見出し画像

岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する111 夏目漱石『こころ』をどう読むか488 親切心に欠いている

  これまで信じてきたことが間違っていると気がついた時、人はどんな態度に出るものだろうか。実は殆どの人がこれまで信じてきたことが間違っていると気がつけないのではなかろうか。それができるひとはまずいないだろう。そんな人は百余年間一人も現れなかったのだから。

 一人だけ間違いに気がついた人がいる。

 その他の人はただ意地を張り通すだけだ。それで幸せなのだろうか。
 しかし昨日私が書いたこと、

 これは夏目漱石作品がいくつもの無理を拵えてきたことへの現時点での一つの「ややクリアな」答えと云っていいのではなかろうか。
 勿論、私は昨日、

 芥川龍之介の『奇怪な再会』が紀元節に何かを寿ぐように見立てられた作品であり、そこには、

 この記事をひっくり返すような事を書いたので、まだ「完全解説」などと威張るつもりはない。まだひっくり返るかもしれない。ただ現時点ではこうだろうと出し惜しみも忖度もなく、「ここまでは読めている」というところを書いている。

 なかなかきつい作業だ。

偶然西枕に床を敷いた

 私が進もうか止そうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出すと慄然とします。いつも東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上に肱を突いて起き上がりながら、屹っとKの室を覗きました。洋燈が暗く点っているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛蒲団は跳返えされたように裾の方に重なり合っているのです。そうしてK自身は向うむきに突ッ伏しているのです。

(夏目漱石『こころ』)

 岩波はここに注を付けない。西枕に「意味」を見出せなかったからであろう。これではまるで話し相手にもならない。一人旅だ。そこにいきなりこんなことを言い出されても混乱するだけかもしれない。ただよく読むとこう解釈できる。

 ここはKが死に至る経過を示すところで、

 私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。無論一つ問題をぐるぐる廻転させるだけで、外ほかに何の効力もなかったのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。私はまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶がありました。何をしているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。その代り五、六分経ったと思う頃に、押入をがらりと開けて、床を延べる音が手に取るように聞こえました。私はもう何時かとまた尋ねました。Kは一時二十分だと答えました。やがて洋燈をふっと吹き消す音がして、家中が真暗なうちに、しんと静まりました。

(夏目漱石『こころ』)

 という二人の関係性。そして

 その時Kはもう寝たのかと聞きました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師のようなKに向って、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。Kは洋燈ランプの灯を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。
 Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇に帰りました。私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。私はそれぎり何も知りません。しかし翌朝になって、昨夕の事を考えてみると、何だか不思議でした。私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。それで飯を食う時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだといいます。なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に判然した返事もしません。調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。私は何だか変に感じました

(夏目漱石『こころ』)

 ここのところのKの心理が辿れていないと何が何だか解らないのではなかろうか。
 あるいは西枕が何だか解っていないと、死ぬ間際のKの心の動きが掴めないことになる。

 ここは、

・深夜Kがふすま越しに「おい」と声をかけた
・返事はない
・Kは襖を開けて先生の名を呼んだ
・あるべき場所に先生の顔がない
・ぎょっとして股間を見る
・いつもより近い場所に(結婚が決まって安堵したのか)熟睡する先生の顔がある
・え? と思うK
・覚悟したK

 こうした一連の動きの後、襖を締める必要も感じないほど打ちのめされたKは簡単な遺書を書いて死んだのではなかろうか。

・深夜Kがふすま越しに「おい」と声をかけた

 これはおそらくあったんだろうなというところ。そうでなければこれまでの「おい」とか「もう寝たのか」というふりの意味がなくなる。先生の「私は半ば無意識においと声を掛けました」や「大した用でもない」が仄めかすように、何かはっきりこうだというものがあって声をかけたのではなく、先生の方でそろそろ何か云うのかな、それともまだ惚けるのかな、なんなら自分からは言い出し難くて、もやもやしているんだとしたら、そんなことはどうでもいいんだと譲ってもいい、何しろ先に先生の気持ちを知りながら出し抜こうとしたのはこっちなんだからというくらいの、ごくごく軽い感覚で何となく声をかけたのだろう。

・いつもより近い場所に(結婚が決まって安堵したのか)熟睡する先生の顔がある

 ここは要検討。先生は今の普通の寝方のように仰向けに寝ていなかったという考え方もある。昔から日本人は仰向けに寝ていたわけではない。『吾輩は猫である』で解るように、吾輩はいつも昼寝をしている苦沙弥先生の背中に乗るので、これが俯せである可能性がないではない。

・え? と思うK
 
 これは、

 私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄っとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。

(夏目漱石『こころ』)

 この記述との関連の中で、「私は忽然と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです」と「私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っている」を結びつけると出て來るものだ。

 ・え? と思うK

 ……とはつまり、声をかけた相手はもう友達ではなかったと思い知らされた驚きと戸惑いの様子だ。「よう、寝とるな」と思ったその一瞬後「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」のではないかと先生は見ている。その瞬間はここにしかない。何しろその前までは用がなくても呼びかける間柄だったのだから。
 

・Kは襖を開けて先生の名を呼んだ

 これはおそらくではなく、必ずあったことだ。何故なら、死んでからは襖は開けられない。

 それにしても開けっ放しとは、親切心に欠いている。躾がなっていない。(「え?」という驚きの間接的表現だとしてもだ。)



もっと早く死ぬべきだのに

 手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。世話ついでに死後の片付方も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜しく詫びをしてくれという句もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。

(夏目漱石『こころ』)

 Kの代わりに遺書を書かせるような国語の授業が行われていると知ってぞっとした。

 そんなことをしているから先生が全肯定される現在を見失い「最後は暗かった」としてすがすがしい冒頭に立ち返ることを忘れてしまうのだ。
 しかしならばそのKの遺書がきちんと読めているのかと云えばそれもなかろう。岩波はここにも注を付けない。

 もっと早く死ぬべきだのに、とはどういうことか。
 これは作中では乃木希典と先生に重ねられる呪詛の言葉となる。
 しかしKにとっての「もっと早く死ぬべき」とはいつの時点のことか。

 私は不意に立ち上ります。そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴ります。纏った詩だの歌だのを面白そうに吟ずるような手緩い事はできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸を後ろからぐいと攫みました。こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど好い、やってくれと答えました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。

(夏目漱石『こころ』)

 この覚悟が見えていないと「もっと早く死ぬべきだのに」が解っていなかったことになる。「ちょうど好い」とは何が丁度良いのか解っていなかった人にはKの狡猾さが見えていなかったことになる。Kの狡猾さが見えていなかった人には奥さんから先生とお嬢さんの結婚の話を聴かされた瞬間の、Kの恥ずかしさが見えていなかったことになる。Kの恥ずかしさが見えていなかった人は今日のおやつは抜きだ。

 おそらくKの代わりに遺書を書かせるような国語の授業を行う国語教師の中に、「もっと早く死ぬべきだのに」と「ちょうど好い」の関係が見えていた者は一人として存在しないだろう。「もっと早く死ぬべきだのに」と「ちょうど好い」の関係が見えていたとしたら、「私」の立ち位置や、乃木静子殉死に関する疑義も見えていた筈だ。

 あれこれの状況に鑑み、間接的に示されているKの遺書はそれ自体で完璧である。ここに何を付け足してもいけない。例えば先生の気持ちを知りながら出し抜こうとしたことを詫びてもいけない。それは飽くまであるかなしかのあわいの話であり、「もっと早く死ぬべきだのに」と「ちょうど好い」の関係の中に秘められるべき事なのだ。つまりKの代わりに遺書を書かせるような国語の授業を行う国語教師にはこのさじ加減が解らない。それでは本来国語を教える資格がない。


彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです

 私は突然Kの頭を抱えるように両手で少し持ち上げました。私はKの死顔が一目見たかったのです。しかし俯伏しになっている彼の顔を、こうして下から覗き込んだ時、私はすぐその手を放してしまいました。慄としたばかりではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今触った冷たい耳と、平生に変らない五分刈りの濃い髪の毛を少時く眺めていました。私は少しも泣く気にはなれませんでした。私はただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺激して起る単調な恐ろしさばかりではありません。私は忽然と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。

(夏目漱石『こころ』)

  岩波はここで「官能」に注を付け、

[新]  ここでは感覚器官の機能のこと。

(『定本漱石全集 第九巻』岩波書店 2017年)

  とする。

 そこて一寸云つて置くが官能といふ言葉もある、官能とは、その眼、耳、鼻、皮膚、舌、即ち謂ふ所の五官のはたらきをいふのである。官能によつて感覺が生ずるのてある。
嚴密に云へば感覺と官能とは以上の相違があるが、混同して用ゐてもたいした差支は無い。さて、感覺は、智識の門であると共に、又感情の根本でもある。情調は、大ざつぱに云へば、情緒の調子である。

通俗新文章問答 日本文章学院 編新潮社 1913年

 まあ、そこはいい。しかし重いから「すぐその手を放してしまいました」とはいかにもぞんざいな扱いではなかろうか。
 これは一応『三四郎』でもやったことなので、解っている人もいるのかもしれないけれど念のため、

 一応手を離した主原因は「重かったから」だとしよう。ただ書かれていないのは何か。それは「慄としたばかりではない」と書かれて暈されていることだ。Kは決して安らかな死顔ではなかったのだろう。
 これが『三四郎』ではまず轢死体に対して「顔は無傷である」で止めておいて、後で「あのすごい死顔」と読者を脅す。『こころ』ではわざと先生に無作法なことをさせて、Kの苦悶の表情を仄めかす。


[余談]

 よく五分刈りのKを長髪に描く人がいる。『アグニの神』は上海を舞台にした話なのに、台湾だと勘違いして解説している人がいる。


 うーん、と唸るしかない。どうして読みながら書かないのかな?


[余談]

 人生って何年ですかね?

 まだ間に合うのに、読まないんですか?

 読まないで死ぬんですか?

 いや、お馬鹿な漱石論だけ読んで死ぬんですか?

 数百円を惜しんで。

いいなと思ったら応援しよう!