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芥川龍之介の『冬』をどう読むか⑦ 「冬と手紙と」として読むことは可能か?⑥ 方向性としてはそっち

 大体『冬と手紙と』に関する読みは昨日書いた通りで、今日はちょっとした補足です。

 繰り返し書いているように「書かれていないことは読まない」というのは「自分で勝手に付け足しをしてはいけない」という意味で、勝手に想像を膨らませたり、過剰に意味を見つけ出してしまってはいけないということですが、この加減というのは難しいところです。

「今度のことは全然冤罪ですから、どうか皆さんにそう言って下さい。」
 従兄は切り口上にこう言ったりした。僕は従兄を見つめたまま、この言葉には何とも答えなかった。しかし何とも答えなかったことはそれ自身僕に息苦しさを与えない訣には行かなかった。

(芥川龍之介『冬』)

 ここなんですが「今度のことは全然冤罪ですから、どうか皆さんにそう言って下さい」に対して「何とも答えなかった」ということは「僕」は否定まではしないけれども決して肯定もできないわけです。それは「言ったりした」の「りした」に込められた思い、「そんなことよく言うよ」が見て取れることからも確かです。

 こう書くと、なんだ余計なことを付け足しているじゃないかと思うかもしれませんが。「こう言った」と「こう言ったりした」では、言った内容に対する態度が明かに異なるわけです。それと通常、「今度のことは全然冤罪ですから、どうか皆さんにそう言って下さい」と言われて黙っていたらそれはほぼ否定ですよ。「ええ」とか「そうですね」と言えないわけですから。

 この後「僕」が従兄に何を言ったのか、従兄が他に何か言ったのか、は一切書かれていません。

 少なくとも「僕」の方は「御身体の方は大丈夫ですか」「何か入用のものがありますか」「では僕はこれで失礼します」くらいのことは言った筈ですが、それはどうでもいいこととして省略されたんでしょう。つまり書かれていることは肝心なことで、肝腎なこととは従兄が冤罪を主張したけれども「僕」はほぼ無視をした、ほぼ否定したということです。

 この数年後従兄は死んでいますが、その死因についても書かれていません。書かれていないのでこの事件と全く別の理由によるものとは考えられず、刑死あるいは事件がらみの心労による自殺かと想像されるところです。ここは飽くまでぼんやりしています。

 さて、面会での会話に話を戻しますと、「僕」が従兄の冤罪を信じていなければ、この後事件そのものに関してはほぼ触れられないかもしれません。「僕」は冤罪を疑っていればこそ詳細を問い詰めないでしょうし、「僕」に疑われる程度に冤罪が怪しければ従兄も事件の細かいところまでは説明しきれないでしょう。少なくとも「僕」は事件のことは聞きたがっていない筈です。その後の従兄の弟との会話でも、「耳の痛いことは御免蒙りますかね」と嫌がっています。

 一方従兄の方もほかにも何か言った筈なんですがそれは書かれていません。その書かれていないところが後の「僕」の行動の中にあるのだとしたら、言われた言葉は「もし万が一のことがあれば娘たちのことを頼みます」でしょうか。これはいくらなんでも従兄の言葉としては度が過ぎている感じがしますよね。なにせ従兄なんですから。しかしそもそも従妹や従兄の弟がいるのに、

「まあ、とにかく待って下さい。とにかく待った上にして下さい。」
 相手は僕のあばれでもするのを心配しているらしかった。僕は腹の立っている中にもちょっとこの男に同情した。「こっちは親戚総代になっていれば、向うは刑務所総代になっている、」――そんな可笑しさも感じないのではなかった。

(芥川龍之介『冬』)

 こうして親戚総代になっている自分にも滑稽を感じているわけです。傍から見れば、人が良くて面倒見がいいのを利用されていると見えるというところでしょうか。逆に親戚総代になれない従兄の弟というのは「僕」を面会に行かせて自分では酒なんか飲んでいるわけでしょう。よく分かりませんがあまり頼りになりそうもありませんね。

 ここで「もし万が一のことがあれば娘たちのことを頼みます」と必ず頼まれた筈だとまで書いてしまうとやり過ぎになります。そこはあくまでも可能性に留めて考えるべきでしょう。

 しかしこう言う場合に必ず言いそうな言葉、例えばですが「娘たちにも何も心配するなと伝えてください」とかなんとかいう言葉を預かってしまったら大変ですよ。仮に「心配するな」とでも伝えてしまうとそれは飽くまで伝言だとして、言質を取られたようなもので、いざ何かあれば「あなたが心配するなと言ったんじゃありませんか」とねじ込まれかねません。
 でもこちらの方はかなりの確率で言いそうじゃないですか。自分だったら残された家族何か伝言しますね。細かいことや何か。寧ろ言わないと変ですよね。

 そう考えてみると一旦親戚総代として面会に行かされている時点で、「僕」は既に責任の一端を押し付けられてしまっていますから、結局何が言われて何が言われていないにせよ、方向性としては結びの「どうかお子さんたちにもよろしく言って下さい」に向かうわけなんでしょう。

「楽しかったわ。素敵なお母さまによろしくね」
わたしは一歩足を前に出して、タクシーの後部座席に座った老婆に顏を近づけて、そしてにっこり笑ってこう言った。
「よろしくってなんですか」
老婆は一瞬わけがわからないという顔をしてわたしの目を見た。
「だから、よろしくってなんなんですか? 何をよろしく言うんですか?」
 老婆はきょとんとした顔をして、何度か瞬きをくりかえした。
「死にぞこないの、くそばばあ」

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 よろしく、は単なる社交辞令でさしたる意味なく愛想として言われている言葉です。いわば言わされている言葉です。この「どうかお子さんたちにもよろしく言って下さい」にもさしたる意味はないのでしょうが、何となく従兄に言わされたものだとしたら、従兄も「僕」に「娘たちをよろしく」といった類いのことを言ったかもしれないというお話でした。

 書かれていないことを読んではいけないのですが、いい差しのところで想像をぷっつり立つてしまうとお話が見えなくなるので、断定はしないのでもこういうことがあり得るんではないかというところを適度な加減で補いながら読むということは必要なんだと思います。

 そこへ前後してはいって来たのは従姉や従兄の弟だった。従姉も僕の予期したよりもずっと落ち着いているらしかった。僕は出来るだけ正確に彼等に従兄の伝言を話し、今度の処置を相談し出した。従姉は格別積極的にどうしようと云う気も持ち合せなかった。のみならず話の相間にもアストラカンの帽をとり上げ、こんなことを僕に話しかけたりした。
「妙な帽子ね。日本で出来るもんじゃないでしょう?」

「これ? これはロシア人のかぶる帽子さ。」 

(芥川龍之介『冬』)

 ここでは従姉の無関心が帽子で表現されていますね。

 従姉は瓦斯暖炉の前に坐ったまま、アストラカンの帽をおもちゃにしていた。僕は正直に白状すれば、従兄の弟と話しながら、この帽のことばかり気にしていた。

(芥川龍之介『冬』)

 そして強調されます。それだから、

「ええ、……でも一体どうしたんでしょう?」
「何が?」
「Tのことよ。お父さんのこと。」
「それはTさんの身になって見れば、いろいろ事情もあったろうしさ。」
そうでしょうか?
 僕はいつか苛立たしさを感じ、従姉に後ろを向けたまま、窓の前へ歩いて行った。

(芥川龍之介『冬』)

 いろいろ事情もという「僕」の社交辞令に対して、従姉は「そうでしょうか?」と本音をぶつけますね。「僕」が苛立つのも解りますよ。立場が逆じゃないかと思いますよね。「一体どうしたんでしょう?」と言いたいのは「僕」の方じゃないですか。

 いやいや「一体どうしたんでしょう?」と言いたいのは本当は読者の方なんですが。結局「町内」や「万歳」に関する細かい事情は書かれていないので解りません。

 一体どうしたんでしょう?

 出兵?

[余談]

 あの『河童』の第一章の書き出しは、「三年前の夏のことです」ではなくて「ニ三年前の夏のことです」だった問題を含めて、改めて芥川作品は読み直される必要がある。

 そして真面目に誠意をもって謙虚に受け止めるべき事実がある。

 例えば『糸女覚え書』の元ネタにかなり無理があること。

 例えば靴下まで書いて元靴屋の靴を書かないこと。

 何度も書いているように『あばばばば』を読んで津波と妊娠時期に気が付かないでいた人は津波と妊娠時期に驚かねばならない。「だから阿蘭陀なのか……」と感嘆できなかった人は仮令私の記事を眺めていたとしても私の記事を読んだとは言えない。「それがなにかしましたか」では読めたことにはならない。

 卯の一白の金さんはお蓮が囲われた時点で四十歳だと解らなかった人は、「ふーん」ではなく「へー」と言わねばならない。

 雷水解と云う卦の解釈が間違いで、事件が建国記念日に起きたことに気が付かなかった人は「あっ!」と言わねばならない。

 そこに誠実さや謙虚さがない人はいつまでも眺者にとどまり、決して読者になることはできないだろう。

 矢の根を伏せて、という言葉に関しては精査が必要だ。

 天上皇帝もそうだ。

 サント・モニタニも。

 誰であれ、分かったような顔をするのはまだ百年早い。




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