朝焼けや椎の葉秘事に下焦がれ 芥川龍之介の俳句をどう読むか137
時雨んとす椎の葉暗く朝焼けて
大正八年二月二十八日、片山広子あての葉書に「即景」として添えられた句である。この時まだ芥川は床に臥せている。同じ句は岡栄一郎にも宛てられており、ここに個人的な通信の意味はなかろう。
では一体何故「暗く朝焼けて」いるのは「椎の葉」であり、「庭の松」ではないのか。
実は芥川の句に「椎」はこれしか現れず、芥川にとって「椎」は何か象徴的な意味を持った特別なものであったと考えられるのだ。
椎の木
椎の木の姿は美しい。幹や枝はどんな線にも大きい底力を示してゐる。その上枝を鎧つた葉も鋼鉄のやうに光つてゐる。この葉は露霜も落すことは出来ない。たまたま北風に煽れれば一度に褐色の葉裏を見せる。さうして男らしい笑ひ声を挙げる。
しかし椎の木は野蛮ではない。葉の色にも枝ぶりにも何処どこか落着いた所がある。伝統と教養とに培れた士人にも恥ぢないつつましさがある。檞
の木はこのつつましさを知らない。唯冬との䦧ぎ合ひに荒荒しい力を誇るだけである。同時に又椎の木は優柔でもない。小春日と戯れる樟の木のそよぎは椎の木の知らない気軽さであらう。椎の木はもつと憂鬱である。その代りもつと着実である。
椎の木はこのつつましさの為に我我の親しみを呼ぶのであらう。又この憂鬱な影の為に我我の浮薄を戒めるのであらう。「まづたのむ椎の木もあり夏木立」――芭蕉は二百余年前にも、椎の木の気質を知つてゐたのである。
椎の木の姿は美しい。殊に日の光の澄んだ空に葉照の深い枝を張りながら、静かに聳えてゐる姿は荘厳に近い眺めである。雄雄しい日本の古天才も皆この椎の老い木のやうに、悠悠としかも厳粛にそそり立つてゐたのに違ひない。その太い幹や枝には風雨の痕を残した儘。……
なほ最後につけ加へたいのは、我我の租先は杉の木のやうに椎の木をも神と崇めたことである。
ここまで褒めるかというくらいほめていて、なおかつ自分の庭にも椎があるとは書かない。ただしこの椎の木は敢えて男性的に描かれている。
四 新緑の庭
桜 さつぱりした雨上りです。尤もつとも花の萼は赤いなりについてゐますが。
椎 わたしもそろそろ芽をほごしませう。このちよいと鼠がかつた芽をね。
竹 わたしは未いまだに黄疸ですよ。……
芭蕉 おつと、この緑のランプの火屋を風に吹き折られる所だつた。
梅 何だか寒気がすると思つたら、もう毛虫がたかつてゐるんだよ。
八つ手で 痒かゆいなあ、この茶色の産毛のあるうちは。
百日紅 何、まだ早うござんさあね。わたしなどは御覧の通り枯枝ばかりさ。
霧島躑躅 常――常談じやうだん云つちやいけない。わたしなどはあまり忙せはしいものだから、今年だけはつい何時にもない薄紫に咲いてしまつた。
覇王樹 どうでも勝手にするが好いいや。おれの知つたことぢやなし。
石榴 ちよいと枝一面に蚤のたかつたやうでせう。
苔 起きないこと?
石 うんもう少し。
楓 「若楓茶色になるも一盛り」――ほんたうにひと盛りですね。もう今は世間並みに唯水水しい鶸色です。おや、障子に灯がともりました。
これが芥川の庭の景色なら、松や蠟梅が抜けている感じはあるものの、おそらく椎はあったのだろう。この椎は女性として書かれている。
椎の葉
完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与へられた特権である。如何なる楽天主義者にもせよ、笑顔に終止することの出来るものではない。いや、もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯如何に幸福に絶望するかと云ふことのみである。
「家にあれば笥にもる飯も草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは行旅の情をうたつたばかりではない。我我は常に「ありたい」ものの代りに「あり得る」ものと妥協するのである。学者はこの椎の葉にさまざまの美名を与へるであらう。が、無遠慮に手に取つて見れば、椎の葉はいつも椎の葉である。
椎の葉の椎の葉たるを歎ずるのは椎の葉の笥たるを主張するよりも確かに尊敬に価してゐる。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であらう。少くとも生涯同一の歎を繰り返すことに倦まないのは滑稽であると共に不道徳である。実際又偉大なる厭世主義者は渋面ばかり作つてはゐない。不治の病を負つたレオパルデイさへ、時には蒼ざめた薔薇の花に寂しい頬笑みを浮べてゐる。……
追記 不道徳とは過度の異名である。
何が書かれているのかは即座に理解できない程度に、しかし明らかに言葉遊びではない、真剣な語り口である。まるで椎の葉と何か不道徳な関係にあったかのような書きっぷりである。どうもこだわりすぎていて、かつ深刻なものを感じさせる。
四十八 死
彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の体に指一つ触つてゐないことは彼には何か満足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言つたりした。
それは実際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に与へる平和を考へずにはゐられなかつた。
この椎の葉は、この「彼女」と結び付けられているようにしか思えない。ただしこの「彼女」というのは芥川文子により、平松麻素子だと認定されている。
しかし夫が妻に秘密のあることは冷蔵庫に玉子と牛乳が入っているくらいありふれたことである。
大正十三年夏、主人は軽井沢に滞在していて、片山広子夫人ともお知り合いになったようです。主人の葬儀には片山夫人が参列してくださいました。
片山広子が見まいに来たのは前日の大正八年二月二十七日のことか。その日は木曜日の平日である。妻の記憶の中にはこの日の事はない。そして大正十三年夏よりも前から二人が知り合いで、しかも単なる知り合いではなく病気の見舞いに来るほど親しい間柄であったことを妻は知らない。
僕は神経衰弱の上に胃酸過多とアトニイと両方起こつてゐるよし、又この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし、実に厄介に存じてゐます。
何を書く気も何を読む気もせず、唯徳富蘇峰の織田時代史や豊臣時代史を読んで人工的に勇気を振り起こしてゐる次第、何とぞこのリデイキユラスな所をお笑ひ下さい。(但し僕自身は大真面目なのです。)
湯河原の風物も病人の目にはどうも頗る憂鬱です。
唯この間山の奥の隠居梅園と申す所へ行き、修竹梅花の中の茅屋に渋茶を飲ませて貰つた時は、僕もかう言ふ所へ遁世したらと思ひました。
が、梅園のお婆さん(なもと言ふ岐阜語を使ひます。)と話して見ると、この梅園を譲り受けるとして,地価一万ニ三千円、家屋新築費一万円、温泉を掘る費用一万円、合計少なくとも三万ニ三千円の隠遁費を要するのを発見しました。その上何もせずに衣食する為に信託財産七八万円を計上すると、どうしても十万円位入用です。
西行芭蕉の昔は知らず遁世も当節では容易じゃありません。さう考へたら、隠居梅園も甚だ憂鬱になつてきました。
いづれ一度お目にかかり、ゆつくり肉体的並びに精神的病状を申し上げます。
道ばたの墓なつかしや冬の梅
二月八日 芥川龍之介
片山広子様 粧次
他の女にあてた手紙には「リデイキユラス」などという言葉は使うまい。「いづれ一度お目にかかり、ゆつくり肉体的並びに精神的病状を申し上げます」とも書かまい。余ほど親しくなければ、つまり色々と相談できる関係でなければ、そもそも「いづれ一度お目にかかり、ゆつくり肉体的並びに精神的病状を申し上げます」と書くわけもないのだ。
その割には回収されている手紙が少ない。それはつまり少なくとも九年以上続いた親密な交際の中で、回収できる手紙、公にできる手紙がかなり少ないということになるのではなかろうか。
すると俄然、大正七年十月八日の外泊が気になる。電気技師の嫁は二歳年上、片山広子は十四歳年上、芥川龍之介が三十五にもなればもう五十近いおばあさんである。ただしその八年前なら、「黒き熟るる実」「夕鶯」の女ざかりではあるまいか。
時雨んとす椎の葉暗く朝焼けて
この句は最初確かに「即景」で特別な意味を持たなかったのであろう。しかし次第に象徴的なイメージに変容し、最後まで芥川をとらえて離さなかったのではなかろうか。
芥川は昭和二年の春、麻素子さん(平松)と帝國ホテルで死なうとしてゐる。
この証言は何とも覆しがたい。しかし私は
それは実際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に与へる平和を考へずにはゐられなかつた。
この椎の若葉にはどこか片山広子の気配を感じないではいられないのだ。椎の若葉は初夏に芽吹く。春には若葉はない。
