ゼロの香り 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
2038年、東京。
私は「ミズキコーヒー」の扉を押した。
カラン、と小さなベルの音。
店内に立ちこめる、深く豊かなコーヒーの香りに、思わず目を閉じる。この香りを嗅ぐために、月に一度だけの贅沢が許されている。
「いらっしゃい、中村さん」
カウンターの向こう、水木がすでにカップを用意していた。
彼は都内でも数少ない「水素焙煎士」だ。いや、おそらく最後の一人だろう。
「今日はエチオピアの新豆が入りました。試してみますか?」
「お願いします」
私は席に着き、ゆっくりと息を吐く。
水素焙煎──2025年に商業化されたこの技術は、炭素を一切排出しない。初期の頃は「味気ない」と酷評されたが、水木のような職人たちの手によって、いまや伝統的な焙煎をしのぐ風味を持つまでになった。
ガラス張りの焙煎機に豆が投入される。
青白い炎が、静かに揺れる。
「あと3分ほどで——」
カラン。
その時、店のドアが再び開いた。
黒いスーツの女性が二人。無表情で、動きに無駄がない。
胸のバッジで、彼女たちが誰なのかすぐに分かった。炭素課税庁の査察官だ。
「定期検査です。営業証と、最新のカーボンクレジット記録を」
水木は落ち着いた様子でタブレットを差し出した。
「すべてご用意しています。当店は創業以来、排出ゼロを維持しています」
一人の査察官が、ふと鼻を動かした。
「この香り……明らかに炭素化合物ですね」
水木は笑った。
「ええ、コーヒーそのものの香りは炭素化合物です。でも、焙煎プロセスからの排出はゼロです」
「証拠を」
水木は焙煎機の排気データを見せた。CO₂排出は限界以下。ほぼゼロに近い。
それでも、査察官の表情は解けない。
「なぜ、あなたの店だけが生き残っているのですか? 他の焙煎所は次々と閉店しているのに」
水木は答えなかった。
代わりに、淹れたてのコーヒーを彼女たちの前に置いた。
「どうぞ、一口だけでも」
査察官たちは、しばらく顔を見合わせた後、一口ずつ飲んだ。
そして、表情が変わった。
驚き、戸惑い、そして……わずかな敬意。
「これは——」
「美味しいでしょう?」
水木は静かに言った。
「これこそが、正しい未来の味です」
査察官たちはそれ以上何も言わず、カップを置いて店を出ていった。
ドアが閉まると、店内は再び静けさに包まれる。
私は尋ねた。
「どうして、あの人たち、納得したんでしょう?」
「分かったんですよ」
水木は焙煎機に新しい豆を入れながら、ゆっくりと言った。
「技術はただの道具。問題は、それをどう使うか。誰が、どんな思いで使うか。それだけです」
「でも……経営は、正直きびしいでしょう?」
「ええ。でもね、中村さん。私たちが味わっているのは、ただのコーヒーじゃない。未来に残したい、ひとつの文化なんですよ」
カップの底に残る、最後の一滴まで、私は飲み干した。
そこにはたしかに、希望があった。燃えるような苦みと、清らかな甘み。
相反する味わいが、なぜか調和していた。それが未来なのかもしれない。
帰ろうと立ち上がったとき、水木が小さな紙袋を差し出した。
「これは……?」
「特別な豆です。ご自宅に小型の水素焙煎機、まだお持ちじゃないですよね?」
「いや、そんな高価なもの、とても——」
「これからは家庭にひとつ、が当たり前になりますよ」
そう言って、水木は少し寂しげに微笑んだ。
「これが最後の贈り物です」
帰り道、私は紙袋を開けた。
豆と一緒に、一枚のカードが入っていた。
「次は、あなたの店で会いましょう」
——翌月、「ミズキコーヒー」はひっそりと閉店した。
そして私は、「ナカムラコーヒー」の看板を掲げた。
あの特注の水素焙煎機と、残された豆を引き継いで。
私が初めて一人で焙煎した豆の香りは、水木のそれとは少し違った。
けれど、それもまた、新しい時代の匂いだった。
ゼロから始める、未来の文化の香り。
この物語には続きがあります…
いいなと思ったら応援しよう!
あなたのチップが、観測を続けさせてくれます。SNE理論・GX実践の書籍化と、毎日更新の継続に使わせていただきます。応援、ありがとうございます。