。

その瞬間。

頭の奥で、囁くような声が響いた。

「──あら。自分が選ばれし者だとでも思っていたのかしら」

女の声だった。
川の底から響くような、静かで艶のある声。

「この町は、鬼と、鬼喰いだらけよ」

ふふふ、と笑い声が響いた。
そして雨吉の意識は、闇の底へと沈んでいった。



そのころ、戻り橋。

京の町を流れる鴨川の支流、その古びた石橋の周囲には、じっとりとした闇が満ちていた。

夕暮れを過ぎ、灯の届かぬ場所では風も止まり、空気はどこか淀んでいる。
橋の欄干には幾度も塗り直された朱が剥がれかけ、苔が湿り気を帯びて黒ずんでいた。
遠くからは、祭り支度を終えぬ町のざわめきがかすかに聞こえてくるが、ここだけはまるで時間が止まったような静けさだった。

そんななか、橋のたもとに三つの影が立つ。

芳一、ミヨ、そして和尚──。

彼らは言葉少なに、闇の奥から迫る気配にじっと耳を澄ませていた。

夕闇に包まれる橋の袂に、旅人の姿が見える。
足を引きずりながら近づいてくる二人──角一と彦七である。
その足取りは、まるで夢遊のようにふらふらとしていた。

「……おや?」

和尚の眉がわずかに動いた。
ただ事ではない気配が、ふたりの背後から滲んでいた。

「そこの、あなた方……!」

そう声をかけると、ふたりはゆっくりと顔を上げた。
その顔はやつれきり、目の下には深い黒い影が滲んでいる。
焦点の合わないその瞳に、和尚ははっきりと怨の影を見た。

「……和尚殿……」

「……た、助けてくだされ……祇園が、もう……」

彦七が膝から崩れ落ちるように倒れ、角一が呻く。
その身体に、確かに怨霊の影が重なっていた。

「──取り憑かれておるぞ」

和尚は静かに木魚を取り出し、指先で

ポク、ポク

と鳴らす。
低く、深く、波紋のように広がる音が、闇を揺らす。

和尚は息を整え──

「南無大師遍照金剛、
 観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時──」


お経が唱えられ、角一と彦七の身体を這っていた黒い影が、うめくような声を残して空へと溶けていった。

ふたりはしばらくその場に膝をつき、肩で息をしながら朦朧とした目を宙に漂わせていた。

やがて、角一の唇がかすかに動く。

「……わたくしは……」

声にならない声。それでも、和尚が静かに頷くと、角一はふっと正気を取り戻したように目を開いた。

「……わたくし達は、武蔵国の下知役、角一と彦七と申します。……参拝のため、彦七と共に八阪神社を訪れておりましたが……」

その目には、今しがたまで取り憑いていた怨の気配が、まだ微かに揺れていた。

声がかすれる。

「──祇園が……おかしいのです。町のあちこちで、人が消えていく。今朝、旅籠の女将が忽然と消えました」

「町では、血の跡だけを残して……人の姿を見た者はいないのに、食われたようだと──そう噂されておりました……」

「町中の灯が、声もなく消えてゆくのです……」

和尚と芳一、ミヨは言葉を失ったまま、ふたりの語る“地獄”を聞いていた。

そのときだった。

――ごぉぉぉぉん…………

低く、重く、腹の底を揺らす音が、戻り橋の向こうから響いた。

「……これは……」

和尚が目を細める。

芳一が小さく、震えながら呟く。

「……地獄の門が、鳴っている……」

夜が、完全に落ちた。



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