芥川龍之介の『歯車』をどう読むか45 「何かの都合上」とは一体何なのだ?
もしも「歯車」というライトモチーフを『歯車』という作品の主題にまで引き上げようとするならば、いささか乱暴なやり方であることを百も承知の上で、昭和二年七月に書かれたという『機関車を見ながら』を偶然を装いつつ引用し、どこか一か所でも太字で強調してみるというやり方があるかもしれない。
我々は我々自身ではない。実はやはり機関車のやうに長い歴史を重ねて来たものである。のみならず無数のピストンや歯車の集まつてゐるものである。しかも我々を走らせる軌道は、機関車にはわかつてゐないやうに我々自身にもわかつてゐない。この軌道も恐らくはトンネルや鉄橋に通じてゐることであらう。あらゆる解放はこの軌道のために絶対に我々には禁じられてゐる。こういふ事実は恐ろしいかも知れない。が、いかに考へて見ても、事実に相違ないことは確かである。
もしもこれを無視するとしたら「歯車」という言葉は、大正八年まで遡らなくては見つからない。
するとその話がきまった頃から、妙に私は気が鬱して、自分ながら不思議に思うほど、何をするにも昔のような元気がなくなってしまいました。たとえば学校へ参りましても、教員室の机に倚より懸りながら、ぼんやり何かに思い耽って、授業の開始を知らせる板木の音さえ、聞き落してしまうような事が度々あるのでございます。その癖何が気になるのかと申しますと、それは私にもはっきりとは見極めをつける事が出来ません。ただ、頭の中の歯車がどこかしっくり合わないような――しかもそのしっくり合わない向うには、私の自覚を超越した秘密が蟠まっているような、気味の悪い心もちがするのでございます。
この『疑惑』に『歯車』の「歯車」を紐づけるのはさすがに無理があるだろう。逆に『歯車』を書きながら、『機関車を見ながら』を全く意識していないとするのにも無理があろう。我々が機関車であること、それは死の直前における芥川の達観であった。
確かに自動車や徒歩はしばしば目的地に辿り着かないものではあるのに、線路の上を走る汽車は仮令定刻を過ぎることがあったとして目的地をたがえることは出来ない。「我々はいづれも機関車である」の「我々」には「僕」も、轢死した男も、T君も、そして人間を轢いた汽車も含まれるのだろう。無数のピストンや歯車の集まつてゐるものである以上、レールから跳ね上がり、人間を避けることもできない。
ただ大人たちの機関車は言葉通りの機関車ではない。しかしそれぞれ突進し、しかも軌道の上を走ることもやはり機関車と同じことである。この軌道は或は金銭であり、或は又名誉であり、最後に或は女人であらう。
或いはこんな一節は『歯車』の中に紛れ込んでいてもなんら違和感のないものだ。
次の上り列車に乗ったのはもう日暮に近い頃だった。僕はいつも二等に乗っていた。が、何かの都合上、その時は三等に乗ることにした。それは僕自身が機関車だからだ。僕の軌道は女生徒の群れに向けられていた。僕はそこに歯どめを感じると共にエンヂンを、――石炭を、――燃え上る火を感じないわけにも行かないのである。
そんなことは書かれていない?
勿論『歯車』にはピストンは描かれない。それは小説に書かれるべき事ではなく、黙々と行うべきことだからだ。
ならば「何かの都合上」とは一体何なのだ?
それも書かれていない。書かれている事実は、「僕」が女生徒の群れを眺めていたということだけだ。
汽車の中は可也こみ合っていた。しかも僕の前後にいるのは大磯かどこかへ遠足に行ったらしい小学校の女生徒ばかりだった。僕は巻煙草に火をつけながら、こう云う女生徒の群れを眺めていた。
見たくないものから人は目を背ける。「僕」は女生徒の群れを眺める。雑誌や新聞を読むこともなく、スマホをいじることもしない。音楽も聞かない。何時間もの間何もしないで女生徒を観察して「一人前の女」だと勝手なことを言っている。「最後に或は女人であらう」と書いた機関車人間が、わざわざかなり混んだ三等の列車に乗り込み、女生徒を観察している。
のみならず我々はどこまでも突進したい欲望を持ち、同時に又軌道を走つてゐる。この矛盾は善いい加減に見のがすことは出来ない。我々の悲劇と呼ぶものは正にそこに発生してゐる。
だからこそ屋根裏の隠者は、
「その植木屋の娘と云うのは器量も善いし、気立も善いし、――それはわたしに優しくしてくれるのです」
と言うのだろう。しかしこれは喜劇である。仮に「僕」がロリコンであったとして、書いている人はかなり上の方まで行ける人なのだ。前者を悲劇的機関車とすれば後者は喜劇的機関車かも知れない。
