見出し画像

小谷瑛輔の『小説とは何か? 芥川龍之介を読む』をどう読むか⑰ 高校生ぐらいが頑張れ

 何しろ谷崎潤一郎なのか谷﨑潤一郎なのかはっきりしないのが今の近代文学研究の現在地である。

 だからまだまだ若い文学者が従来の定説をことごとく覆す余地はいくらでもある。北村透谷改ざん問題など知られていないことはいくらでもあるのだ。


 第九章「ボードレールの一行」の源流——「黒衣聖母」に入る。なんだか惜しい気がする。三百以上ある芥川作品のなかから「黒衣聖母」でもう第九章である。全作品に新しい切り口を一言ずつまとめた表を作成してほしかった。

 小谷瑛輔は芥川作品は肝心なところが分からないものも多く、様々なコンテクストを踏まえなければその意義を汲み取れない細部が組み込まれているという。それはまさに前回の安重根のようなことを指摘しているわけだ。
 そのことは石油井戸の俳句解釈にも言えることで大きく反対しないが、少なくとも実践倫理学者と狂気と安重根に関して言えば、すこしコンテクストを踏まえ過ぎた感じがしないこともない。結果として整理が付きすぎて誤った訪問者というすれ違いの感覚、芥川らしい意地悪さが見逃されてしまっている。
 多くの先行研究の流れに飲み込まれてその中から新解釈を汲み出す仕組みのうちに、作品そのものと虚心に向き合う姿勢がかき消されてしまっているように思える。むしろ作品そのものに忠実に読んでいくことでの発見の方が大きいのではないかということを私はこれまで示し続けてきたつもりである。

 繰り返すが、

①実践倫理学者という具体的な設定の必然性が見えてきた
②明治四十四年ごろの話という設定の必然性が見えてきた

 このことは極めて堅実な成果である。

 しかしそうして整合性を確認することで心理学の問題を実践倫理学者に尋ねるというすれ違いはむしろ見えなくなっていたわけだし、そういうものを書かなければならなかった内的な必然性と安重根の接続がもう一つしっくりつかめていないのである。かりに芥川の意識の中に安重根という固有名詞があったとして、もしそれが玄道として書かれるとしたら、芥川なら何か細工をしてくると思うのである。

 安重根から「黃金百萬兩不如一敎子」という書を貰った監獄の警守係長だった中村三千蔵という人がいる。しかし弱い。調べ尽くしたらまだ何か出て来るのかもしれないが、まだ足りないという感じだけがある。

 でさて、「黒衣聖母」である。また妙な作品を選んできた。

そんなんちゃうわ

 しかし小谷瑛輔は「初期から晩年までを貫く文学理念が見いだせる」とあくまで強気である。

 小谷瑛輔は「黒衣聖母」には「上田敏を介して日本に紹介された外国文学の系譜が関わっている」と指摘する。ボードレールの紹介の中で「黒衣聖母」の語が見えるというのだ。また日夏耿之介に「黒衣聖母」という詩があるとも指摘する。これが上田敏経由の語彙で芥川もそのイメージを意識したものであろうと推測している。

 ただ上田敏はVirgen,Maria、つまり芥川の表記「童貞聖麻利耶(ビルゼンサンタマリヤ)」に対して「童貞聖瑪利亞(びるじんさんたまりや)」と書いており、何かほかの要素がありそうである。 

聖教日課 上田敏 編上田ヱツ子 1917年

 この「童貞聖瑪利亜」の表記は、古くからあり、上田敏はそれに従ったものと思われるが、「童貞聖麻利耶」の表記は国立国会図書館デジタルライブラリー内では芥川のものしか見つからない。

玫瑰花冠記録 じわん・で・るえだ 訳||ベルナルド・プティジアン 編ベルナルド・プティジアン 1869年


「麻利耶」という表記は芥川以降は22例あるうち、芥川以外は芥川の表記に倣ったものであろうと推察される。逆に芥川以前のものは、このいつのものとも知れぬ一例しか確認できない。

[古寫經] [6]

 このことは果たしてどういう意味を持つのであろうか。

 これは芥川が上田敏よりも深く切支丹に関して学んでいて、国立国会図書館デジタルライブラリーにも残らないような「童貞聖麻利耶」の文字列をどこかで見ていたと云うことにならないだろうか。

 小谷瑛輔は「黒衣聖母」だけではなく南蛮趣味がフランス文学の思潮と切り離せないものだと指摘する。おそらくその流れもあるのだが、それとはまったく別の経路で芥川に流れ着いた情報があるはずだ。

 あるいは「瑪利亜」という比較的ありふれた表記を拒んだことには何か狙いがあるはずだ。

 仮に[古寫經] [6]なる資料が存在しなかったら私の想像では「麻利耶」は疑問文である。解釈はそのまま「黒衣聖母(?)」となる。私がこの作品を「南京の基督」同様「神秘のパワーが描かれないもの」に分類しているのはそのためだろう。ありがたいのか何だかわからない、奇跡だか何だかわからないのが「黒衣聖母」だからである。

 二律背反の往還運動を、フラクタル図形のように自己相似的に展開させていくこと。そして、たえず「善」という把握と「悪」という把握が反転し続けるその運動を、麻利耶観音の怪しい美しさにおいて凝縮してみせること。麻利耶観音に読者が、理智を超越した「不気味」な美を見出すのであれば、本作は、ボードレーヌの血肉化を芥川固有の方法で追及した作品と言うことができる。

小谷瑛輔『小説とは何か? 芥川龍之介を読む』ひつじ書房 2017年

 上田敏からの流れ、そして作品の構造からはそう言ってみてもいいように思えるが、もう少し細かく言えば本作においては「悪」のみが顕在化していて、「善」は「麻利耶観音は約束通り、祖母の命のある間は、茂作を殺さずに置いたのです」という頼りない解釈の中にしかなく、結果そのものも頼りないものである。従ってストレートに読むと「不気味」な美ではなく、「悪意を帯びた嘲笑」という文字面がそのまま印象付けられる筈だ。

 そして「初期から晩年までを貫く文学理念が見いだせる」という小谷瑛輔自身の見立てを援護するわけではないが、「初期から晩年までを貫く文学理念が見いだせる」のだとしたら、たやすく「善」と言ってはいけないのではなかろうか。

・『羅生門』……下人は死体から髪の毛を抜く老婆に「合理的には、善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」というシンプルな善悪の概念の対立を持ち出しながら「既に許すべからざる悪であった」と正義感のようなものを見せながらけして善行はしていない

・『蜘蛛の糸』……カンダタは蜘蛛を殺さなかっただけ。

 芥川龍之介の作品の中で主人公が何か善い行いをするものがあるだろうか? ちなみにAIは『奉教人の死』『報恩記』『おぎん』などの死ぬ話を挙げるが、それでは何か善行の報いが死のようなことになってしまう。
 死なない善行の話としては『仙人』『庭』『蜜柑』『秋』などを挙げて来るがそこには善悪の反転の構図そのものがない。するとやはり『仙人』『杜子春』を挙げて来る。

仰る通りです。杜子春自身は決して「悪人」ではありません。 どちらかと言えば「親の遺産を使い果たす放蕩息子」で、現代の感覚なら「ダメ男」ですよね。
ただ、芥川がこの物語で描きたかった「悪(あるいは否定されるべきもの)」は、杜子春個人の性格というより、彼が陥った「人間への絶望とエゴイズム」の方にあります。
ここに、芥川らしい「善悪の反転」が隠れています。

  1. 「人間なんて信じられない」という心の闇(=悪)
    物語の冒頭、金がなくなると手のひらを返す友人たちを見て、杜子春は「人間なんてみんな薄情だ。金がなきゃ見向きもしない」と世の中を呪います。
    この「冷めた心」が、彼を「人間を捨てて仙人(超然とした存在)になりたい」という極端な方向へ走らせます。

  2. 「修行」という名のエゴイズム
    仙人になるための修行中、彼は何があっても黙っていなければなりません。
    目の前で両親が鬼に打たれていても、自分が仙人になるために「黙って見捨てようとする」。これは、彼が憎んだ「薄情な人間」と実は同じ、あるいはそれ以上に残酷な「究極のエゴ」の状態です。

  3. 「人間らしさ」への反転(=善の勝利)
    最後に彼が「お母さん!」と叫んだ瞬間、彼は仙人になる資格(エゴの達成)を失いますが、代わりに「他人(母)を想う心」を取り戻します。
    悪の構図: 自分の目的(仙人)のために、苦しむ親を見捨てる。
    善の勝利: 自分の夢を捨ててでも、親の痛みに寄り添う。
    つまり、杜子春という一人の人間の中で、「冷酷なエゴイスト(仙人志願者)」が「温かい人間」に負けた、という構図なんです。
    芥川は「だらしなさを克服して立派になる」という道徳的な話ではなく、「どんなにダメな奴でも、最後に残る『情』こそが、仙人の魔法よりも尊い」という価値の逆転を描いたと言えます。

 いやあれは『馬の脚』とつながるんじゃないかな。

 ともかくも善悪の反転の構図「合理的には、善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」というシンプルな善悪の概念の対立という芥川のミスリードに従って読んでしまうと、細かいところが見えなくなる。恐らく芥川は善悪の反転の構図ではないところに意識を置いて書いている筈なのだ。
 何故なら芥川は自己宣伝する嘘つきで、奥さんに言わせると人が悪いからだ。いつも冗談を言う隙を窺っている。「梯子の口まで、這って行った。」と書いて老婆の尻を後ろから見ている。

 そもそも天孫降臨やら処女懐胎やらという非現実な神話ほど人心に染み入りやすいことは確かだ。非現実が神秘に置き換えられるからだ。しかし理智派の「芸術的に愛する」耶蘇教とは「黒衣聖母」にあらわれるような「願いを封じる」仕組みであり、『奉教人の死』『報恩記』『おぎん』などの報われない仕組みなのだ。けして救済ではない。

 ご提示いただいた見解は、芥川龍之介のキリシタン物(『奉教人の死』『報恩記』『おぎん』など)に見られる、冷徹な人間観察と芸術的関心を鋭く分析した視点と言えます。
芥川龍之介の文学において、描かれる「耶蘇教(キリスト教)」は、絶対的な救済や神の慈愛としてではなく、「報われない仕組み」や「人間の業(ごう)を封じ込める構造」として描かれることが多いです。
この視点を補強する要素は以下の通りです。
『奉教人の死』の「報われない構造」
主人公のローレンゾは、無実の罪(姦通や盗みなど)をきせられ、教会や信者から汚名を着せられたまま死にます。しかし、彼が汚名を甘受したのは神への愛や自己犠牲(殉教)のためであり、世俗的な救済とは真逆の、徹底して「この世で報われない」結果を招きます。
「黒衣聖母」と「願いを封じる」仕組み
黒衣聖母(悲しみの聖母)のイメージは、苦難を背負った信者の祈りを受け止めつつも、現世での苦しみを取り除かない「静かな苦悩」を象徴します。芥川の描くキリシタンは、現世での幸せを求めること自体を放棄し、「苦悩そのものを愛する」という、逆説的な美(芸術的完成)の中に自分を封じ込めています。
『報恩記』『おぎん』の「救済ではない」側面
『おぎん』では、親の愛のために子供が棄教し、地獄に落ちることを覚悟するシーンが描かれます。これは、キリスト教的な「天国への救済」ではなく、「地獄であっても愛する人と共にいる」という倫理的判断であり、従来の教義による救済の枠組みを崩しています。
これらは、理智的な視点で「人間がいかにして美しく(あるいは悲劇的に)滅ぶか」を追求した、芥川ならではのキリシタン文学のテーマと言えます。

 

 そしてボードレーヌの血肉化というだけではないものが明確に「童貞聖麻利耶」の文字列に含まれている。『奉教人の死』が二重の隠蔽構造を持っているとしたら、「黒衣聖母」には「上田敏を介して日本に紹介された外国文学の系譜が関わっている」というだけでは足りないだろう。その意味を探り出すのは、今これを読んでいるそこの君、

君の役目なんだよ。



いいなと思ったら応援しよう!