芥川龍之介の『葱』をどう読むか⑤ 無いことが小説になる
作品の解釈としては、芥川が話者の身体性を作中に持ち込み、書かれえない作品という仕掛けを拵えたこと、現に書かれているものの書き手であることの不可能性を演出したこと、そして物語の背後に事実があるかないかということがどうでもいいことを証明するために、物語の外側でお君さんをいそいそと外出させるという、小説を離れた事実を仄めかしたこと、辺りで話は尽きている。
通俗小説というあだ名の主人公が作者の手を離れたことで話としては落ちている。
あとは余談ではある。
そしてここで実話の挿入。
※これは実話です。
少年時代、近所に怪しげなホテルがあることを知っていた。当時はラブホテルという言葉もその概念も知らなかったと思う。ただそこがいかがわしく、触れてはならないものだということを何となく知っていていたに過ぎない。
そこは二系統ある通学路の一つの途中にあり、ある花の名前の付いたホテルだった。どちらかといえば遠回りであり、通るのは五回に一回か、何かの事情で、例えば学校を休んだ近所の大田さんに給食のパンを届けるとか、蟯虫検査の検体を貰いに行くとか(行ったな。よく覚えているな、そんなこと。)そんな用事がある時だけだった。(彼女はよく学校を休んでいた。)
ある夏の日だったと思う。学校の帰り道、私はそのホテルの前を通りかかった。その時、ホテルから出て来た女の人が自転車に乗って急いで漕ぎ出してきた。あ、と思った。私はこれまでそのホテルに誰かが出入りするのを一度も目にしたことがなかったからだ。
自転車はすれすれで私を躱したが、その女の人は何かひきつったような顔で私を見ながら自転車のバランスを崩し、目の前でひっ繰りこけた。めくれ上がったスカート、破れて血がにじんだストッキング、何か必死の形相のおばさんの顔(彼女はそんなに若くはなかった。といっても三十歳前後か。)そんなものがいきなり目の前に現れて、私はたじろいだ。
しかしその時最も印象的だったのは自転車の前かごに積まれていた買い物袋(当時はまだビニール袋みたいなものはなかった。何しろコンビニどころか、スーパーマーケットがなかった。) から飛び出した卵のパックが道路に叩きつけられて、黄色い液体が流れだしていたことだった。卵かけご飯の黄色だ。見慣れた色だ。ただその流れ出す黄色は、取り返しのつかない色をしていた。目がちかちかするというのはそういうことを言うのだろう。その卵の黄色は本当に点滅し、迫ってくるように見えた。
「イエロー」巻き舌で私は言った。
おばさんはとにかく荷物をかき集め、自転車に乗って急いで走り去った。おばさんの白いワンピースに卵の黄色が垂れていた。何で突然イエローなんて言ったのか定かではない。それからずいぶん経つて、何が起こったのかがなんとなく解るようになった。そして事実兎も角、私はそのおばさんが流れる黄色でけがれるのを見た、と記憶している。ホテルが彼女をけがしたのではなく、全ては卵の所為だと。
※実話挿入終わり。
さて『葱』においてはやはり「ささいなことがとりかえしもつかないことだ」という村上春樹的テーゼではなく、「ささいなことの持つ意味」が問い直されていて、谷崎潤一郎の小説の様にやたらと刃物を振り回さずとも、小説というのは出来上がるのだということが確認されている。
それは勿論葱によって性の対象でなくなるお君さんであり、扇風機の風よけに立ち止まることだ。あるいは曲馬が見られず、かといって馬の乗りにもなられることは無かったことだ。
無いことが小説になる。これが『葱』の面白いところだ。
大昔、ホテルの前ですっ転んだおばさんは、買い物途中に不倫した人妻ではなかったのかもしれない。しかし卵の黄色で汚された。かごの中には焼き豆腐と牛肉と糸こんにゃくがあったのかもしれないが、少なくとも葱は突き出ていなかった。だから汚された。イエローは通俗小説にしかならない。
お君さんは葱のお蔭で俗から離れた。
あのおばさんも葱さえ買っていたら……。
