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マダムカメレオンの事件簿③『歩く魚』

※このお話は、シャーロックホームズ「踊る人形」をもとにしています。

『歩く魚』

濃いグリーンを基調にして、ところどころ金色にあしらわれたマダムカメレオンの部屋には、世界中から集められた置物や絵、南国を思わせる植物が所せましと置かれていました。
大きな本棚には、知らない国の文字で書かれた本がびっしりと並んでいます。
「ねぇマダム。この本はなんて書いてあるの?」
ジョン少年が一冊を手にとって尋ねると、マダムはちらりとも見ずに答えました。
「『遠い砂漠の砂が宇宙を創る』ですよ」
「じゃあこれは?」
「『ロボットの黒魔術』です」

マダムは窓際の椅子に腰かけて、優雅に紅茶を口にしていました。
深いエメラルドグリーンの肌が、紅茶をひと口含むごとに、オーロラのようにゆらめきます。
「ねぇ、どうしてこっちを見なくても、ぼくが手にとった本がわかるの?」
「わたくしの目は360度見渡せますからね。
それにね、ジョン・ワット。あなたが興味をもちそうな本くらい、見なくてもわかります」
鮮やかなオレンジのアイシャドウにふちどられたマダムカメレオンの瞳が、いたずらっぽくほほえみました。

「おひとついかが?」
そう言ってマダムが、ひんやりと冷たいガラスポットを差し出しました。
蓋を開けてみると、中には色とりどりの、まるで宝石のようなチョコレートがつまっています。
ジョン少年はきまり悪そうに、どちらも表紙にチョコレートの絵が描かれていた二冊の本を棚に戻し、ガラスポットから、いい香りのするチョコレートをひと粒選んで、口に放りこみました。

ああ、そのおいしいことといったら!

右のほっぺで甘酸っぱいベリーの味がしたと思えば、左のほっぺではクリームソーダがシュワシュワはじけます。
カカオのちょっと大人な苦みもイヤじゃありません。
最後にはちみつがファっと香って…ジョン少年は夢見心地になりました。

そのとき、鳩の執事ハトソンが、二通の封筒を持って入ってきました。
「マダム。一通はヘレン様からの新しい舞台への招待状、そしてもう一通は差出人不明の手紙でございます」

ヘレンは、先だってマダムが事件を解決した、オルフェウス座の看板俳優です。 
「わあ! ヘレンさんの新しいお芝居、ぼくも観にいきたい!」
ジョン少年が手をたたいて喜びました。
「ええ、ぜひ行きましょう」
しかしもう一通の封筒を開いたとき、マダムの瞳がするどく光りました。

「マダム、どうしたの?」
ジョン少年が身を乗り出しのぞいてみると、手紙と思われたその紙には、文字の代わりに奇妙な絵が並んでいました。
足の生えた魚が、右を向いたり左を向いたり、上を向いたり下を向いたりーーーまるで魚が紙の上を歩いているように描かれています。
「マダム、これはいったい…? ただの落書きにしか見えませんが」
ハトソンが白い羽で、器用に眼鏡をかけ直しながらいいました。

一方ジョン少年は、ふいに口をつぐむと、一生懸命にその魚の絵をノートに写しとっています。
マダムは、そのときジョン少年の手がかすかにふるえているのを見逃しませんでした。

次の日、まだ夜が明けきらない時間、ハトソンがけたたましくマダムの部屋のドアをノックしました。
「マダム、マダム! 大変でございます! ジョン様が…ジョン様の姿がどこにも見あたりません!」
マダムは一晩中起きていたらしく、すぐに部屋から飛び出してきました。
「わたくしとしたことが…。昨夜はこの手紙の謎解きに夢中で、ジョンに気を配らなかった…でも解けたのよ、この謎が! これでジョンの行先もわかるはず」
「ど、どうしてジョン様が…」
「あの子の母親、イレーヌに何か関係しているのかもしれないわ」

マダムはハトソンに、ブランズウィック街の地図を持ってこさせました。
そしてあの奇妙な魚の絵が描かれた手紙をひろげて言いました。
「ごらんなさい。この魚は方向を示しているの。
左を向いているものは東、右は西。上は北で下を向いているものは南よ。
この絵の魚は、左×10、下×2、左×1、上×5、右×4、下×1。
つまりこの並びはこう読めるわ。
ここカメレオン邸を起点として、東に10ブロック、南に2ブロック、また東に1、それから北に5、西に4、南に1…」

マダムの声に合わせて、ハトソンが碁盤の目のような街の地図をたどっていくと、
「…ゴーレム遊園地の跡地でございます!」
「そこよ! ジョンはそこに向かったに違いないわ。
子どもの足なら、まだ遠くへは行ってないはず…ハトソン!」
「かしこまりました!」
白い羽をサッと広げたハトソンが、窓から飛び立とうとしたそのとき、
突如、玄関のドアをノックする音が響きましたーーーーー。

ーーーーー濃い朝もやのかかるゴーレム遊園地跡地。
かつては子どもたちの歓声であふれていたはずのこの場所も、今やがらんとして、不気味な雰囲気さえただよっていました。
観覧車は巨大な骸骨のようにそびえ立ち、錆びついたメリーゴーランドの馬たちは、塗料がはがれて、まるで泣いているかのようです。

その中央にあるステージで、かわいそうにジョン少年は、椅子にしばりつけられ、おびえた様子で座っていました。
そしてその後ろに、やせた背の高い男が、冷たい笑みをうかべて立っていました。
男が持つ黒いステッキには、大きな蜘蛛の飾りが気味悪く光っています。

そのとき、
「…スパイダー」
低い声とともに、紅茶色のマントを頭からすっぽりとかぶった影があらわれました。

「ふん、おまえがマダムカメレオンか」
スパイダーと呼ばれた男が、ジョン少年の肩にステッキの先を置き、ゆっくりと前に進み出ました。
「その子にさわらないで」
しかしスパイダーは、ステッキを持つ手にいっそう力をこめると、
「私に指図をするな」
と、氷のような声で言いました。

「お願い、その子を離してちょうだい」
するとスパイダーは、ステッキの飾りの蜘蛛に触れ、にやりと笑いました。
「この子どもを返してほしければ、イレーヌの居場所を言え」
「わたしは…知らないわ」
「ほう。ならばこうするまでだ!」
そう言ってスパイダーが、ジョン少年に向かってステッキを振りあげた瞬間、なぜかジョン少年がふっと笑いました。
「なにっ!」
スパイダーが思わずひるんだ隙に、ジョン少年をしばっていたロープがほどけーーー、

「そこまでですわ」
ジョンだと思っていた少年の姿が、にじむように変わっていきます。
頑固そうなくせ毛はなめらかなエメラルドグリーンの肌に、涙をうかべていた瞳は燃えるようなオレンジに。
「まさかおまえは…マダムカメレオン!」
驚きあとずさるスパイダーの背に、今度は紅茶色のマントの影がとびかかりました。
ふわっとミントが香ったかと思うと、マントの隙間からのぞいた顔はーーー、イレーヌでした。
「うぐぐ!」
不意をつかれて倒れこむスパイダーに、マダムの長い舌がシュッとのび、ステッキをとりあげました。

イレーヌが男の腕をしめあげました。
しかしーーーー。
「全員動くな!」
ゴーレム遊園地に、サイレンの音とレスター警部の怒鳴る声、そして車からバタバタ降りてくる、大勢の警察官の足音が響きました。
その中にはジョン少年と、執事のハトソンの姿もありました。
(お母さんーーーー!)
気持ちをぐっとこらえたジョン少年に寄り添うかのように、ハトソンがそっと、ジョンの肩にとまりました。

その時にはもう、イレーヌの姿はありませんでした。
残された男は逃げるそぶりも見せず、放心したようにその場へ座り込んでいます。
マダムがハッとしてステッキを見ると、ついていたはずの大きな蜘蛛の飾りがありません。
「しまった!」
振り返ると、真っ黒い巨大な蜘蛛が、観覧車の鉄骨を這い上がっていました。
蜘蛛は赤い眼を光らせ、ひらりと身を躍らせると、風にのり空に消えました。

「おまえを『セレブ犬誘拐事件』の容疑で逮捕する」
レスター警部が男を捕らえました。
『セレブ犬誘拐事件』というのは、マダムとジョン少年が出会うことになった、かつての事件です。
「その男はただ操られていただけの可能性がありますわ」
(催眠術…)
マダムは、あの赤く光る八つの眼を思い返しました。

「話は署でゆっくり聞かせてもらうさ。おい少年、お手柄だったな。知らせてくれてありがとうよ」
レスター警部は、男を引っ立てながら、ジョン少年に向かって軽く敬礼をしてみせましたーーーーー。

ーーーーー時間を遡って今日の明け方。
カメレオン邸の玄関のドアをノックした者。
それは姿を隠していたジョン少年の母親…イレーヌでした。
「マダムカメレオン。あなたの相棒が、危うくあいつの餌食になるところだったわ」
イレーヌが着ていたコートを開くと、そこにはしっかりと母親に身を寄せたジョン少年がいました。
「ああジョン・ワット…」
「ジョン様!」

イレーヌは、手短に次のことを説明しました。
あの「歩く魚」の絵は、『スパイダー』率いる悪の組織で使われていた暗号だったこと。
イレーヌがその組織にいたころ、ジョン少年も「歩く魚」を目にしたことがあり、そのときに覚えたであろうこと。
スパイダーが、組織から逃げ出したイレーヌの居所を突き止めるために、ジョン少年を人質にしようと、暗号を利用し送り付けたこと。
ジョン少年は、まんまとそれが母親からのメッセージだと思い、イレーヌに会いたい一心で、夜中に抜け出してしまったこと……。

「その計画に気づいた私は、間一髪、ジョンをみつけて連れ戻せたの」
そう言ってイレーヌが、ギュッとジョン少年を抱きしめました。
ハトソンがこっそり羽で涙をぬぐっていました。

「子どもを利用するなんて、なんて卑怯な!」

話を聞き終えたマダムカメレオンの体が、怒りで炎のように真っ赤に染まりました。

「…それなら、わたくしたちがそれを逆手にとりましょう」

こうして作戦は練られました。
マダムがジョン少年に変身しておとりとなり、イレーヌがマダムになりすましてスパイダーに近づく…その間にジョン少年とハトソンが警察に連絡して、レスター警部を連れてくるーーーーー。
作戦はおおむね成功したように思えましたが、あと一歩のところでスパイダーに逃げられました。

ーーーーーそして今、ブランズウィック街221-C~通称「カメレオン邸」~には、いつもと変わらぬ静けさが戻っていました。

「でも、スパイダーは逃げちゃった…」
しょんぼりと肩を落とすジョン少年の背中を、ハトソンがやわらかな羽でそっとなでます。
「いいえ、ジョン・ワット。『スパイダー』の正体があの蜘蛛だとわかったことは、大変大きな収穫ですよ」
マダムはそう言って、あのガラスポットを差し出しました。
ジョン少年は色とりどりあるチョコレートの中から、赤い色をしたひと粒をつまみだすと、えいやっと口に放りこみました。
とたんに、パッと刺激的なとうがらしの辛味が広がって…!

「わっ…はっ! ぼ、ぼく負けないよ! 負けるもんか!」
口の中とおなかの中が、カッカと熱くなるのを感じながら、ジョン少年は力強く言いました。
「その調子ですよ、ジョン・ワット」
ジョン少年をみつめるマダムカメレオンの瞳が、やさしくほほえみました。















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