古事記の崩年干支が誤らせた古墳時代の開始年代
古墳時代の開始を纏向型前方後円墳の開始とするか、箸墓の築造とするかの問題、或いは文献で古墳時代(大和時代)の開始を決めるか、考古学で決めるかの問題がありますが、それはさておき、ここでは通例に従って定型化された前方後円墳の登場(箸墓の築造)を古墳時代の開始と定義して話を進めます(古墳時代の定義についてはまた別に論じます)。
箸墓の築造年代は周濠の底から大量に出土した布留0式古相の土器の年代によって規定されると見て良いと思いますが、この年代は歴博の「古墳出現期の炭素14年代測定」(2011)で240年~260年とされたものの、異論が相次ぎ、中々通説にならなかった経緯があります。
ただ三角縁神獣鏡は紀年銘鏡から最古段階が卑弥呼の鏡というのは通説です(三角縁神獣鏡を仿製鏡(コピー)と見る反論がありますが、近年は魏鏡説が有力になっています。魏は265年に滅亡し、266年に晋が建国されます。倭国と晋は最初の一度の遣使を最後に明示的には記録が途絶えます)。つまり三角縁神獣鏡は庄内式土器と共伴した例が見つかっていないので、布留式土器の上限は卑弥呼の時代ということになります。卑弥呼の墓は魏志倭人伝の記述からは寿陵ではないので、卑弥呼の時代に後続する卑弥呼の墓は、大体布留式土器の古相の時代だということになるでしょう(大墓なので築造に時間がかかったと仮定すると、完成は250年代でしょうか)。また新しい型式の三角縁神獣鏡が出土する古墳の年代の上限は、266年になると考えられます(下限は伝世があるので、推定するのは難しい)。
いずれせによ、三角縁神獣鏡を魏鏡とすると、製作された年代は凡そ239年~260年代の30年間程と見ていいでしょう(だから、伝世があるにせよ、日本全国の主に前期の古墳から出土する三角部神獣鏡(発見総数約400面〜550面以上)から、古墳時代前期の開始年代は卑弥呼の時代に遡ることは明らかなのです(箸墓以降を古墳時代の定義にするなら、卑弥呼の死後以降を古墳時代とする定義は有り得るにせよ)。土器で云うなら、布留式土器の開始年代は卑弥呼の時代。従って箸墓は卑弥呼の墓の最有力候補。文句ありますか?文句ある人は(布留0式より古い)庄内式土器の時代に築造された古墳から出土する三角縁神獣鏡を見つけてください。
具体的に例を挙げると、三角縁神獣鏡が出土する古墳の最古段階は箸墓並行と考えられる古墳ばかりです。藤崎遺跡1号周溝墓(福岡県福岡市早良区藤崎1丁目)が祭祀土器から箸墓並行(藤崎遺跡32次調査報告)。那珂八幡古墳(福岡県福岡市博多区那珂1丁目)が箸墓形(直葬)。権現山51号墳(兵庫県たつの市御津町中島権現山)が特殊器台・特殊埴輪と竪穴式石室です。
見出し画像は「椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡」(京都大学文学部考古学研究室)。
そもそも学者が派手に間違えたのには理由があると思います。古事記の崩年干支によれば、(纏向遺跡付近の師木に宮を置いたとする)崇神天皇の没年は戊寅年なんですね。これは258年もしくは318年と見られていますが、神功皇后紀に引く晋起居注の武帝泰初二年(266年)の「倭女王」の遣使を豊鍬入姫命(台与。実際は即位してないと思いますが)だと考えると、父の崇神天皇が258年に崩御していたとするのは可能性が低そうです。つまり318年だろうと考えられてしまい、50年、年代が新しくなってしまったんですね。これは考古学で伝播にタイムラグを取ったこととも関係すると思います。
記紀を素直に読むと、応神天皇は胎中天皇で0歳で即位しているので、50年新しい年代の方が寧ろ自然なんです。要は成務天皇・仲哀天皇の崩年干支も含め、古い年代の古事記の崩年干支は全部アウト=無根拠と考えざるを得ません。記紀の崩年干支が若干の例外を除き整合してくるのは敏達天皇からです。安康天皇ぐらいからは元嘉暦なので(それ以前はより新しい儀鳳暦)(詳細略ですが、木梨軽皇子=世子興が元嘉暦を持ち帰ったと思われます)、安康天皇ぐらいからは、在位年代とか何らかの情報はあった可能性はあると思いますが、いずれにせよ、仁徳天皇以前の長寿命は論外なのはハッキリしています。
古代の王の異常な長寿命や長い在位は世界史上に例があって、古事記もその例に漏れないのでしょうが(そもそも仁徳天皇あたりで記録が始まったのでは?/魏志倭人伝に倭人は長寿命を主張したようなこと「其人壽考、或百年、或八九十年。」が書かれています)(論外の長寿命の信憑性を与える為に、古事記は崩年干支を創作したのでは?だから258年にせよ318年にせよ全くの誤読なのです)、日本書紀はその古事記の記録をベースに神功皇后を卑弥呼にあてて(神武紀元を含め)年代を調整したと思われます。戦後の学者は胎中天皇を荒唐無稽等と言って否定してしまったので(仲哀天皇には後裔もいるんですが)、百済の記録が示す神功皇后の崩御の年代を含めて、その辺全部創作だとしてしまったんですね(干支2運ズレているの類は完全に誤読です)。
三国史記(新羅本紀)を見る限りでは、神功皇后の摂政前紀の三韓征伐は訖解尼師今の時代の346年の首都包囲戦にあたるはずなので(詳細略)(繰り返しますが、応神天皇崩御が倭の五王の遣使に関連して414年とすると(詳細略)、応神天皇は60代で崩御したことになり、寧ろ自然な年齢で履中天皇と反正天皇の立て続けの崩御をよく説明します。
文献の読みだけではありません。考古学的にも通説的に古墳時代の開始を4世紀初頭とすると、川西編年のⅠⅡⅢが新しくなり過ぎ、期間が短くなり過ぎるんですね。古墳時代の開始は3世紀半ばでⅠⅡⅢそれぞれ50年程は見るべきでしょう。Ⅰ(3世紀代)はスカスカですが、私に言わせれば初期はそんなものです。寧ろ弥生時代の方形周溝墓とかが最初の頃中心に残存していた(から前方後円墳が少ない)可能性も高い。235年の紀年銘鏡が出土した(伝世はあるでしょうが)安満宮山古墳も長方形墳ですしね。まぁ最近の考古学の通説は古墳時代の開始が3世紀半ばに寄ってきているとは思いますが、箸墓が3世紀後半だとか、まだまだ調整が進んでないと考えています(古墳時代中期も4世紀半ばから始まる朝鮮半島への進出が関係しているのでは?)。理論がデタラメだからでしょう。

なお、大和朝廷の成立(統一過程)について気になる人は、
畿内の方形周溝墓の副葬品の少なさは逆に統一過程(戦争)を意味する(墓の連続性による大和自生説の論証)|古墳時代史解題
大和朝廷の成立に中国人が深く関与したと疑う人は、
・・・の記事を読んでいただけると幸いです。
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