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航空機事故から学ぶ:事故は終わっていなかった(後)

1985年8月12日、乗員乗客524名を乗せ、東京羽田空港から大阪伊丹空港に向け18:12に離陸した日本航空123便(B-747SR-100型機)は、その12分後に相模湾上空でドーンという爆発音と共に飛行制御不能となり、18:56群馬と埼玉県境に近い高天原山北東の通称「御巣鷹の尾根」に墜落した

横田Approachは18:57に”Japan Air 123, 35 miles NW of Yokota, priority landing available at Yokota”と送信した。東京Controlも”Japan Air 123, contact Yokota Approach 118.3”を送信したが、返答はなかった。19:03東京RCC(羽田救難調整本部)は関係機関へ同便の捜索を依頼。航空自衛隊のRCCは千葉県南房総市愛宕山の峰岡山分屯地で、Radar Monitorしていた同便の機影が消失したので、既に墜落と断定。19:01百里基地からF-4EJ戦闘機2機を捜索に当たらせた。19:15横田基地所属のC-130輸送機が、横田基地から305°方向34SMの距離に山中火災を発見。19:21にはF-4EJは横田から300°距離32milesと報告した。
墜落地点がほぼ明らかとなったが、地上からの救援は日没後の山岳地帯であったため、直ぐに登攀できなかった。更に墜落地点が長野県佐久市内かと情報が錯綜し、救援隊が墜落現場に到着出来たのは翌朝の9時にずれ込んだ。機体後部の搭乗者は尾根への激突を免れたため、事故直後はうめき声を上げていた者が複数いたが、時間の経過と共に息絶えて、救援隊が救命できたのは非番の客室乗務員1名、小中学生各1名と成人女性の計4名のみであった。
8月13日、墜落現場では生存者の捜索と犠牲者の収容が進められていたが、一部の調査官は、救出された非番の客室乗務員へ聞き取り調査を行った。彼女は「ボーンと大きな音がして、急減圧で耳が痛くなった。後部ドアは吹き飛ばされなかったが、ギャレーの天井が落ちた」と話した。丁度その日の夕方、海上自衛隊の護衛艦まつゆきが爆発が起こった相模湾で、事故機の尾翼が浮遊しているのを発見して回収した。
運輸省航空機事故調査委員16名は、8月14日から米国NTSBとBoeing社の関係者と共に、事故現場の検証を行った。FDRとCVRは直ぐに見つかり回収された。しかしFDRテープの損傷は激しく、機械での解読が出来なかったので、東京女子大数学科の学生が協力して、0と1からなる膨大な2ビットデータを実体顕微鏡下で目視解析した。
聞き取りの証言に基づき、調査官らは圧力隔壁の損壊を疑って実地調査を進めた。8月15日調査団はまつゆきが回収した尾翼の一部を検分し、前縁外板のトルクボックスが外向きに膨らんでおり、そのリベット孔から油圧オイルが噴き出した形跡があったため、垂直尾翼内に高圧空気が噴出して、尾翼を破断させたと推定した。NTSB調査官らは圧力隔壁のほか、Station 2200から後方の外板、ラバトリーの腐食、それに爆発物による硝煙反応について、検証することを提案した。硝煙反応は陰性で、爆発物の破片も見つからず、爆破テロや撃墜の可能性は否定された
8月16日からは日米合同で事故現場調査を行ったが、台風接近のため一旦中止となり、8月22日に再開された。現場に残された直径約4.5mある圧力隔壁は分断されており、1つ1つを拾い集めた。すると19786月に発生したJAL115便尻もち事故後に修理された圧力隔壁は上下に二分して下方だけ取り換えられていた。その連結部分は、修理指示書ではリベットが2列必要なところ、104cmほどは1列しか貫通していないことが判明。この修理ミスにより後年の頻回なFlight Cycleにより金属疲労が発生したと推測した。破断面の一部がNTSB本部ラボへ送付され、これら事実からNTSBは運輸省事故調に対し、圧力隔壁の強度が設計値の7割まで低下していた状態では、14,000サイクルの飛行で圧力隔壁が破綻する危険性があったと報告した(画像は東京都三鷹市の旧科学技術庁航空宇宙技術研究所分室で復元されたもの、時事ドットコム)。
これらの検証結果は、事故調がBoeing社の整備部門関係者へ直接尋問することが出来なかったこともあり、8月27日の事故調からの中間発表には盛り込まれなかった。ところが9月6日にNew York Times紙が、Boeing社の修理ミスによる圧力隔壁の破綻が墜落原因と報じて、事故の真相が世界に知られることとなった。

日本語版Wikipediaによると、NY Timesの特ダネは記者のすっぱ抜きではなく、NTSB委員長が担当調査官に指示して、合同調査結果を意図的にリークさせたという事です。その背景には、運輸省事故調が中間報告書で事故調査結果を明らかにしなかったので、リークしてでも墜落原因を明白にしないと、当時世界中の空を飛んでいた数百機のB747が運航停止となるリスクがあったからでしょう。事故原因がもたらす社会経済的インパクトについて、日米の事故調とBoeing社でそれぞれの立場に如実な違いがありました。
この修理ミスについて、Boeing社と米司法省はいずれも刑事事件不相応としたため、日本の検察庁は日本での業務上過失致死傷は米国で刑事責任を問われる重過失注意義務違反に相当することを説明しました。それで米国司法省はBoeing社整備部門の修理関係者へ質問状を送付することに同意。形式上捜査共助が行われました。しかし質問状を送った修理関係者43名中「自分は部材を運んだだけで、修理に関与していない」と答えた1人を除き、残り全員が黙秘権を盾に無回答を通したため、刑事追及は頓挫しました。
犠牲者遺族がBoeing社を相手取った米国での民事損害賠償訴訟では、Boeingの本社を管轄するWashington州高裁は、日本で裁判を継続すべきと原告の上告を棄却し、和解を勧告しました。1991年遺族への補償金の支払い額分担はBoeing社が8割、日本航空が2割で裁定されたと推測されています。隠された形で、Boeing社の過失が重大と見なされたのです。
この事故では機体右側から尾根を滑り降りるように衝突したため、主翼より前方は大破しました。Cockpit右席に着座していた高濱雅己機長の御遺体は、顎骨と歯列の一部しか見つからなかったそうです。一方、後方に搭乗していた4名は辛くも生存し、非番の客室乗務員であった落合由美さんは大変なリハビリ生活の後、乗務に復帰されました。高濱機長のお嬢様は事故当時高校生で、その後「どーんといこうや」という父親の遺志を継いで、JALの客室乗務員になりました。操縦席から振り返る父親の遺影を、いつも肌身離さず乗務されたそうです。

今日の旅客機は開発費を抑制したラインナップ販売戦略のため、同型シリーズの機体をストレッチして長大化するのが一般的となっています。”Retard!(Throttle下げよ!)”の音声ガイダンスや、機体尾部下方にTail Skidを装着するなどして機体への損傷を減弱させる改善策も取られていますが、滑走路との接触事故は後を絶ちません。圧力隔壁まで損傷するのは尻もち事故全体の数%程度ながら、尾部フレームなど構造部材へ損傷が及ぶことが1~3割あると見られています。
あの日から40年が経過したこの夏、事故の概要を詳細にご存知でない方も多くなりました。これら一連の事故から得られた貴重な教訓を改めて吟味し、航空安全の重大さを共有しようではありませんか。

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