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江藤淳の『決定版 夏目漱石』をどう読むか⑨ もう少しちゃんとしよう

十回も読んだのに


 当時「先生」は大学の学生であったが、この結果叔父一家と義絶し、自分の手に残された一切を金に換えて、二度とふたたび故郷の土を踏まなぬ覚悟で東京に戻ってくる。

(江藤淳『決定版 夏目漱石』新潮社 昭和四十五年)

 これは「明治の一知識人」の一節で、この時点で少なくとも十回は『こころ』を読んだと前置きされている。

 ならもう一回読まないと駄目だ。

自白すると、私の財産は自分が懐にして家を出た若干の公債と、後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。

(夏目漱石『こころ』)

 この「公債」が意識から消えている。この点は小森陽一も少し怪しい。

 田舎で土地持ちというのは珍しくないが、それ以外に「公債」を持っているということは投資家ということであり、そのまま受け取ると現金はなかったという話になるので、その分は叔父にかすめ取られたかという疑いが出てくる。土地や公債は名義替えの問題があるので手を付けられなかったが、それ以外のものはやられてしまったという可能性がある。

 そういう意味では「土地と公債」しか残らなかったのかと気に留めるべき個所であり、忘れることは決して許されないところである。


そこは微妙


 もちろん、「先生」が自殺したのは、それがエゴイズムの苦痛からの唯一の逃げ道になると思われたからである。しかし、同時に、彼が「明治の精神に殉死」したことも、動かしがたい事実である。彼は、いわば、乃木大将のように、明治大帝のみあとをしたおうとした。

(江藤淳『決定版 夏目漱石』新潮社 昭和四十五年)

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

(夏目漱石『こころ』)

 この部分に関して「先生が殉死の対象とした明治の精神とは具体的にどんなものか」という議論が山ほどあるために、「先生は殉死した」ということを誰も疑えなくなってしまっている状況がある。

 しかしここも良く読むと「明治の精神に殉死するつもりだ」という先生の答えは「無論笑談に過ぎなかった」とあるので、一旦話はここで終わっていて、実際に先生の自殺の建前なり形式なり「先生の意識」が殉死であったなどということはどうにも判断できないのだ。

 この「先生の殉死」に関して言えば、案山子理論みたいな話のようだが、漱石の意識としては笑談が本当になったというところが絶対にないとも言い切れないのであまり強く否定はしないが、小説に書かれている日本語を正しく読めば、「先生は明治の精神に殉死した」とは言い切れないと考えるべきであろう。

 とコピペした。

 そして「明治大帝のみあとをしたおうとした」に関してはどうだろう。明治天皇の病状に関しては刻々と報道されていた。もし本当に「明治大帝のみあとをしたおうとした」のならば何故崩御の報と同時に死ななかったのか?

 当然こうした言説に於いて乃木静子の死が黙殺されていることは、意図的なものではないとは思うが、意図的ではなく、なぜこのように徹底して無視されているのかが本当に不思議で仕方ない。

 兎に角みんな自分の頭で考えないし調べないんだなと感心する。

 もう少しちゃんとしよう。

[余談]

 いいニュースって大谷さんのホームランだけだな。

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