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芥川龍之介の『温泉だより』が解らない⑤ 「歴史もの」なのかどうかが解らない

 さて、本当に分からない。おそらくここには芥川文学の肝とでもいうべきものがある。何故ならこれは評判の「きりしたんもの」でも不評な「保吉もの」でもなく、『羅生門』や『地獄変』のような「歴史もの」でもないのだ。

当世力士銘々伝

 ん? 「歴史もの」……なのだろうか。
 私はこれまで第二次「新思潮」に参加した谷崎潤一郎の『誕生』が『栄花物語』に材を取り、その後も江戸以前の時代を舞台に谷崎作品が書かれ続けたこと、そして第四次「新思潮」に参加した芥川龍之介が『鼻』や『羅生門』で『今昔物語』等に材を取り、その後も江戸以前の時代を舞台に芥川作品が書かれ続けてきたことに対して、あるいはその掲載誌が「新思潮」といういわば「新ニュービーズ」とでもいうような「新しさ」を主張していることにただひたすら戸惑い続けて来た。

 谷崎は観念小説や深刻小説や家庭小説に対して新しいのであり、谷崎がネオ・ロマンティシズムの先駆者として享楽主義を出したのが新しいのであると考えてみよう。

 そのネオ・ロマンティシズムの台頭を、夏目漱石が『彼岸過迄』で「そうして自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、ないしネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである」と批判し、芥川龍之介の『鼻』を「新しい」と激賞したことはやはり捻じれている。

 夏目漱石と谷崎潤一郎の間は没交渉であったことは、一方ではあからさまな文学感の相違のようでありながら、それだけでは片付かない根深いものがあるように思われる。

 いや、話を芥川に絞ってみれば、芥川が『戯作三昧』を書き、意地にもなって前時代を書き続けてきたことの意味は、そもそも誰の目にも明らかなものなのだろうか?
 私はこの『温泉だより』を読んでこそ、そこが解らなくなる。

 この問題はしばしば、いや繰り返し論じられてきた。つまり自然主義の作家が本当のことを書くために、作家である自分を主人公としてその私生活を告白することは、ある意味では王朝物語に対するアンチテーゼではあった。しかしそんな作家の告白などに事件などそうそう生まれない。
 その停滞感に対して、例えば『羅生門』の下人はあくまでも「名もなき人」でありながらしっかり事件を起こすことが出来た。藤原道長を持ち出さなくても事件は起こせるのだ。

 たとえばリストラされた下人という設定は、すりつぶされるだけのサラリーマン問題として、現代においてなおモダンなテーマ性を持ちうる。近代とは、ある意味では封建社会から解放された士族が、一旦全員リストラされたような状態だと言えるかもしれない。無論士族だけではなく封建社会のメカニズムの中で糧なしていた人たちが、そのまま近代社会のメカニズムに居抜きで引き取られたわけではない。だがこのリストラは、近代以降の問題ではない。飢饉や疫病といった災害の度に繰り返されてきたものなのだ。
 ということはつまり、逆に芥川龍之介はリストラされた下人の代わりに、朝鮮に落ちる小林を書くことも出来た筈なのだ。
 現に夏目漱石は大連に逃げる森本を描いた。その時代のリアルと真正面から向き合った。無論芥川はリストラされた下人を描くことによって、リストラが近代の発明品ではないことを指摘し、夏目漱石のリアルを批判したわけではないだろう。しかしそこにはいささか人の悪いところがあることも確かだろう。

 その人の悪さが『温泉だより』にも表れていることは間違いないのだ。事件は明治時代の話だ。話者は正体不明の「わたし」であり、萩野半之丞と「わたし」の関係性は最後まで解らない。国木田独歩の名前を出して「国粋的省略法」などと書いてみる。「き」の字の橋がない。さらに「田園的嫉妬の表白」と書いて何があったのかを書かない。ジャイアント馬場くらい大きな大工の息子がずんぐりしている。ずんぐりとは太っていて背が低いさまをいう。……これはいかにも人が悪い。
 例えば萩野半之丞と「わたし」の関係性のなさ、あるいは作家と「わたくし」の関係の無さも、ただ「賺し」だと簡単に片づけてしまうこともあるいは可能かもしれない。
 あるいはそれは賺しでもなんでもなく、これまで書かれてきた芥川作品のすべてに共通することで、例えば『地獄変』における堀川の大殿様にも二十年来御奉公している「私」も芥川龍之介とは何の関係もないのだ、と問題にすらしなくても良いことなのかもしれない。
 『地獄変』においては現場の「私」を話者として語らせたのに対して、『羅生門』では身体性を持たない作者が物語世界にカメラを回す。『温泉だより』でも「あ」の字の旦那に語らせるなり、身体性を持たない作者が語るなりというやり方もあったものを正体不明の「わたし」に取材させるという独特の語りのスタイルを取る。

 この語り口は、この語りのスタイルの意味はどこにあるのか、それがまるで解らないことに気が付いてしまうと、そもそも身体性を持たない作者が語ることと、現場の「私」を話者として語らせることの意味も解らなくなる。あるいは保吉という芥川龍之介の分身のような存在が、回顧の形式で失われた過去を語ることの意味が解らなくなる。つまり、芥川龍之介作品のすべてがまるで解らなくなるのだ。

 そして、

「あいつももう仕かたがないのですよ。『青ペン』通いばかりしているのですから。」
 我々はそれから「き」の字橋まで口をきかずに歩いて行ゆきました。……

(芥川龍之介『温泉だより』)

 この瞬間の「わたし」の感情が解らない。「あ」の字の旦那は萩野半之丞の息子の『青ペン』通いを笑っていた。では「わたし」はがっかりしたのか呆れたのか、それが解らない。黙ったのは「あ」の字の旦那も同じだ。旦那を黙らせたということは、「な」の字さんの顔が曇って、たちまち「あ」の字の旦那が後悔したのかとまずは思う。しかし「わたし」の感情は見えない。萩野半之丞と「わたし」の関係性が解らないので、なんとも判断しようがないのだ。

 あえて言えば、やはり「わたし」は萩野半之丞と何らかの因縁を持った人物ではないかということが推察できる。そうでなければ『温泉だより』という小説は成立しない。

 あるいは何故『青ペン』が続いていたのかが解らない。長逗留した芥川自身が『青ペン』に通ったのかどうなのかが解らない。『青ペン』で何が行われるのかも解らない。
 解らないことだらけだ。



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