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永遠の一滴 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

のつづき



2042年、東京。

「ナカムラコーヒー」の軒先に設置された小さな水素焙煎機が、優しく青白い光を放っていた。私は最後の豆を投入し、タイマーをセットする。

開店から4年。水木さんから受け継いだ店は、いつしか小さなコミュニティの中心になっていた。週に一度の営業日には、限られた客が静かに集まる。彼らは「本物のコーヒー」を求める人々だった。

「中村さん、いつもの香りがいいですね」

常連の佐々木老人が入ってきた。93歳。彼は若い頃、まだ炭素を大量に排出する世界で育った最後の世代の一人だ。

「今日は特別なブレンドです。エチオピアとコロンビアの豆を合わせました」

佐々木さんは目を細めた。「懐かしい香りだ。2010年代によく飲んだコーヒーに似ている」

店内には数名の客がいた。みな、静かに自分のカップと向き合っている。かつてカフェは会話の場だったが、今やコーヒーを飲むこと自体が儀式のようになっていた。

扉が開き、幼い少女を連れた女性が入ってきた。

「いらっしゃいませ」と私が声をかけると、女性は緊張した様子で前に進み出た。

「あの、息子さんに会いたいのですが...」

私は一瞬、言葉に詰まった。彼女は水木さんの元妻だった。そして、その傍らにいるのは、水木さんが一度も会ったことのない娘だったのだ。

「申し訳ありません。水木は...もう」

彼女は静かに頷いた。「分かっています。だから...」彼女は少女の方を見た。「美咲に、父親の残したものを見せたくて」

私は奥の部屋に彼女たちを招き入れた。そこには水木さんの遺品がいくつか置かれていた。手帳、初期の水素焙煎設計図、そして彼が大切にしていた古い焙煎用スプーン。

少女は好奇心に満ちた目で、それらを見つめていた。

「お父さんは...どんな人だったの?」

私は言葉を選びながら答えた。「彼は...未来を信じていた人でした。多くの人が『もう無理だ』と諦めたとき、彼は『だからこそやる』と言った人です」

美咲の母親が静かに語り始めた。「彼は頑固でした。家族より理想を優先した。だから私は彼から離れた。でも今思えば...彼の頑固さが、この新しい文化を生んだのかもしれない」

私は彼女に一杯のコーヒーを差し出した。「これが、水木さんが遺したレシピです」

彼女は一口飲んで、目を閉じた。何かを思い出しているようだった。

「変わっていない。あの頃と同じ味」

美咲も好奇心から小さな一口を飲んだ。若い世代の多くは、配給されるカフェインタブレットやインスタント飲料しか知らない。本物のコーヒーを飲むのは彼女にとって初めての経験だった。

「苦い...でも、なんだか温かい」

私は微笑んだ。「これが文化というものさ」

その時、店の中央に設置された小型端末が鳴った。公共アナウンスだ。

「本日より、家庭用炭素排出量の新基準が適用されます。特に非必須嗜好品の調理・製造に関する規制が強化されます。すべての市民は...」

私は端末の電源を切った。佐々木さんが小さく笑った。

「またですか。もう何も残っていないというのに」

美咲の母親は不安そうに私を見た。「この店は...大丈夫なの?」

私は肩をすくめた。「わからない。でも、水木さんが教えてくれたんだ。『未来に残したい文化は、誰かが守らなければならない』と」

母親は黙って頷き、美咲の手を取った。帰り際、彼女は振り返り、静かに言った。

「彼が...正しかったのかもしれないわね」

彼女たちが去った後、私は水木さんの古い手帳を開いた。そこには彼が世界中から集めた、絶滅危惧種となった珈琲豆の種子保存プロジェクトの記録があった。

最後のページには、こう書かれていた。

「豆は植物だ。いつか、再び大地に還る時が来る」

私はその言葉の意味を、やっと理解し始めていた。

翌朝、炭素課税庁からの通知が届いた。嗜好品製造業の新規制により、「ナカムラコーヒー」は営業停止処分を受けるという内容だった。

しかし、その通知の裏に、私は小さなメモを見つけた。

「南アルプス国立保全区域 B区画17。来月の満月の夜に。——美咲の母より」

その夜、私は水木さんの残した種子保存容器を開けた。
中には、乾燥保存された数百の珈琲の種が入っていた。
そして一枚のメモ。

「永遠の一滴のために、次の世代へ」

人間の文化は、時に地下に潜り、時に形を変えながらも、決して途絶えることはない。
それが私たちの強さであり、弱さなのかもしれない。

「水素焙煎」の技術は、もうすぐ過去のものになるだろう。
しかし、その香りと味は、確かに誰かの記憶に残る。
そして次の世代が、新しい形で蘇らせる日まで。​​​​​​​​​​​​​​​​

#創作大賞2025#お仕事小説部門#カーボンダイエット#ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集

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