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マダムカメレオンの事件簿②『水玉のスカーフ』

※このお話は、シャーロックホームズ「まだらの紐」をもとにしています。

『水玉のスカーフ』

うっすらと霧に包まれた早朝、ブランズウィック街221Ⅽ~通称「カメレオン邸」~に、パタパタと元気な足音が響きました。
「これ、ジョン様! お屋敷は走ってはいけません!」
鳩の執事、ハトソンが、階段をかけ降りようとしていたジョン少年の前に舞い降り、白い羽を広げてさえぎります。
「あ、ごめんなさい、ハトソンさん。お屋敷があんまり広いからつい…」
「ジョン様。ここカメレオン邸の掟を覚えておいでですか?」
「うん、えーっと…、『走らない』『頑張らない』それから、『デザートは先に食べない』!」
「そうでございます」
「でも…走っちゃダメなのはわかるんだけどさ、頑張らないのはどうして? ”ふつう”はなんでも頑張るものでしょ?」
「それはでございますね…」

そのとき、奥のドアの向こうから、よく通る声が聞こえました。

「それが”ふつう”だと思っているかぎり、見たいものは見えませんよ」

ドアが開き、部屋から現れたのは、オレンジのアイシャドウにふちどられた、隙のない瞳が印象的な大きなカメレオン…マダムカメレオンでした。
マダムカメレオンは、卓越した変身術と鋭い洞察力で、町一番と評判の私立探偵です。
「ひとは頑張ることに夢中になると、ときに本当の目的を見失うものよ」
マダムが優雅に歩くたび、深いエメラルドグリーンの肌が、オーロラのようにゆらめきます。
「それにね、ジョン・ワット。あなたは今、考えなしに走ったばっかりに、おもしろいものをひとつ見逃しましたよ」
そういってマダムが視線を送った先に、金色のドアノブがきらりと光っていました。

そのドアノブは、一見すると廊下の壁にくっついているように見えます。
「ほんとだ…走ってたから気がつかなかった!」
ジョン少年が、おそるおそるドアノブに触れて回してみると、壁にすっと一本の線が入り、扉が静かに開きました。
壁だと思っていたところは、じつは秘密の扉だったのです。
扉の向こうにはらせん階段があり、屋上へとつながっていました。
そしてその屋上は、まるで絵画のような、美しい庭園になっていました。

「わぁ・・・!」
目の前には、別世界が広がっているようでした。
草花が自然のままに咲き乱れ、くねくねと続く小径をたどって緑のトンネルをぬけると、さらさらと小川まで流れています。
ふと、ジョン少年は足を止めました。
「…これ、お母さんの匂いに似てる」
「ミントでございますね」
ハトソンが、くちばしで器用に一枚の葉を摘み、ジョン少年に差し出しました。
鼻を近づけると、さわやかで心がすぅっと軽くなる香りがします。
「そうね。イレーヌは風のようだから」
マダムがそっと言いました。
イレーヌというのは、マダムカメレオンのかつてのライバル、そしてジョン少年の母親です。
けれど今は、ある事情から姿を隠しているのでした。

と、次の瞬間、360度見渡せるマダムの瞳がするどく動きました。
「ハトソン」
マダムが低く呼びかけると、「かしこまりました」とハトソンが羽を広げ、さっと玄関の方へとんでいきました。
「さぁ、ジョン・ワット。あなたもいらっしゃいな。おもしろいことになりそうよ」

ジョン少年はあわててくせ毛をなでつけ、マダムについてリビングに降りていきました。
部屋に入ると、グレーの服を着た若い女の人が、ちょうどハトソンに案内されてきたところでした。
「おはようございます」
マダムが明るく声をかけました。
「わたくしがマダムカメレオンです。こちらはジョン・ワット少年。わたくしの相棒です。まぁ、お寒くて震えてらっしゃるのね。今熱い紅茶をお持ちさせますわ」
すると、女の人は小さく首をふりました。
「いいえ、寒いのではありません…心配で、震えているのです」

その声はかすかにゆれていました。
「私はヘレンと申します。『オルフェウス座』という劇場で、衣装係をしております」
「まぁ、オルフェウス座ですって?」
マダムが興味深そうに身を乗り出しました。
「お噂は聞いておりますわ。新人の主演俳優がずいぶんな人気だとか」
「ええ、ええ、そうです。その主演俳優のことで…。
この謎を解決するために、父が、どうしてもあなたを連れてこいと…」
「と、おっしゃいますと?」
ヘレンはぎゅっと両手を握りしめて言いました。
「その主演俳優が…ジュリアが、今朝、姿を消したんです!」

執事のハトソンが、銀のトレイに紅茶をのせて、静かに運んできました。
華やかなアールグレイの香りが、張り詰めた空気をほんの少しやわらげます。
マダムは紅茶にブランデーを一滴と、ルビー色のジャムを少し落とし、ヘレンにすすめました。
ヘレンはその香りを深く吸いこむと、決心したように話しはじめました。

「私の父ロイは、オルフェウス座の座長をしております。母はかつて、劇場の看板俳優でした。母が元気だったころ、それはもう大変な人気で…劇場には毎日、たくさんお客様がつめかけていました。
ですが、悲しいことに、15年前に母が病気で亡くなってからというもの、父は人が変わったように怒りっぽくなり、周りの人たちも少しずつ離れていってしまって…、私も父に言われるまま、雑用でもなんでも手伝いましたが、劇場の経営はだんだん苦しくなりました」

ヘレンの目から、ひとしずく涙がこぼれました。
ジョン少年がそばにいって、ハンカチを差し出すと、ヘレンはようやくほほえんで、ジョン少年のくせ毛をやさしくなでました。

「それで、どうなさいましたの?」
マダムが先をうながします。

「いよいよお金が底をつきそうになったあるとき、父が言いだしたんです。『もう一度、母が好きだったあの舞台をやりたい』って。あの舞台なら、また稼げるかもしれないと考えたようです。それで、新たにオーディションをすることになったんです」

「そこに現れたのが、いなくなったジュリアさん、というわけですね?」

「はい。父は一目でジュリアを気に入り、すぐに舞台に立たせました。まるで母の再来だと、ジュリアはいっきに大人気になりました。
…けれど、ジュリアは、とてもわがままな性格で、気に入らないことがあるたびに『もうやめる、出ていく』と言うんです。いつも楽屋にも誰も近寄らせず、入るのを許されたのは、衣装係の私だけでした。
今朝も父と言い争いになり、楽屋に閉じこもってしまって…。
すると父は、ジュリアが逃げ出さないようにと、楽屋の前に見張りをたてたんです」

「それなのに、ジュリアさんは姿を消した…」
マダムがつぶやくと、ヘレンはうなずきました。
「はい。私が様子をみに楽屋をのぞいたときには、ジュリアはもう…どこにもいませんでした」

マダムが考えるときの癖で、長い指でひじ掛けをトントンとたたきました。
「見張りというのは?」
「座員が交代で…うちは人手が足りないものですから、出演者も大道具や小道具といった役割も兼ねているのですが、そのとき空いている者が、交代で見張りに立ちました」

「役割を兼ねて…ということは、衣装係のあなたも、舞台に出演なさるのね?」
マダムの質問に、ヘレンはふいと視線をはずしました。
「いいえ、私は衣装係と、裏方の仕事だけです。私にはお芝居の才能がないので」
「ジュリアさんは? 他にも役割が?」
「ありません。ジュリアは…ジュリアはスターですから」

そこまで聞くと、マダムは「では」と立ち上がりました。
そしてクラシカルなトーク帽をかぶり、紅茶色のマントをさっとはおって言いました。
「実際に拝見しにまいりましょう。データがすべてそろわないうちは、推理をすべきではありませんから」

オルフェウス座は、古びてはいるものの、威厳のあるしっかりとした造りの建物でした。
正面の扉をくぐるとすぐに、二階席まで備えた立派な舞台があり、舞台裏の階段をおりると、地下には大部屋がひとつと、ジュリア専用の楽屋がありました。
どちらの部屋にも窓はなく、扉もひとつきり。
劇場の外に出るには、さきほどの階段をのぼるしかありません。

ジュリアの楽屋には、色とりどりの舞台衣装を着せたトルソーが何体も、まるで静かに出番を待つ俳優たちのように立っていました。
鏡の前には、きらびやかな化粧道具がずらりと並び、ライトの反射でガラス瓶がきらきらと輝いています。
何もかもがきれいに整頓されているなかで、マダムは床に落ちていた青い水玉模様のスカーフを拾い上げました。
「これは?」
すると、ヘレンがハッとしたように駆け寄り、マダムの手から、大事そうにスカーフを受けとって胸に抱きしめました。

「それはエウリュディケの形見だ」
突然、後ろから凄みのある声がしました。
振り向くと、背の高い帽子をかぶった大柄な男が、楽屋の入口をふさぐように立っていました。
「座長のロイさん、ですわね?」
「ああ、いかにも」
「エウリュディケ…というのは?」
「そいつの母親だよ」
ロイがあごでしゃくって、ヘレンを指しました。

「じゃあ、これはヘレンさんのスカーフなの?」
ジョン少年がたずねると、ヘレンが答えるより先に、ロイ座長がヘレンに歩み寄り、スカーフをとりあげました。
「いいや、このスカーフは、今やエウリュディケの役を引き継いだ、ジュリアのものだ」
心配そうにヘレンをのぞきこんだジョン少年に、ヘレンは少し淋しそうに笑って言いました。
「そのスカーフは、母が舞台で愛用していた主役の衣装なんです。同じ柄のドレスと合わせると本当に素敵で…」

マダムが360度見渡せる瞳で、ぐるりと楽屋を見回しました。

「ジュリアはその水玉のスカーフを気に入って、役になりきるためのお守りだって、肌身離さずもっていました」
「…なるほど。つまり、このスカーフがここにあったせいで、”ジュリアさんはまだここにいる”とみんなに思い込ませた可能性があるわね」
「なにっ!」
気色ばむロイ座長を、長いしっぽで軽く制して、マダムが平然とほほえみました。
「見張りに立っていた方々を、ここへ呼んでくださる?」

楽屋に集まったのは、冥界の王役(大道具係)、冥界の女王役(案内係)、毒蛇役(小道具係)の三人でした。
三人は、順番にこう話しました。

「オレが見張りに立ったとき、『もう出ていって!』と声がして、ヘレンさんが楽屋からでてきました」

「あたしが行ったときは、静かだったわ。あんまり静かで心配になって、こっそり鍵穴からのぞいたのよ。そしたら、鏡の前にジュリアが座っていたの。顔は見えなかったけど、水玉のスカーフとドレスが見えたから間違いないわ。それから少しして、ヘレンが『ジュリアに頼まれた』って、水をもって楽屋に入っていったわ」

「ちょうどわしが交代したとき、ヘレンさんが楽屋からあわてて飛び出してきたんじゃ、『ジュリアがいない!』というてな」

三人の話を、マダムカメレオンは楽屋の鏡台の前に腰かけ、みんなに背を向けたまま、静かに聞いていました。
「おい、カメレオン探偵さんよ!」
苛立ちを隠せないロイ座長が声を荒げました。
「ジュリアがどこに消えたか、早いとこ突き止めてくれ!」

そのときです。
「…ふふふ」
鏡の前の人物が、ゆっくりと立ち上がりました。
その振り返った姿に、全員が息をのみました。
水玉のスカーフにドレス姿…。
そこに立っていたのは、まぎれもなくジュリアでした。

「ジュリア! 無事だったか!」
「ジュリアさん!」「ジュリア!」「ジュリアさん!」
一同が口々に名前を叫ぶ中、ただひとり、青ざめた顔の人物がいました。

「…あなた…いったい、誰なの?」

震える声でそうつぶやいたのは、ヘレンでした。

すると”ジュリア”は、意味ありげにほほえみ、サッとドレスをひるがえしました。
つぎの瞬間、そこにはカメレオンの姿に戻ったマダムが立っていました。
「もうお芝居はおしまいにしましょうか? ヘレン…、いいえ、ジュリアさん」
マダムの言葉に一同がどよめき、ヘレンはショックのあまり、その場に崩れ落ちました。

「その…ド、レス…」
やっとのことでそれだけを言うと、ヘレンが水玉のドレスを指さしました。
「ええ。さすが衣装係ね」
マダムがうなずきます。

「スカーフと同じ柄のこのドレス…。あなたがリバーシブルに縫い直したのね。水玉模様を内側にすれば、まったく違うドレスに見えるわ」

マダムがドレスを裏返すと、水玉模様が、鮮やかな黄色に早変わりしました。

「あなたはまず、『ジュリアは楽屋にいる』と見せかけようと、トルソーに水玉のスカーフとドレスを着せて、鏡の前の椅子に立てかけておいたのね。
見張りの人が聞いた、『もう出ていって』という声も、あなたの一人芝居だったのでしょう。
そしてそのあと、『水を頼まれた』といってもう一度楽屋に入り、このドレスを、ジュリアとともに消えたと思わせるため、裏返して別の衣装のように隠した…ただ、スカーフを床に落としたことに気づかなかったのは、誤算だったかしら」

「どういうことだ! ヘレン!説明しろ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るロイ座長を、マダムがまた、さっとしっぽを振り上げ黙らせました。

やがて、声をふりしぼるようにして、ヘレンが言いました。
「…私も…母と同じお芝居がしたかったんです…」
ジョン少年が、そっとヘレンの手をとって、椅子に座らせてあげます。

「でも父は、『おまえには才能がない』と決めつけて、絶対に許してくれませんでした。
本当は、ただ私を、裏方に縛りつけておきたかったんだと思います。
だけどあきらめきれなかった私は、化粧でうまく別人になりすまして、オーディションを受けました。
母のお芝居は全部覚えていましたから、誰よりもうまくできる自信がありました。
そして私は主役をつかみとり、”ジュリア”として舞台に立てることになったんです」

ロイ座長が、信じられないという顔で立ち尽くしていました。
マダムが一歩進み出て言いました。
「だからあなたは、あなたがジュリアであることを隠すために、わざとわがままをいって人を遠ざけたり、楽屋に誰も入らせないようにしていたのね?」
うなずくヘレンに、マダムがさらにたずねました。
「念願だったお芝居ができるようになったのに、どうしてこんなことを?」
ヘレンは、握りしめた手を見つめたまま答えました。

「ジュリアの人気が高まるほど、本当の私からは、どんどんかけ離れていくような気がしました。
誰も本当の”地味な私”には目もくれないのに、嘘の”華やかなジュリア”ばかりを褒めたたえる…本当の私は、誰からも愛されないんだと思いました」

涙をにじませながら、ヘレンが続けました。

「挙句に父は、私が大切にしていた母の形見のスカーフを、『これはジュリアのものだ』といって、とりあげてしまいました。
私は、ジュリアから、このスカーフを…いえ、本当の自分を取り返したくなったんだと思います」

静まりかえった楽屋に、ヘレンのすすり泣く声だけが響きました。

「本当も嘘もないわ。ヘレンもジュリアも、どちらも、まぎれもなくあなたなのよ」
マダムカメレオンが、やさしくヘレンの肩に触れました。
そしてロイ座長にチラリと冷たい視線を向けました。
「この男がどう言おうと…誰が何と言おうと、自分だけは、自分を決めつけてはならないわ」

「ぼくも、ヘレンさんのお芝居観てみたいな!」
ジョン少年の無邪気な笑顔が、ヘレンの心にあたたかく広がりました。

カメレオン邸に戻ったころには、もうとっぷりと日が暮れていました。
ジョン少年は、マダムと一緒に、執事ハトソンが用意してくれた夕食を囲みながら、首をかしげました。
「ねぇ、マダム。どうしてヘレンさんがジュリアだってわかったの?」
マダムはワイングラスをくゆらせながら、「そうねぇ…」とゆっくり答えました。

「たとえば、最初に話を聞いていたとき、涙をうかべた目元に、うっすら残っていた赤いマスカラのあとを見たの。飾り気のない服装に、赤いマスカラだけ不自然に思えたわ」
ジョン少年は、「なるほど!」と声をあげて、メモ帳を広げました。

「それから三人の証言も大きかったわね。
ひとりは『ヘレンが出てきた』と言った。次の人は『水を持って中に入った』と言った。そして最後のひとは『ヘレンがあわてて出てきた』と言った。
でも、誰も、最初にヘレンが楽屋に入るところを見ていなかったの」
「…っていうことは、はじめはジュリアの恰好で入って、それからヘレンの恰好で出てきたってこと?」
「その通りよ、ジョン・ワット」
マダムがにっこりとほほえみ、ジョン少年は夢中になってメモをとりました。

「それとね、マダム。ここの掟のことなんだけど…」
ジョン少年が指折り数えながらたずねました。
「『走らない』のは手がかりを見逃さないためでしょ? 『頑張らない』のは常識にとらわれず、目的を見失わないため。
じゃあさ、『デザートは先に食べない』っていうのは? これもなにか推理の極意なの?」

すると、フォークを手にデザートを食べようとしていたマダムの動きが、ピタリと止まりました。
そのとき、ちょうど現れたハトソンが厳かに告げます。
「そのままの意味でございますよ、ジョン様」
「えっ?」
「マダムは、先にデザートを召し上がると、野菜にまったく手をおつけにならなくなるのです。ですから、『デザートは最後に』というのは、私からの切実なお願いなのでございます」

ハトソンが、マダムの前に、ぐいっとグリンピースの山が盛られたお皿を置きました。
マダムは小さく咳払いをして、話をそらします。
「メモをとるのはいい心がけですわね、ジョン・ワット」
ジョン少年はにやりと笑って、またペンを走らせました。

「ぼく、マダムの記録係になる! そしていつか、『マダムカメレオンの事件簿』っていう本にするんだ!」

そう言ってジョン少年は、グリンピースをスプーンいっぱいにすくって、大きな口でほおばりました。




























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