小説『Snowdrop Surfer』第十話:三重苦の絶望と、遅れてきたブレーン
(簡単なあらすじ)
理不尽な左遷により、北海道の赤字企業で四刀流の過酷な新社長業に奮闘する元芸人、トップセールス・佐々木真二郎。
前回、現状を打破しようとする真二郎だが、小島や西田の妨害により四面楚歌の状態に陥る。過酷な激務とストレスで視力が0.2まで低下する中、名著『道をひらく』を再読した彼は『心の解像度』を上げ、会社を立て直す誓いを立てる。(第九話)
【前回】
【第十話:三重苦の絶望と、遅れてきたブレーン】
視力は0.2に落ちたが、
俺の『心の解像度』は確かに上がっていた。
しかし、現実はそう簡単には甘い顔を見せてはくれない。
「おはようございます!」
意識的に元気な声を出し、社員たちと向き合おうとしても、
返ってくるのは冷たい沈黙か、目を合わせない会釈だけ。
M&Aによる不信感と、
俺という『よそ者』への警戒心は、
ホクセイ産業の社員たちの心に根深く染み込んでいた。
そして、俺の肩には
『一つでもミスをすれば全てが終わる』
という、息の詰まるような重圧がのしかかっていた。
一つ目の苦しみは、ホクセイ産業内部からの反発と妨害。
二つ目は、出向元である来輝からの、理不尽な要求と支配的干渉。
そして三つ目は、北海道の経済を牛耳る巨大組織『雪明グループ』からの圧力と、冷え切った関係の修復だ。
【雪明グループ】
農業、酪農から、食品加工、物流、建設に至るまで、
北海道という大地に深く根を張り、全国へと枝葉を広げるその姿は、
もはや一企業という枠を超えた巨大な『生態系』そのものだった。
東京のスーパーでも『雪明』のロゴを見かけない日はない。
『雪明かり』という響きには、
厳しい冬の先に灯る一筋の希望のような温かさがあって、
俺は、その名前が嫌いではなかった。
だが、その光は、
一度背を向けた者には二度と射すことのない、
冷徹な光でもあった。
北海道でビジネスをする者にとって、
雪明グループに嫌われることは『死』を意味する。
天下のトヨタ自動車に啖呵を切った小さな町工場が、
翌日からどうやって生き延びるのか。
雪明グループとは、この北の大地における『食のトヨタ』なのだ。
そんな巨大な龍の逆鱗に、なぜか来輝は触れてしまっているようだった。
俺が電話をかけてもアポすら取らせてもらえない。
この複雑な三重苦の中で、
俺は一人、薄氷の上を素足で歩かされているような日々だった。
(……このパズルのピースを、一つでも間違えれば、即座に自分の首が飛ぶ)

ピリリリリリリ。
静まり返った事務所で、俺のデスクの直通電話がけたたましく鳴った。
画面に表示された『来輝 本部』の文字。
俺は小さく息を吐き、受話器を取った。
「はい、佐々木です」
『おー、佐々木。
どーや? 雪明さんとの関係、ぼちぼち良くなってきとるか?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、
権田のねっとりとした声だった。
「いえ、まだ先方の担当者とは直接お会いできておらず……」
『アカンなぁ。ほんまアカンやっちゃな、お前は。
自分でトップセールスマンやなんや言うから北海道まで行かせたってんのに、
なんの成果も出てへんやないか!』
(誰が好き好んで北海道に来てるか......)
権田は、現場の泥臭い苦労など一ミリも理解しようとしない。
問題が起きれば全て部下の責任にし、
自分は安全な本社から『結果』だけを要求してくる。
『来週の会議で太田会長に報告せなあかんのや。
……はよ何とかせえよ。これは命令やで』
ガチャリ。
一方的に切られた電話のツー、ツーという音が、俺の耳の奥で冷たく響いた。
権田。
この男こそが、俺が抱える『三重苦』の、最悪の毒だった。
問題が起きれば「お前の判断ミスやろ」と袋叩きにし、
何事もなかったかのように重役椅子にふんぞり返る。
背後から足を引っ張り、谷底へ突き落とそうとする巨大な腐敗。
俺が戦わなければならないのは、この底なしの腐敗だった。
事務。営業。所長。社長。
終わりの見えない四刀流の業務と、
ホクセイ社員たちの冷めた目線、
そして権田からの無責任で理不尽な要求。
俺の気力も体力も、限界の赤いランプを点滅させていた。
(……もう、息ができない)
再び、パソコンのモニターが滲んで見え始めた、その日の午後だった。
「おーい、佐々木課長ーー!」
突然、冷雪に覆われた重たいホクセイ産業のドアが、勢いよく押し開けられた。
吹き込んだ冷たい風と一緒に、
聞き覚えのある暖かい声が事務所に響き渡る。
「松原さん……!」
そこに立っていたのは、松原だった。
大阪支店の頃、ただがむしゃらに泥の中を走っていた俺を、
いつも褒めて乗せてくれた大先輩。
人が好きで、読書家で、人を見る目は誰よりも確かだった。
だが、そういう『正直な人間』ほど、来輝の上層部とは合わない。
出世ルートからは外されたが、
まるで気にもしてないような雰囲気で、西へ東へ、自由に駆け回っている。
「課長......じゃなかったな、佐々木『社長』かぁ。偉くなったもんやね」
「松原さん……いや、課長も社長も所長も営業も事務員も兼務ですから。
呼びやすいので呼んでください。笑」
「ほーん、じゃあ私は『悩める社長の相談役』って感じかいな」
松原さんのその軽口が、どれほど俺の凍りついた心を救ったことか。
俺は応接室でコーヒーを出しながら、
ホクセイの妨害、来輝の利己主義、雪明グループの圧迫という『三重苦』を、包み隠さず全て吐き出した。
松原さんは黙って聞いていた。
だが、途中でその温和な表情から笑みが消え、目の奥が鋭く光った。
「サーさん、悪くないよ。……いやむしろ、変なのは向こうだわ」
松原さんはゆっくりとカップを置き、小さく息をついた。
「ちょっと、東京と大阪で情報集めてくるわ。
おかしいわこれ。
俺も昔からアイツ(権田)には散々やられてきたんや」
その声は冗談ではなく、静かな『覚悟』を感じさせた。
松原さんは立ち上がり際、声を潜めてこう言った。
「そういえば......思い出したんやけど。
昔、アイツがこっち(札幌)によく来てた頃、
雪明さんとウチがなんかえらい揉めたことあったような気がするわ」
その瞬間。
俺の胸の奥で、バラバラに散らばっていたパズルのピースが、
ほんの一つだけハマったような気がした。
これまで経験したどんな商談よりも、
複雑で、残酷に絡み合ったパズル。
ピースを一つでもはめ間違えれば、その瞬間に全てが崩れる。
俺という一人の人間の人生など、
この巨大なパズルの前では、吹雪に舞う一粒の塵に過ぎない。
(……まだ、何も始まっちゃいない)
俺の胸の奥には、戦うための『熱』が確かに宿っていた。

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