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岩波書店・漱石全集注釈を校正する28 アンチグルメの乾屎橛はカチカチの猫鍋 

芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし

吾輩はまた少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行びこうする勇気もないからずっと略してその間あいだ休養せんければならん。休養は万物の旻天から要求してしかるべき権利である。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 ここは『坊っちゃん』の天麩羅事件と対になる考え方であろう。誰が何杯そばを食ったとか団子を食ったとか、そんなことは詮索の必要はないとは、案外漱石の本音だったのではあるまいか。しかるに現代においても文豪飯信仰は続いていて、誰それが何処で何を食ったという話がしきりに書かれる。専門の本まで出る始末。みなそれが文学だと信じている。
 そんな馬鹿な、と言いたい。『三四郎』では美禰子のサンドイッチを食べても三四郎は美味いとも何とも云わない。淀見軒のライスカレーも、野々宮に御馳走された西洋料理も美味いとも何とも云わない。ただ平らげる。鮎の煮浸しの味も一言も言わない。頑としてグルメを拒否している。
 まさか漱石が今の文豪飯流行りを予見して牽制していたとまでは思わないが、そんなものは文学とは関係ないのだとは言っておきたい。

乾屎橛

岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解に、

乾屎橛 「従来「クソ掻き箆」と解されたのは誤りで、棒状のまま乾燥したクソそのもの」(古賀英彦『禅語辞典』)をさすという。しかしここでは、従来の、拭いた不浄物がそのまま乾いているクソカキベラの意味。活眼を開いてみれば、不浄物も真理であることを説く禅語。

(『定本 漱石全集第一巻』岩波書店 2017年)

 ……とある。古賀英彦の『禅語辞典』によって従来の誤った解釈が正されたかのような記述となっているけれども、古賀英彦の『禅語辞典』は1991年刊行であり、

しかしながらこの如来という言葉が、仏教の伝統の言葉とは違うかもしれませぬが、さながらにそこにあるものであります。そういうものがそれが如来であります。それがただ人間だけではありませぬ。動物でも、植物でも、こういうものでもみなこれが如来であります。「仏とはなんぞや」「乾屎楔」かわいた馬糞であると答えた禅宗の坊さんがあったはずであります。「仏とは何であるか」「かわいた馬糞である」これはとっぴな言葉ではなくして、私はほんとうだと思います。馬糞もまた如来である。ただこれに気づくと申しましても、気づくということは心の底から気づくことでなければならぬ。気づくと申しますのは信心の目を見開いた。あるいは仏の目を開いたいわゆる開眼であります。そのときその人間は仏さまであります。それが私の信仰であります。

(倉田百三『生活と一枚の宗教』)

 この本が昭和三十八年、1963年刊行であることから、乾屎橛の捉え方そのものに諸説あったと考えるべきではなかろうか。


仏教問答集 第1編

橛はクイと訓ず。即ち糞屎の乾けるを一橛と訓む。

『仏教問答集 第1編』高田道見 著||祥雲晩成 編仏教館 1904年

 このように乾屎橛を糞そのものとする捉え方は古くからあり、

乾屎橛と云ふはりクソカキベラと云ふこと、日本でも飛彈の山奥の方へ行つた時この乾屎概が用便に備へ付けて有つたのに出つくはした。


『無門関の新研究 中巻』井上秀天 著宝文館 1925年

 一方でクソカキベラと解す文献が多い。「糞箆」自体が禅語となり、さらに、

支那の山間辟地の下等社會は、大便所の傍に、橛棒を橫へ置き、糞し了つて之に跨り、尻を着て磨し去ること四五歩するなり。是れを以つて此の橛棒子、常に乾糞を止む。之を乾屎概と謂ふ。

『碧巌録大講座 第14巻』加藤咄堂 著平凡社 1940年

 このように糞の拭き方まで説明され、「橛棒子」という道具まで特定される。つまり日本ではクソカキベラとの解釈が広まっていた一方、馬糞説もあり、人糞とも定めがたいのではなかろうか。
 また「拭いた不浄物がそのまま乾いている」とする岩波の解釈には「糞箆」は洗わないものという信念のようなものが込められているが、やはりいくらなんでも洗うなり、葉っぱで拭うなりはするのではなかろうか。

 さらに「活眼を開いてみれば、不浄物も真理であることを説く禅語」とあるも「不浄物も真理」ではなく「不浄物も仏様」であろう。

 ちなみに漱石の捉え方は大仰に吾輩に説かせる一方で、

「石段をあがると、何でも逆様だから叶かなわねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂えは気狂えだろう。――さあ剃れたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」
「いやもう少し遊んで行って賞められよう」
「勝手にしろ、口の減らねえ餓鬼だ」
「咄この乾屎橛」
「何だと?」
 青い頭はすでに暖簾をくぐって、春風に吹かれている。

(夏目漱石『草枕』)

 このように「何でも逆様」という程度に柔軟である。カチカチではない。

猫鍋


東京語辞典 小峰大羽 著新潮社 1917年

 俗語が出来るほど当たり前のものだったようだ。

相変らず午睡ですかね

「時に御主人はどうしました。相変らず午睡ですかね。午睡も支那人の詩に出てくると風流だが、苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気がありますね。何の事あない毎日少しずつ死んで見るようなものですぜ、奥さん御手数だがちょっと起していらっしゃい」と催促すると細君は同感と見えて「ええ、ほんとにあれでは困ります。第一あなた、からだが悪るくなるばかりですから。今御飯をいただいたばかりだのに」と立ちかけると迷亭先生は「奥さん、御飯と云やあ、僕はまだ御飯をいただかないんですがね」と平気な顔をして聞きもせぬ事を吹聴する。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 これは注を付けにくいところであるが、この会話は意味深である。夏目鏡子は漱石に下剤のほか睡眠薬を飲ませていた時期があったからだ。「ほんとにあれでは困ります」「今御飯をいただいたばかりだのに」とは言いながら、漱石の癇癪を恐れて、こっそり睡眠薬を飲ませていたと思えば、夫婦というものは実に不思議なものである。


[余談]

 先週何故か盛んに読まれていたこの記事がぱたりと読まれなくなった。

 相変わらずこの記事だけはよく見られている。

 そんなに同性愛が好きなのかなと不思議に思う。



結論 ∴ 同性愛者は図書館に行かない?

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