「おける」文学にご用心 本当の文学の話をしようじゃないか⑯

例えば「芥川龍之介の『歯車』における」で検索すると文学のようで文学でないものがたくさん見つかる。それは「おける」文学であって本物の文学ではない。
ええと解る?
解らない?
つまり「おける」文学というのは文学作品を素材にしたなんちゃって社会学だという意味だ。『歯車』という作品が読み切れないので、その作品の中から作品の読みに関わる根本的なところでない一要素を切り取り、その特殊性を論って見せる。結局そのことで『歯車』の主題なり構造なりというものは捨て置かれ、いざ『歯車』の主題なり構造なりを論じようとしたときには、そのどうでもいいゴミのような「論文」の山が先行研究として道をふさいでしまう。「おける」文学というものはそういうものだ。

例えばこれ主題は「都市空間」ということになっているけれど、そもそも主人公が迷子になっていることを考えれば、かなり無理筋だよね。そして勿論こんなものは文学ではない。

ではこれは?
これは中身を読まないで文句を言ってもしょうがないが、閑人の余技に帰着する。
しかしそうしたものを一つずつ整理していくこと自体は何かしら意味がある事であるかもしれない。ただ作品を要素を取り出すための素材にしてしまう「おける」文学というものは大概にしたらいいと思う。
今のところ芥川龍之介の『歯車』における「歯車」の意味とは何か、という問いを立ててそれを白絽蟵と関連付けて論じている人はなかろう。
それはたまたま俳句を丹念に読み返していて気が付いたことで、やはり歯車と無関係とは思えない要素ながら、余りにも情報として淡白であるため何か決定打のようなものにはならないけれども、とりあえずこれまでに書かれた芥川龍之介の『歯車』における「歯車」の意味とは何か、という問いに対する安直な仮説を一時停止させる程度の要素ではあるだろう。
そういう要素というものはまだまだ隠れているのであろうし、そこから逃げてもいけないと思う。そこをおざなりにして「芥川龍之介論」も「『歯車』論」というものもあり得ない。できることは精々一つのテーマに絞った「一考察」だ。
その線引きは明確でなくてはならない。
そこで逃げないで考えてみると、例えば
・芥川龍之介の『歯車』における「歯車」の意味とは何か
・芥川龍之介の『歯車』における結婚披露式に夫婦ではなく一人で向かうのは何故か
・芥川龍之介の『歯車』における「遅刻」の意味とは何か
・芥川龍之介の『歯車』における「昼間出る幽霊」の意味とは何か
・芥川龍之介の『歯車』における「棗」の意味とは何か
・芥川龍之介の『歯車』における「レエン・コオト」の意味とは何か
・芥川龍之介の『歯車』における「膠臭いココア」の意味とは何か
・芥川龍之介の『歯車』における「親子丼」の意味とは何か
・芥川龍之介の『歯車』における「しかしもう隅々には」の「しかし」の意味とは何か
・芥川龍之介の『歯車』における「豹に似た海綿」の意味とは何か
こうした問いの一つ一つを整理していく作業が必要になる。今のところここに上げている中でも「遅刻」「膠」「しかし」「豹に似た海綿」に明確な答えは見つからず、とくに「膠」「しかし」「豹に似た海綿」に関してはヒントさえ見つからないので何も書けないでいる。しかし私は不必要な謙遜をしている訳ですらない。「膠」「しかし」「豹に似た海綿」に関して明確な説明の出来る人はまだ存在しないだろう。
その人は明日現れるのかもしれないが、まだいない筈だ。外部からいろんなものを勝手に持ってきたトンデモ説に陥らずに、「豹に似た海綿」を説明するのは困難なことかもしれない。しかし最初はただの「訳の分からない話」であった『歯車』がなんとか「ここまでは解った話」になりつつあることも確かである。

こんな紅葉の句、
目鼻かく関羽が面の棗かな
を眺めててさえ「棗ということは肥っているだけではなく赤ら顔だって可能性はないか」と考えてみる。こんな繰り返しでここまで来た。
それは基本的に「は」と「も」の違いを確認する程度の地味な作業の積み重ねだった。だから「しかしもう隅々には」の「しかし」の意味というものもおろそかにすることはできないのだ。「は」でも「も」でもどちらでもいいじゃないかということにはならないし、
緑いろのタクシイはやっと神宮前へ走りかかった。そこには或精神病院へ曲る横町が一つある筈だった。しかしそれもきょうだけはなぜか僕にはわからなかった。僕は電車の線路に沿い、何度もタクシイを往復させた後、とうとうあきらめておりることにした。
このように『歯車』の都市空間が主人公の主観によりゆがめられたものであることを無視してはいけない。こんなに頼りない道案内はいないのだ。「おける」と書く時にはその考察が作品を疎外していないか、そんなことを気遣う慎みが必要であろう。

