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芥川龍之介の『奇怪な再会』をどう読むか⑱ みたてとやつし

 昨日は事件が紀元節に起きたのではないかと書いた。

 そうなると『奇怪な再会』はまさに厳しい冬から雪解けの春に向かう季節を表わす早春の「雷水解」の卦が相応しい話だ。しかし実際にはこれまでの苦労が報われることはなく、どうも小さな事件で破綻するという形で終息したように思える。

 いや、そうではなくて、本当は全てが解決したのだろうか。

 ついさっき、人は見立てとやつしの世界で生きており、『奇怪な再会』が「見立てとやつし」の話だということに気が付いた。そして牧野の一等主計の制服と孟蕙蓮は支那服が対のやつしになっていることにも気がついた。

 ほんの数秒前。

 きっかけは

 忘れた。

 覚えていない。

・清国人の孟蕙蓮を日本人のお蓮に見立てる
・清国人の孟蕙蓮は日本人のお蓮に身をやつす
・清国人の孟蕙蓮は日本人のお蓮に身をやつすのをやめる
・清国人の孟蕙蓮は支那服を着て古写真に収まる

 こんなにシンプルなことが案外見えない。しかし芥川龍之介は『歯車』でやったように、『奇怪な再会』でも認識論を展開する。

「こんな所へ来たは好いが、一体どうする気なんだろう?――牧野はそう疑いながら、しばらくは橋づめの電柱の蔭に、妾の容子を窺っていた。が、お蓮は不相変らず、ぼんやりそこに佇んだまま、植木の並んだのを眺めている。そこで牧野は相手の後へ、忍び足にそっと近よって見た。するとお蓮は嬉しそうに、何度もこう云う独り語を呟いてたと云うじゃないか?――『森になったんだねえ。とうとう東京も森になったんだねえ。』……… 

(芥川龍之介『奇怪な再会』)

 これは植木に森の幻覚を見ているとも言えるし、植木を森に見立てているとも言える。

 そういう意味ではやはり一昨日書いた通り、お蓮と金さんほか、あらゆる登場人物の組み合わせにおいて、現実的には厳密に「再会」と呼べるものがないことから、『奇怪な再会』は誰も再会しない賺しの話だ、と書いたことはやはり誤りであろう。

 お蓮は一匹目の白い犬の代わりに二匹目の白い犬を飼い、三匹目の白い犬を一匹目の白い犬に見立てた。そもそも妾とは妻に見立てられ、妻にやつした存在であろうか。そんな幻想の中でお蓮は東京を清国に見立てた。

 現実的には厳密に「再会」と呼べるものがないというのは客観的な見立てであり、本人の見立てではやはり再会なのである。

 そういえば易とは森羅万象をたかが六十四種類の卦に見立てる遊びである。あるいは他人の見立ては大抵奇怪なものである。

 このように。

 誰も他人の見立てには納得しない。それは他人が自分ではないからだ。しかし芥川は矢張り現実的にはあり得なかった再会を再会と見立てたのだ。それは架空の物語を現実に見立ていることにも似ている。

 軍服を着ることも、また支那服を着ることもやつしであろう。やつしが終わる時、命も終わる。

 一旦昼飯を食べてしまえばもう翌日まで朝飯は食べられない。

 或いはただの一個人でしかない「私」が神の視座を持つこと、清国人の孟蕙蓮のモンゴル文字の世界に忍び込み、その心を読み三人称の話者に身をやつすのが『奇怪な再会』の基本構造なのではなかろうか。

 蒙古犬が満州犬に身をやつし、満州犬たる牧野滝は眼鏡をかけた内気な女に身をやつす。

 ならば役所勤めの牧野が着ていた一等主計の制服もコスプレではなかったのか? 孟蕙蓮の支那服が日本人を喜ばせるコスプレであったように。

 私は何日か前、孟蕙蓮の支那服は、現代の漢民族の女が中華料理屋で着ているチャイナドレスとは意の味合いが違うものだと書いたような気がする。それは後者がいかにも日本人を喜ばせるコスプレのように思えるからだった。

 しかしそれが継母から言いつけられた娼妓コスプレであり、金さんが金次郎であり孟蕙蓮の本名が森恵であったとしたら、やはり『奇怪な再会』は見立てとやつしの物語であり、孟蕙蓮が日本語に堪能であり、「金さん」を「金さん」と呼ぶことも、一枝さんが日本語を話すことも筋が通るのではなかろうか。

 あ、

 思い出した。こういう「いってこい」を見ていて思い出したのだ。密輸入品密輸出品が対になるのではないかと。



[余談]

 福井県にある「解雷ヶ清水(けらがしょうず)」はかなり無理のある伝説を持っている。百済の王女が上陸の際「喉の渇きに耐えられず清水を求めたところ、空が曇り、雷雨になり落雷があり、大きな岩が割れ、岩間から清き水がこんこんと湧き出てきた」と言われているのだ。

 それにしても流されたものだ。

 島根県なら分かるが。


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