ある男の話10
多国籍居酒屋『わぁるど』は、その名のとおり驚くほど外国人が多い。
K-POPアイドル風の女性2人組。中東系の顔の濃い男性3人組。赤ら顔の目立つ欧米人グループ。陽気なラテン系のおじさんたち。まるでどこかの空港内の飲食店にいるみたいだった。
そのテーブルの一角に、僕と紙山さんはいた。
「何飲まれますか?」
僕はメニュー表の上下をひっくり返し、向かいに座った紙山さんに見せた。
「あ、ビールでお願いします」
彼女は言った。
麗奈に振られてしばらくして、決められた仕事だけこなす機械のようになっていた頃、ふいに、
「ご無沙汰しております。以前お話しした保険の件について、進捗はいかがでしょうか?」
と、紙山さんからメールがきたのだ。
正直、このメールにとても救われた。
とにかくモチベーションがわかず、家と職場を往復するだけの毎日で、このまま機械のように労働力だけ国に吸い取られ、この世界に子孫も影響も何の爪痕も残さずに死んでいくのか、と思っていた。
でも、ダメな自分が変わらないといけない、このままではいけない、と心のどこかで思っていたとき、紙山さんから一通のメールが来て、ようやく正気に戻ることができたのだ。
「ご連絡ありがとうございます。また、どこかのお店でお話ししてもいいですか?」
と、僕はすぐにメールを返信して、今日のこの場をセッティングすることができた。
『わぁるど』は多国籍居酒屋だけあって、チヂミやアヒージョ、ガパオライスなど、様々な国のメニューがあった。でも、何だか広く浅くで、逆にファミレスみたいだな、と思った。
とりあえず、フライドポテトやシーザーサラダなど、軽くつまめそうなものをいくつか頼んだ。
保険の話は早々に終わったので、格闘技のことを聞いてみた。
「格闘技お好きなんですよね?推しの選手とかいますか?」僕は言った。
「あ、今はこの人です。ほら」
スマホの待ち受け画像を見せてくれた。
前回会ったとき、ちらっと見えたK-1ファイターとは違う、若い黒人選手になっていた。デビューして間もないこれからの選手らしく、そのとき名前も聞いたが忘れてしまった。
その後、紙山さんとはいろんな話をした。
年齢は、僕の二つ上であること。
生まれは大阪だが、広島や千葉、北海道など、親の転勤で全国を転々としてきたこと。
家でもお店でも、お酒はビールしか飲まないこと。(けっこう飲む)
エステティシャンを目指していたが、不器用すぎてした挫折したこと。
僕も何杯かお酒を飲んで、けっこう酔いが回ってきた。誰かと飲んだのはかなり久しぶりで、ついつい酒が進んでしまったのかもしれない。
「そういえば」
「あ、はい」
「以前言っていた、格闘家がかわいい、という気持ちには、なかなかなれなくて」と、以前から気になっていたことを聞いてみた。
紙山さんは、フライドポテトを指揮棒のように宙に泳がせながら、う~ん、と少し考えた後、
「じゃあ、一緒に試合観戦してみませんか?」と言った。
「いいですね。いってみたいです!」
「じゃあ、今からうちにきますか?」
「え、いいんですか?」僕は思わず聞き返してしまった。
突然のことでびっくりしたが、思わず自分が前のめりになってしまったように感じて、少し(紳士らしく)自制せねば、と思った。
「全然オッケーですよ~。ここから歩いて行けるので」
彼女の本心はわからなかった。
これも、保険の営業の延長だったのかもしれない。
でも、その日の夜、僕の心は紙山さんにわしづかみにされ、とても行かずにはいられないことは確かだった。
なにか、今を変えるきっかけがほしかった。
彼女は割り勘にしましょう、と何度も言ってきたが、いやいや、僕が誘ったので、と頑なに断り、僕が全額会計を支払い、店を出た。
『わぁるど』がある、がやがやした居酒屋が立ち並ぶエリアから、15分ほど歩いたところに、マンションや一軒家が立ち並ぶ静かな住宅街があった。大きな公園もある。
紙山さんのマンションは、その一角にあった。
「あ、ここです~」彼女は言った。ほろ酔いなのか少し陽気になっている。
まるでホテルのようなきれいなロビーだった。
当然、オートロックで、セキュリティもくそもない僕が住んでいるアパートとは比べ物にならない。
そして、ここに住んでいるということは、そこそこお金を稼いでいるだろう、とも思った。
エレベーターで、紙山さんの部屋がある5階にあがる。
表示板の数字が2、3、4とカウントアップするたびに、胸の鼓動の高鳴りを感じる。こんなにドキドキしたのは何年振りだろう。
「ここでーす」紙山さんが部屋の前で立ち止まる。
ダークブラウンの重そうな、大きな扉。
楽園か。魔城か。
紙山さんが、ガチャリ、と開錠し、どうぞ~、とその扉を開けた。
