耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い⑤
──鐘の音、諸行無常の響きあり……
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第五章 喰らい、喰われる
◇
川沿いの草むらに、ひとつの影が転がっていた。
雨吉である。
鬼鮒を腹いっぱい喰らったその夜、満ちた腹を抱えて、川べりの木陰に身を沈めていた。
空は茜色を過ぎ、しだいに墨を流したように濃くなっていく。
「……ん、そろそろ、日が暮れるか」
腹を撫で、雨吉は目を細める。
鬼鮒の味が、舌の奥にじんと残っていた。生臭さの中にほのかに甘い、まるで悪夢のような味。だが、それがどうしようもなく、うまかった。
「……また、喰いてぇな」
ぽつりと呟き、川面を見下ろす。
しかしもう、鬼鮒の姿はない。脂の浮いたような濁りが川面に残っているだけだ。
「鬼ってのは、なかなか出てきちゃくれねぇ……けどよ、あの時──」
脳裏に浮かぶ──蓮屋のお兼の、あの歪んだ顔。
鬼に変わる寸前の、怒りに満ちたあの目。
「あれは……怒ってた。怒らせれば……また、ああなる……」
飴屋のお春。
あの女も、怒らせれば──きっとまた鬼が生まれる。
そう思った雨吉は、ふらりと立ち上がり、よろけながら川を後にした。
「……次は、飴の鬼か……ふふ、どんな味がすんだろうな」
◇
祇園の町筋に出ると、まだ薄明かりの空に、灯籠の灯がぽつぽつと灯り始めていた。
飴屋に向かう道すがら、雨吉はふと足を止めた。
花屋の前、軒先に腰をかけて、話し込んでいる男女の姿がある。
安兵衛と、お花だった。
蓮屋の若い料理人と、町娘。
ふたりの顔には笑みが浮かび、肩を寄せ合うようにして、ゆったりと語らっていた。
雨吉は無意識に後ずさり、軒の陰に身を潜める。
「……ちっ」
そのとき、別の気配に気づく。
裏手の塀沿いに、小さな影がひとつ──じっと、安兵衛たちを見つめていた。
「……お幸、か」
その影は、すぐに気づいたように身を引いた。
そして、雨吉の存在にも気づいたのか、振り返り、歩み寄ってくる。
◇
「雨吉さん……」
茶屋『三福』の娘お幸が、戸口に立ち、声を潜めて言った。
「団蔵……父を見かけなかったかしら」
お幸の声は淡々としていた。だが、その視線の先はなお、安兵衛とお花を追っている。
「知らねぇなぁ。あっしはずっと、川のほうで……」
雨吉がそう答えると、お幸はそっと微笑んだ。
「じゃあ、団蔵が戻るまで……中で待ってて? あたし、お茶くらい淹れるから」
そう言って、お幸は手を差し出した。
雨吉は、心のどこかで違和感を覚えながらも、その柔らかな手に導かれるまま、灯の落ちた茶屋の中へと吸い込まれていった。
◇
茶屋の引き戸が、きぃ……と軋んだ音を立てて開いた。
中は、しんと静まり返っていた。
灯はなく、外からの光だけが細く差し込んで、畳の縁を青く照らしていた。
「……こりゃまた、随分と静かだな。お客さんもいねぇのか?」
そう言いながら、雨吉は足を踏み入れた。
すると背後で、お幸が音もなく戸を閉める。
ふたりきりの空間。
張りつめた空気が、徐々に肌を撫でてくる。
「なあ、お幸。おまえ……ほんとうに、団蔵を探して──」
振り向いたときだった。
暗がりの中、お幸が手にしていたものが、月の光を鈍く照り返した。
包丁だった。
「──あ?」
刹那、喉に灼けつくような衝撃が走った。
雨吉は息を呑み、声にならぬ呻きを上げる。のけぞった体が、床板に音を立ててぶつかる。
手には、冷たい光を放つ包丁。
それを握るお幸は、ただ無言のまま。
雨吉の胸元に、再び刃が沈む。
一突き、また一突き。
ためらいのない動きに、何の感情も見えない。
雨吉は仰向けに倒れ、痙攣しながら、口を開いたまま声にならぬ叫びを繰り返した。
──なぜだ。
──なぜお幸が……。
お幸は、ふいにしゃがみこみ、血で濡れた指先を舌でぬるりと舐めた。
お幸の手が止まったとき、雨吉の視界はすでに滲み、色を失いかけていた。
それでも、雨吉は目の前の年端もゆかぬ娘を見た。
──その目は、いつもの、お幸のままだった。
優しく、どこか寂しげで、町の誰もが信じていた無垢な娘の瞳。
それが、笑いも怒りも浮かべぬまま、ただ淡々と──雨吉を喰らっていた。
「……ぁ……」
雨吉は最後にその目を見たまま、息を飲みこんだ。
ああ、自分は、特別ではなかったのだ。
自分が特別な存在で、鬼と話し、喰い、鬼と共に生きる者だと──
そんな幻想は、脆くも崩れた。
その瞬間。
頭の奥で、囁くような声が響いた。
「──あら。自分が選ばれし者だとでも思っていたのかしら」
女の声だった。
川の底から響くような、静かで艶のある声。
「この町は、鬼と、鬼喰いだらけよ」
ふふふ、と笑い声が響いた。
そして雨吉の意識は、闇の底へと沈んでいった。
◇
そのころ、戻り橋。
京の町を流れる鴨川の支流、その古びた石橋の周囲には、じっとりとした闇が満ちていた。
夕暮れを過ぎ、灯の届かぬ場所では風も止まり、空気はどこか淀んでいる。
橋の欄干には幾度も塗り直された朱が剥がれかけ、苔が湿り気を帯びて黒ずんでいた。
遠くからは、祭り支度を終えぬ町のざわめきがかすかに聞こえてくるが、ここだけはまるで時間が止まったような静けさだった。
そんななか、橋のたもとに三つの影が立つ。
芳一、ミヨ、そして和尚──。
彼らは言葉少なに、闇の奥から迫る気配にじっと耳を澄ませていた。
夕闇に包まれる橋の袂に、旅人の姿が見える。
足を引きずりながら近づいてくる二人──角一と彦七である。
その足取りは、まるで夢遊のようにふらふらとしていた。
「……おや?」
和尚の眉がわずかに動いた。
ただ事ではない気配が、ふたりの背後から滲んでいた。
「そこの、あなた方……!」
そう声をかけると、ふたりはゆっくりと顔を上げた。
その顔はやつれきり、目の下には深い黒い影が滲んでいる。
焦点の合わないその瞳に、和尚ははっきりと怨の影を見た。
「……和尚殿……」
「……た、助けてくだされ……祇園が、もう……」
彦七が膝から崩れ落ちるように倒れ、角一が呻く。
その身体に、確かに怨霊の影が重なっていた。
「──取り憑かれておるぞ」
和尚は静かに木魚を取り出し、指先で
ポク、ポク
と鳴らす。
低く、深く、波紋のように広がる音が、闇を揺らす。
和尚は息を整え──
「南無大師遍照金剛、
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時──」
お経が唱えられ、角一と彦七の身体を這っていた黒い影が、うめくような声を残して空へと溶けていった。
ふたりはしばらくその場に膝をつき、肩で息をしながら朦朧とした目を宙に漂わせていた。
やがて、角一の唇がかすかに動く。
「……わたくしは……」
声にならない声。それでも、和尚が静かに頷くと、角一はふっと正気を取り戻したように目を開いた。
「……わたくし達は、武蔵国の下知役、角一と彦七と申します。……参拝のため、彦七と共に八阪神社を訪れておりましたが……」
その目には、今しがたまで取り憑いていた怨の気配が、まだ微かに揺れていた。
声がかすれる。
「──祇園が……おかしいのです。町のあちこちで、人が消えていく。今朝、旅籠の女将が忽然と消えました」
「町では、血の跡だけを残して……人の姿を見た者はいないのに、食われたようだと──そう噂されておりました……」
「町中の灯が、声もなく消えてゆくのです……」
和尚と芳一、ミヨは言葉を失ったまま、ふたりの語る“地獄”を聞いていた。
そのときだった。
――ごぉぉぉぉん…………
低く、重く、腹の底を揺らす音が、戻り橋の向こうから響いた。
「……これは……」
和尚が目を細める。
芳一が小さく、震えながら呟く。
「……地獄の門が、鳴っている……」
夜が、完全に落ちた。
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