小説『Snowdrop Surfer』第四話:着任の日
(簡単なあらすじ)
理不尽な左遷により、北海道の赤字企業で四刀流の過酷な新社長業に奮闘する元芸人、トップセールス・佐々木真二郎。
前回、社員の拒絶、巨大顧客、パワハラ上司という「三つの壁」を前に、愛する千葉の海を心に焼き付けた真二郎。覚悟を胸に、逃げ場のない極寒の北海道・新千歳空港へと降り立ち、過酷な戦いの幕が開いた。
【前回】
【第四話:着任の日】
札幌駅から三駅ほど手前の停留所で降りる。
肺の奥が焼けるような冷気。吐き出す息は瞬時に白く固まり、マフラーに霜を落とした。
地図アプリを頼りに辿り着いたのは、茶色く変色したタイルの古いビルだった。
隣接する居酒屋の看板が、寒空の下でギィ、ギィと乾いた音を立てて揺れている。
『株式会社ホクセイ産業』
金属製の引き戸を開ける。指先から熱を奪う、凍りついた鉄の感触。
音のしない玄関。節電のためか、剥き出しの蛍光灯が半分ほど間引かれていた。
暖房効率のため、玄関用の外扉と、事務所入口の内扉の二枚構造になっているのが雪国の仕様だ。
真二郎は一度だけ深く息を吐き、塗装の剥げたドアノブに手をかけた。
曇りガラスの向こう側から、人の気配は感じられない。
意を決して、ドアを開けた。
石油ストーブの焦げ付いた匂いと、湿気た段ボールの埃っぽさが混じった、
中小企業特有の空気が鼻腔を突いた。
事務所に足を踏み入れる。
カチカチと不規則に響くキーボード音。
電子音が抜けたような電話のコール音。
湿った紙をめくる音。
そのすべてが、一瞬だけ止まった。
数人の視線が俺の首元に突き刺さり、またすぐに手元の書類へと落ちる。
そこにあるのは好奇心ではない。よそ者を排除しようとする、冷えた沈黙だった。
一番奥の席から、一人の男がゆっくりと立ち上がった。
小島聡。
取締役の肩書きを持ち、三十年、この会社を実質的に動かしてきた古株だ。
額に深い皺を刻み、口角だけを横に広げた表情。
目は、射抜くように冷たい。
「……東京の来輝(らいき)本社からお越しの、佐々木社長ですね」
「はい。今日からお世話になります」
真二郎が軽く会釈すると、小島はデスクの上の茶封筒を指先で整え、一拍おいてから丁寧に返した。
「ようこそ、北海道へ。
……まあ、うちのやり方に慣れるには、時間がかかるかもしれませんが」
声は柔らかい。だが、語尾に混じる吐息に、明確な拒絶の意志を感じた。
社員たちは目を合わせず、老朽化したコピー機の駆動音と、ストーブの燃焼音だけが場を繋ぎ止めている。
「ホクセイ産業は、雪明さんとの長ーい付き合いで成り立ってきた会社です。
東京のやり方が必ずしも通用するとは……限りません」
小島は陣地を見せつけるように言い放った。
「承知いたしました。よろしくお願いします」
真二郎は深く頭を下げた。
その直後、誰かがエンターキーを強く弾く音。
古びたコピー機が喉を鳴らすような音。
シュレッダーが紙を噛み砕く断続的な音が、真二郎を無視するように響き出した。
小島がニッコリと微笑む。
「まあ、でも初めての社長業は大変でしょうから、まずは冷えた体をコーヒーで温めてはいかがですか?」
指先はすでに感覚を失い、つま先は氷を押し当てられているように痛い。
薄いソールの革靴が、白く凍った雪道に対して無力であることを痛感した。
「こちらが、社長のお席です」
案内されたのは、薄暗い会議室の片隅。
昔ながらの古ぼけた長テーブルに、座るたび「ギィ」と悲鳴を上げるパイプ椅子。
腰掛けると、磨き上げた革靴のつま先が、剥き出しのスチールの脚に当たった。
「キーン」と硬質な冷気を含んだ音が会議室に響く。
コンクリートから直接伝わる冷えが、心まで蝕んでくるようだった。
来客用のカップに入れられた薄めのインスタントコーヒーに手のひらを添える。
紙コップから伝わる、安っぽい粉の苦味と、頼りない熱量。
それが凍える指先に微かに染みわたり、目の前の現実に引き戻される。
(ここが、俺の戦場か……)
辺りを見渡す。埃をかぶった棚、色の変わった伝票、そしてこの錆びたパイプ椅子。
どうしても、比べてしまう。
加湿器から白いミストが揺れ、白を基調とした洗練されたデザインの来輝本社のフロア。
リクライニングチェアの感触と、若い社員たちの笑い声。
「……売上なんか、あとで取り戻せばいい」
かつて自分が部下にかけた言葉が、今の自分を嘲笑うかのように脳裏をよぎる。
俺が間違っていたのか。
この劣悪な環境のすべてを、真二郎はまだ受け入れられずにいた。
だが、事務員の小山さんが既にデスクと椅子を発注しており、
その稟議書に自らが承認印を押していたことすら気が付かないほどの多忙さが、自分を覆いつくすことを、
その時の真二郎はまだ知る由もなかった。

そして、その日から、俺を待ち受けていたのは、想像を絶する泥沼の日々だった。
『ホクセイ産業』の社長。
『来輝 札幌営業所』の所長。
そして北海道全エリアの営業マン。兼、事務員。
器用な使い分けなど全くできない。
ただ、濁流に飲み込まれ、溺れないように必死で四つの顔を交互に持ち上げているだけだった。
領収書の束と格闘し、モノタロウの注文画面を睨みつける。
そこに、容赦なく外線が響く。
「……はい、来輝の佐々木です」
営業マンの声を喉から絞り出しながら、空いた手で「社長」の決済印を稟議書に叩くように押し込む。
慌てて掴んだ受話器についた朱肉の赤い跡が、
自分の時間がえぐり取られた血痕のように感じる。
─── ティッシュで拭っても消えない烙印。
昨日までベトナムの工場で、数億円のラインが唸りを上げる音とオイルの匂いに包まれ、製品の精度をコンマ単位でチェックしていた。
だが今は、一円単位のコピー用紙の最安値を血眼で探し、慣れない事務処理のミスに舌打ちをしている。
(俺は、一体何をやっているんだ ───)
受話器を置く暇もなく、今度は小島が音もなく背後に立った。
「社長、こちらの承認も。本日中ですので」
慣れない社長業がおぼつかない俺を見下したかのような声が、耳の奥にこびりつく。
判断の根拠も、この会社の商流も、まだ何もわかっていない。それでも判を捺さなければ、明日の現場が止まる。
焦りが指先を震わせ、苛立ちが胃の中を焼いた。
喉の奥は常に乾き、吐き出す息だけが白く虚しく消えていく。
そして何よりも ─── 雪だ。
12月の札幌は、美しい雪に覆われていた。
……いや、美しいなんてのは一瞬だ。
赴任して数ヶ月。朝は必ず「雪かき」から始まった。
暗い早朝。マンションの駐車場。事務所の駐車場。
プラスチックのスコップを地面に突き立てる「ガリッ」という不快な振動。
水分を含んで重たくなった雪の塊を「ドサッ」と放り投げる。
腰に走る鋭い痛み。肺に突き刺さる氷の粒。
掻いても、掻いても、夕方にはまた白く埋もれる。
ホクセイ産業の滞った業務や、権田から降ってくる理不尽な要求と同じだ。
東京より一時間早く起き、ため息を吐きながら「白い敵」と格闘する。
これが、雪国の掟だ。

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