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夏目漱石論のために⑦ 君それ本気で言うてる?

柄谷行人はもういいよ


 柄谷行人の御追従者が嫌いだ。

 無批判な受け売り、杜撰なちょうちん持ちが気持ち悪い。作品そのものを読めてさえないのにどうしてそこまで偉そうに知ったかぶりが出来るのか本当に不思議だ。

「少し頭が悪いから、一週間程役所を休んで遊んで来るよ」
『門』の主人公宗助は、妻の御米にある日こう告げて、突然鎌倉の寺に参禅に行ってしまう。なるほど、この場面の飛躍はいかにも唐突で、結局のところこれが彼の悩みに何の解決をもたらしはしないことは誰の目にも明らかだろう。だが柄谷行人は『門』にかぎらず漱石のいくつかの小説におけるこうした構成的な破綻が、たんに小説家の技術的未熟さによるものではなく、漱石の抱え込んだもっとも本質的な問題の反映であることを指摘している。

(吉村和明「ある屈託を持てあます遊歩者の姿」『夏目漱石を読む——私のベスト1』安原顯編 1994年)

※「少し脳が悪いから、一週間ほど役所を休んで遊んで来るよ」が正しい。「程」は開く。

 例えば柄谷行人ら一味が構成的破綻を見出す作品が『行人』である。『行人』には体調不良による中断があり、予定変更そのものは事実としてあり「塵労」が急に哲学小説になってしまっていると言われる。

 しかしそうして構成的破綻と書いている人が『行人』のあらすじをきちんととらえているケースを私は一例も見ていない。

 大抵は縦糸を見失い、「直と二郎が元々知り合いだった」という設定の意味を捉えきれず、「梅」にも「重箱」にも「テレパシー」にも気がつかず、なんなら「嫁スポイル理論」が頭から反駁されていたことにも気がつかない。

 二郎は人の女房が好きだなあ、くらいにしか読めていない。

 構成的破綻と書いている人は構成が見えていないから一郎の死にも気がつかない。
 まさか清が死んでしまっているので三円は返せないと気がつかない人はあるまいが、『行人』に関しては「取り返す事も償う事もできない」の意味が解らない。なんてみっともないことかと呆れる。

 この『門』の参禅に関してもそうだ。

 実は漱石が「なかなか門らしくならない」と手紙に書いているのを知ってわざと飛躍と書いているのではなかろうね?

 夫婦の悩みの一つに『道草』とは反対に子供が出来ないということがあった。宗助が参禅に行っても悟れるわけがないと馬鹿にする人には、一方で(下女はいるとしても)お米と小六を一週間二人っきりにしてみたという宗助の無意識が見えていないことになる。

 無論ゾラ、モーパッサン的な自然主義を嫌う漱石は、たちまち獣畜になる小六は想定していない。ただ全く後ろめたくもないとしてやはりそれは気まずい状態なのである。それは七章でこんなふうにして仄めかされていた。

 宗助といっしょになって以来、御米の毎日膳を共にしたものは、夫よりほかになかった。夫の留守の時は、ただ独り箸を執るのが多年の習慣であった。だから突然この小舅と自分の間に御櫃を置いて、互に顔を見合せながら、口を動かすのが、御米に取っては一種異な経験であった。それも下女が台所で働らいているときは、まだしもだが、清の影も音もしないとなると、なおのこと変に窮屈な感じが起った。無論小六よりも御米の方が年上であるし、また従来の関係から云っても、両性を絡みつける艶っぽい空気は、箝束的な初期においてすら、二人の間に起り得べきはずのものではなかった。御米は小六と差向いに膳に着くときのこの気ぶっせいな心持が、いつになったら消えるだろうと、心の中で私かに疑ぐった。小六が引き移るまでは、こんな結果が出ようとは、まるで気がつかなかったのだからなおさら当惑した。仕方がないからなるべく食事中に話をして、せめて手持無沙汰な隙間だけでも補おうと力めた。不幸にして今の小六は、この嫂の態度に対してほどの好い調子を出すだけの余裕と分別を頭の中に発見し得なかったのである。

(夏目漱石『門』)

 たった一晩二郎と直が泊まっただけで、あるいは息子が実家にもどって直と話しているだけで厭な顔をされるのである。

 嫂はこれで黙ってしまった。自分も何とも云わなかった。そこへ母が風呂から上って来た。
「おやいつ来たの」
 母は二人坐っているところを見て厭な顔をした

(夏目漱石『行人』)

 この感覚があれば一週間か十日の参禅とはなんとどぎつい仕掛けだろうかと気がつかないものであろうか。要するにこの母親的感覚で『門』を読んでいて参禅の話が出たら「え? じゃあその間小六はどうするの?」と必ずなるだろう。

「どうするも何もないじゃありませんか」
「そりゃそうだけど、ちょっとあれじゃない」
「あれってなんですか」
「それはつまりお米さんはもともとあれでしょう」
「あれとは?」
「つまり」

宗助といっしょになって以来、御米の毎日膳を共にしたものは、夫よりほかになかった。

(夏目漱石『門』)

「ここのところの漱石の書き方がいかにも意地が悪いんですよ。つまりその前は安井とっていう書き方でしょう。お米はけして一途ではないって書き方でしょう」
「しかし小六とは何も起きないでしょう」
「起きるか起きないかの話ではなくて、それ以前の節度の問題としてどうかと言っているんです」

 ……こんな具合に文句が出るかもしれない。
 母親なら。

 そこは丁寧にふりを見てあげましょうよということだ。

 例えば参禅が急だという人は達磨の格好の護謨風船をどうとらえたのかね。子供のおもちゃと座禅がもうふられていたじゃない。野中宗助もなんとなく子供でもいたらなあという意識がどこかにあり、無意識下では子供と座禅が繋がっていたわけでしょう。むしろ屈託ってそこと金の話と小六の始末じゃないの。

 ああ達磨って座禅の人だって知らないか。

 まあ手も足も出ないという例えでもあるけれど。

[余談]

 「ある屈託を持てあます遊歩者の姿」じゃなくて気晴らしに散歩してきた人、だよね。

「やあ、来ていたのか」と云いながら座敷へ上った。先刻郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家へ帰るまで、宗助の頭には小六の小の字も閃めかなかった。宗助は小六の顔を見た時、何となく悪い事でもしたようにきまりが好くなかった

(夏目漱石『門』)

 まあ、余談で書くのもなんだけど、こうした思い込みというのはどうしたもんだろう?

 格好つけて書き過ぎて、却ってみっともないことになっていないか、この手の人達。

 漱石の抱えていた本質的な問題は金である。働いても働いても大した金にはならない。相続財産のようなものがほしいと中村是公にこぼしていた。漱石作品は九割がた金の話だ。

 みんなもそうじゃない?

 つまり近代以降たいていの人間の本質的な問題は金じゃない?

 なんというか本当は金なんかよりはるかに大切なものがあるのに、なんやかんやと金に振り回されるから、

「本当は金を返しに行つたのぢやありません」
 美禰子はしばらく返事をしなかつた。やがて、静かに云つた。
「御金は私も要りません。持つて入らつしやい」
 三四郎は堪られなくなつた。急に、
「たゞ、あなたに会ひたいから行つたのです」と云つて、横に女の顔を覗き込こんだ。女は三四郎を見なかつた。其時三四郎の耳に、女の口を洩れた微かすかな溜息が聞きこえた。
「御金は……」
金なんぞ……
 二人の会話は双方共意味を成さないで、途中で切れた。 

(夏目漱石『三四郎』)

 こんなことになるわけでしょう。

鼻緒の色はとにかく草履を穿いてゐる事も分わかつた。

(夏目漱石『三四郎』)

 いいですか美禰󠄀子の下駄はちびて低く鼻緒は左右で色違いなんですよ。鼻緒の件は例の柔術家がこうふっていましたね。

 広田先生は書斎へ行いつて、小刀を取つて来くる。三四郎は台所から庖丁を持つて来きた。三人で柿を食ひ出した。食ひながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話はなしを始めた。生活難の事、紛擾の事、一つ所に長く留つてゐられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台を買つて、鼻緒は古いのを、着げ更へて、用ひられる丈用ひる位にしてゐる事、今度辞職した以上は、容易に口が見付みつかりさうもない事、已を得ず、それ迄妻を国元へ預けた事――中々尽きさうもない。

(夏目漱石『三四郎』)

 そして、これですよ。

玄関には美禰子の下駄が揃へてあつた。鼻緒の二本が右左で色が違ふ。

(夏目漱石『三四郎』)

 解りますかこれ。勿論金の問題は漱石自身の問題でもあるんですが、独身女性や、

 就職浪人、あるいは安月給のサラリーマンといった自分とは異なる立場の人々の問題として広く意識を振り向けてお金の問題を扱っていますよね。そういうところが読めないので全部漱石自身の制御できない無意識下の問題に話をすり替えてしまうんじゃないでしょうか。

 よく制御されてませんかね、達磨とか鼻緒とか。

 結論としてはもう柄谷はおしまい、ということになる。まずちゃんと読んでから何か書き給え。 

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