禅とナマケモノ🦥【短歌二首】
掴まずにされど放たずのぼりたる
樹懶よりまなぶ禅の息
天と地のまなかあたりの樹に居りて
懶るものは空ながめたり

握らない。
けれど、手を引くこともしない。
力まず、ただ静かに登る者がいる。
ナマケモノ? それでもいい。
いや、それがいいのだ。
無理な努力も、勝ち負けも──
何ひとつ握らず、
それでも高みに身を置く知恵が、
その芯には宿っている。
枝のゆらぎに身をゆだね、
ただ「在る」ことに徹する。
掴まず、放たず、矛盾のままに、
世界の真ん中に「在る」。
その、そっと触れるような感覚を、
僕は──禅と呼ぶ。あるいは道とも。
見た目には止まっている。
だが、その内側は──
自立する独楽のように、宇宙のように、速く、
誰も及ばぬほど先手を取っている。
禅や道は追えば追うほど遠のく。
今に在れば、すでにそれである。
どこにも行かず、
ただ自らの裡なる道に
死に場所を見出す者──
それを、道者と呼ぶのかもしれない。
《引用・参考》
Seeking nothing, he gains all;
Forgoing self, the Universe grows "I".
― Edwin Arnold
「何ものも求めない者は、全てを得、
自我を捨てた者は、宇宙が自我になる。」
(エドウィン・アーノルド)
何もしないことは、この世で一番難しいし、
また、一番知的なことだ。
(オスカー・ワイルド)
倍速で見ると動きがわかって彼らの意図が認識できますが、普段の我々は認識すらしていませんよね。動いているんだけど止まっている。ただ風に揺らいでいる様に見えてしっかり目的地まで行く。彼らから学べることは「見せる必要がない」「知らせる必要がない」「認識させる必要がない」。
— 奥中伸☘️奥中整体 (@shin_okunaka) July 11, 2025
それは https://t.co/Kii7twQHPt
承認要求と真逆です。
— 奥中伸☘️奥中整体 (@shin_okunaka) July 11, 2025
静止している様に見えて、実は小さく動いている。誰もそれに気付かない。
まずはピタッと止まることから。 pic.twitter.com/kjVkSycpy7
私にも、何かをするにあたって最初の段階では「頑張ろう」という意識があります。でもその「頑張り」をいつまでも続けるようなことは決してしません。なぜなら、頑張ることばかりを追っかけ回していると、結局はどこかが壊れたり、おかしな方向へ進んでいってしまうことになるからです。(中略)
もともと人間は、「頑張る」ということに価値観を置いていなかったと私は考えています。大昔に生きていた人類に「頑張れ!」と言ってもきっとその意味すら分からないに違いありません。 狩猟時代、獲物を捕まえにいくのに「頑張ろう」と意気込んでいた人はいないはずです。彼らの中にあったのは「恵みをいただく」ことだけで、「頑張って獲物を捕ろう!」なんて思っていなかったはずなのです。 そうやって人類の歩みを考えてみると、人間には「頑張る」という意識はそもそも必要なかったとも言えます。 近代になって、経済や教育というものが優先されるようになってくると、そこに「頑張る」という意識が出てきました。 「頑張れば豊かになれる」 「頑張れば欲しいものが手に入る」 そうやって人間は、「頑張ること」がよしとされる社会を築き上げてきたのです。
"日本では、頑張るのは偉い。立派な大人だと習うでしょう。全然偉くないです。なぜか。その後、日本に帰ってきて調べたら、「頑張る」という単語がない国のほうが多かったです。地球上の半分以上の国は「頑張る」という単語がありません。頑張ってないのに幸せに生きている。頑張っている国のほうが、病気が多かったり、自殺が多い。あと、頑張るという国にがんが多いんです。どういうこと? やりたくないことを無理してやるという言葉だからです。だから絶対に頑張っちゃダメです。その証拠に、42歳の誕生日から、俺は一回も頑張ったことがない。そうしたらみんなと仲よく、楽しく、幸せに、おいしいものを食べて暮らしています。"
ある出来事を 「どうしても達成したい、実現したい」と思うことは、「思い」にと
らわれていることにほかなりません。「こうでなければ嫌だ」とつかむのではなく、
「そうなったらいいな。ならなくてもいいけど、なったらいいな」「そうなると嬉しいな、楽しいな」と思ったとき、人は、不思議な力 (潜在能力)を発揮することができるのです。
人間はなぜ生きているのか、生に意味はあるのか? そんなことを考えること自体、逆に意味があるのだろうか? そんなどうしようもないことを考えるのは、地球上の生き物の中で人間くらいのものである。 (中略)何かの情報や、どこからか得た知識によってそういった疑問が生まれてくるのであって、仕事や家庭生活を淡々とこなしている中でそんな疑問はまず出てこない。アマゾンの奥地で暮らす部族の人が「私たちはなぜ生きているのか?」などと考えるだろうか? 彼らはそんなことに囚われたりはしないだろう。 (中略)真の哲学者は「人間はなぜ生きているのか?」などという野暮な問いかけをしたりしないと思う。
