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20. Kota|読む人の運命を加速させる恋愛小説

<<前回話

———東京。

僕が家族と住むマンションは東京と埼玉の県境にある。
16階。
ベランダから見渡せる景色は、川を境に手前が埼玉、向こうが東京だ。
東京の夜は明るく高く、埼玉を川の向こうから見下ろしているかのようだ。

僕は今、34歳。
大学を卒業し、大手企業に新卒で入社した。
全て、うまくいっていた。
もちろん困難はあった。それでも僕は社内表彰を何度か受賞し、その後新規事業の立ち上げを任された。責任者として。
「期待しているよ」
そういう言葉を何度もかけられた。
あれが約4年前。年齢からするとウチの会社ではあり得ないことだった。嬉しかった。
リーダーとしてチームを束ね、邁進した。
立ち上げた事業もなんとか軌道に乗った。
全ての運を味方にしたような気分だった。飛ぶ鳥を落とす勢いとはこういうことを言うのだろう。
社内を歩くと「すごいですね」とよく声をかけられた。就活生向けのインターンシップでは会社を代表して熱弁を振るった。働く意義、仕事の醍醐味、ゼロから何かを生み出す大変さとやりがい。

全てがうまくいっているように思えた。
これからもっと全速力で走ろう。さらに大きな成功を掴もう。
そう意気込んでいた最中———

僕は倒れた。

あれは連日記録的な猛暑が続き眩暈がするほど暑い7月の末だった。
全て、うまくいっていたのに。仕事も、プライベートも。

プライベートでは結婚し、子どもを授かり、マンションを買った。
不動産屋仲介の場で、数百万単位の手付金を札束で手渡す時、なんだかすごいなと思った。
契約書に印鑑を捺した時、僕はこう言われた。
「おめでとうございます」
何がおめでたいのかさっぱりわからないまま僕はただ機械的にこう答えた。
「ありがとうございます」

なんだか、すごいな。

僕はどこかで、このなんだかすごい社会という怪物に、吸い込まれていく感覚があった。

いつからだろう。
就職活動の時?
いや、もっともっと昔からかもしれない。

高校を卒業し、大学を卒業し、就職し、結婚し、子供を授かり、家を買う。この後は、何が続くのだろう。
子どもの学校入学があり、受験があり、子どもはいつの日か大学に行き、卒業後就職する。
その後子どもは結婚するのかもしれない。「紹介したい人がいる」と娘に急に言われるのかもしれない。僕は一応父としてその男性を見定めるような会話をし、そして娘の結婚を承諾する。そもそも僕に承諾する権利があるのかすらよくわからないまま。
そして娘は結婚し、子どもができ、僕は「じいじ」とか呼ばれるようになる。毎年年末年始には家族の皆で集まり、子どもや孫の将来のこと、ニュースやワイドショーで見聞きした話を共有し合う。
世界の表面をなぞるような他愛もない話。
それも悪くない。悪くないじゃないか。悪くない人生のはずだ。
けど、なんだか、すごいな。

これはいつまで続くんだろう。

仕事とプライベート、全てうまくいっている(これはいつまで続くんだろう)
これ以上僕は、何を欲するんだ。全て順調じゃないか(これはいつまで続くんだろう、いつまで続くんだろう)

これは、いつまで続くんだろう。

人生はまるでトンネルのようだ。
暗くはない。むしろ明るい。全てが見通せる。白く、明るく、綺麗で、先の見えるトンネルだ。全てが見えている。全てが設計されている。全てが整っている。全てがわかっている。全てが予定通りだ。
そんなトンネルに、僕は吸い込まれていく。わかりきったシナリオをただなぞるために、そのトンネルの中を進む。
延々と、淡々と、無表情で。

自分の人生は全て自分次第だと思って生きてきた。そういう気概であらゆることを自分で決めてきた。
この人生は僕のものだ。僕が選び、僕が作ってきた人生だ。
僕は自分の人生を生きている。後悔はないはずだ。
全てうまくいっている(いつまで続くんだろう、いつまで続くんだろう、いつまで続くんだろう、いつまで・・・)

こうして僕の中で、何かが弾けた。

それを境に世界が逆転した。
上が下に、好きが嫌いになった。大切にしてきたものが、なんで大切かわからなくなった。
今まで僕の後ろで怯え隠れていたもうひとりのぼくが、声を上げ始めたようだった。
パニック発作で電車に乗れなくなった。スマホが鳴ると恐怖に襲われた。パソコンが開けなくなった。原因不明の目眩、頭痛、動悸。
ただ座っているだけなのに、何もしていないのに、僕は『死』に襲われた。死が僕に襲いかかってきた。湧いては止まらない死のイメージ。
それを必死に止めようとすると、僕は更なるパニックに襲われた。僕は暴風に耐えるよう、しがみついた。これを離すと、僕は死に飲み込まれてしまう。

僕は完全に壊れていた。

しばらく仕事を休むことにした。精神科に行き薬をもらった。
自分に何が起きているのかわからなかった。どうしていいのか、わからなくなっていた。
何もかも、わからなくなっていた。
僕が好きだったこと。僕が大切にしてきたこと。
僕が、僕であること。

薬を飲み始めて3ヶ月、仕事に戻れるまでには回復した。
けど、僕の世界は戻ってこなかった。
それまで生きる意味だと思っていたあらゆる情熱———仕事、家族、未来———が僕の中で失われていた。

そんな時期に、僕はマッチングアプリを始めた。
なぜ?
よくわからない。
僕はなんで、マッチングアプリなんて始めたのだろう。
女遊びがしたかったわけじゃない。妻との関係も良好だった。
でも何かを、求めていた。

マッチングアプリを始める時、僕はプロフィール欄に『既婚者です』と書いた。
馬鹿げていることはわかっていた。既婚者であることなど隠せばいい。
けど僕は堂々と書いた。
もう何も、偽りたくなかったのかもしれない。

それから僕は、たくさんの女性に絡んだ。絡みまくった。
———僕は気が狂っている。
何度もそう思った。でも、止まらなかった。
マッチングアプリは僕にとって、虚しくなるだけのただの『消費』でしかなかった。
画面に並ぶ無数の女性たち。気になる人がいたらイイネをする。
これで僕は一つ、消費する。
更に気になる人がいたらメッセージを送る。これで僕は更に消費する。会話が続けば続くだけ、消費は続く。
出会いと会話の、消費。
アプリを続ければ続けるほど、虚しくなった。女性に絡めば絡むほど、虚しくなった。
僕はなんでこんなことをしてる?
わからない。僕は僕がわからない。
でもとにかく、止まらなかった。

ある夜、アプリである女性を見つけた。
なぜか強烈に惹きつけられた。
読書———
本———
いつものように「初めまして」とメッセージを送った。

それが、友利花さんだった。

友利花さんにはなんでも話せた。友利花さんもなんでも話してくれた。
どうしようもないほどに、居心地がよかった。
僕は渇ききった喉を潤すかのように、友利花さんとのつながりを求めた。
気が付くと、友利花さんとは「おはよう」から「おやすみ」までずっと、つながるようになっていた。

僕と友利花さんは、つながっている———。

これは今まで感じたことのない異様な感覚だった。
電波でつながっているとか、そういうことじゃない。
体の奥と奥が、距離というものを超えて、つながっている感覚。
僕は———物質としては———妻と同じベッドで眠りながらも、その精神は、友利花さんと共に寝ている感覚に陥った。
僕の精神は朝起きると友利花さんに「おはよう」と言い、夜は友利花さんに優しく「おやすみ」と囁き眠りについた。
僕たちは物質と精神の切れ目を、見つけてしまったのかもしれない。
まるで波形のようだと思った。
僕と友利花さんはそれぞれの周期で振幅している波形のよう。その波形同士は重なり合い、時に絡み合い、小刻みに呼応し合う。ただそれが過ぎると、それぞれの波形は緩やかにペースを落とし、距離を置き始める。でも離れすぎる、ということはない。
潜在意識の中に深く潜り込んでいる時でさえ、僕と友利花さんはつながっている。それぞれのリズムを波打ちながらも心地よく、常に、絡み合っている。それはまるで睡眠の最中、小指の側面だけはひたと優しく触れ合い、互いの温度を交換し合っているかのように。

僕と友利花さんは、つながっている———。

この感覚が強くなればなるほど、僕は罪悪感に苛まされた。
僕は妻を、娘を、裏切っている。
「僕は何をしているんだ。妻も娘も愛しているのに。ありえない。責任だってある。なんて情けないんだ」
そういう声が、僕を責め立てた。

ただ、友利花さんとは、もうどうしようもなく、つながってしまっていた。
友利花さんは僕を必要としている。同時に僕も、友利花さんを必要としている。
理性を超えた何かが、それを確信してしまっていた。

友利花さんと初めて電話をした時の衝撃は、忘れない。
たった20分の電話。
でもあの電話は、僕を、僕の世界を、完全に変えてしまった。

電話を切った後、僕は風に揺られている木々を見つめていた。
これまで何百回と通った道。何度も見てきたいつもの風景。
でも、友利花さんとの電話は、僕の世界を変えてしまった。
色が———僕の世界に色が———ついていた。
世界はこんなにも、カラフルだったのか。
そして同時に気づいてしまった。
僕の世界は今までずっと、モノクロだったんだ。
いつから?いつからモノクロになってしまったんだろう。
覚えていない。
生まれてからずっと、そうだったのかもしれない。

僕はどこかでずっと、待っていたのかもしれない。友利花さんのことを。
そして出会ってしまった。
出会ったんじゃない。僕たちは、出会ってしまったんだ。

それから僕の運命は、急速に加速し始めた。

妻との関係が悪化し始めた。
理由はわかっている。
僕の『愛』は、愛ではなく、単なる恐怖だったことに、気づいてしまったからだ。
僕は妻を愛していると思っていた。心から。
でもそれは違った。「妻を愛さないといけない」と思っていただけだった。『愛』という仮面を被った恐怖に走らされていただけだった。
僕の『愛』は、自分自身すら騙すことで成り立っていた。
だから僕は、娘が生まれてから夜、妻に拒まれるようになっても、妻の機嫌が悪く悪態をつかれても、ずっと我慢していた。
妻を『愛』しているのだから当然だと思っていた。

なぜ、『愛』していたのか?

怖かったから。
この『愛』がないと、僕は妻を失ってしまう。
僕はひとりぼっちになってしまう。

でも、僕はもう自分に嘘がつけなくなっていた。これ以上嘘をついたら、また僕の体はおかしくなってしまう。
僕の変化は、妻からすると冷たく見えたのかもしれない。愛情が薄れたように見えたのかもしれない。
妻はどんどんヒステリーになっていった。妻は僕の変化を受け入れることができなかった。
仕方ない。
もう10年近く、偽りの姿で、全てを築き上げてきてしまったんだから。

ある夜、妻が自宅から帰ってきた時、僕はあることに気づいた。
———妻の立てる物音に、怯えている。
ドア越しに見える妻の横顔。
それが脳裏にこびりつく。
妻は今、何を考えているのだろう?
妻は今、幸せだろうか?
妻の機嫌は?

じゃあ、ぼくは———?

この日から、僕は妻のヒステリーに対してもパニック発作が出るようになった。
悪態をつかれた後、リビングで不機嫌そうに座る妻の背中を見た時、僕は発作が止まらなくなり、寝室に逃げ込んだ。

その背中には、見覚えがあった。

父だ。
小さい頃、珍しく父が家にいる時の、あの背中。大きくて、不機嫌そうな、背中。
あの背中が、怖くて仕方なかった。

そういうことか———。

『愛』という仮面を被った恐怖。
ずっと、同じだ。
幼少期から大人になった今も、ずっと同じ。
僕の世界は、『愛』という仮面を被った恐怖で形作られている。
僕は自分の世界に、恐ろしい『父』の姿を作り続ける。今それは、『妻』として、僕の世界に居座る。

呼び覚まされた僕の過去は、それだけじゃなかった。

ある晩、僕は眠れなくなった。ひどく暗く、長い夜だった。
胸にぽっかりと空いた穴。それが鋭く軋み、僕はそこに吸い込まれそうな感覚に陥っていた。
僕はひとり、胸に手を当て体を縮こませ、全てが過ぎ去るのを待っていた。
ある妄念のようなものが、止まらなくなっていた。

友利花さんが、直樹さんに、抱かれる———。

直樹という男が、友利花さんを激しく突く。何度も、何度も。
僕はそれをただ見ている。手を伸ばせば届いてしまいそうなぐらい近くから。呆然と立ち尽くして。
その場にいるはずなのに、僕は声を上げない。声を上げても二人には聞こえない。僕にはそのことがわかっている。だから僕は声を上げない。ただ呆然と見ている。二人からは見えない亡霊のように。

「早く終わって」

僕の胸元からそんな声が聞こえる。
でも僕は、目を背けることができない。目を閉じることができない。瞬きすら許されない。
僕は目の前で繰り広げられる二人の肉体の絡み合いを、その動き一つひとつを、詳細に、鮮明に、目に焼き付ける。
直樹の鍛えられた肉体は、華麗にしなる友利花さんの体に何度も何度も打ちつけられる。肉体と肉体が打ち鳴らす音、直樹の荒い呼吸、振動に合わせて恍惚に響く友利花さんの声、旋律に合わせて軋むベッド。
あらゆる音という音が一つとて零れずに僕の耳へと注ぎ込まれる。全ての動きと音が、一糸乱れず綿密に連動している。
二人の激しさはどんどんと増していく。舌は乱暴に絡み合い、絶頂を予感させる。
直樹の呼吸。友利花さんの声。速まる音と動き。
そして二人は恍惚な震えと共に遂にひとつとなり、その瞬間、直樹の全て———快楽と暴力、遺伝の痕跡が入り混じった全て———を、友利花さんはその内部の奥底で深く、受け入れる。
見つめ合う二人。呼吸をゆっくりと戻していく。
こちらを見ている。二人は僕を見ている。少しばかり冷笑の色を加えて。
二人はずっと、僕がここにいるのを、知っていたのだ。

———気づくと、僕は泣いていた。

それから僕は、友利花さんにメッセージを送るのをやめた。

「早く終わって」
苦しみながらそう願った夜が、過去にもあった。
あれは、母の不倫だ。

母はある日、急にいなくなった。
父と僕を捨てて。

父は探偵を雇い、母の居場所を突き止めた。
「おまえも来い」
父になぜかそう言われ、僕もついていった。

夜7時半。
古びたアパート前で待ち伏せをしていると、母と男が出てきた。
けど、それはもう、母じゃなかった。
僕の中で、母じゃなかったんだ。
僕の知っている母の姿はそこにはなく、単に『女』がいた。禿げて太った醜い男と手を絡め合う『女』がいた。

———誰だ、この女。

僕はそう思った。
そこからは、もう記憶がない。
暴れ回る父を止めるのに必死だったことだけはうっすら覚えている。

母は帰ってこなかった。
父は怒り狂い、泣き喚き、そうした感情を全て僕にぶつけた。
僕は、父のためと思い、父を支えないといけないと思って、耐えた。それが、『愛』だと思っていたから。母を取り戻したいと願う父を僕は、『家族』として支え続けた。当然だと思っていた。

父は母と話し合いを重ねた。
僕も頻繁に同席した(父はすぐに手が出るから僕がいないと話にならない)。
時にその場には母の不倫相手もいた。
非現実的な、痛みしかない空間だった。

ある日、父と母と僕の3人は、不倫相手の自宅の中にいた(なんでそんな状況だったのだろう。もう覚えていない)。
その畳部屋は狭く、カビ臭かった。
唐突に、父は母にこう聞いた。
「あの男と、寝たのか?」
その時の父の声が、今でも耳にこびりついている。
そして無言で俯く母の顔も———。
その瞬間、僕の体に、何かが侵入した。
あの男だ。
あのひどく醜い男が、かつて僕の母だったこの『女』を抱いた。この部屋で。この畳の上で。このカビ臭い部屋で。
その事実によって、あの男が、僕の『母』を通して、僕に侵入してきた。
明確にそんな感覚があった。
僕は『母』を通してあの男に、犯されたんだ。
精神の世界で。

それから僕は不眠症になった。
夜がひどく、長かった。
「早く終わって」
そう何度も訴えながら、泣いていた。毎晩毎晩。
誰にも相談できなかった(あの時誰かに相談できていたら、また違ったのだと思う)。

母はしばらくして、結局帰ってきた。父と話し合った結果そうなったのだと思う。
父は喜んだ。
僕も喜んだ。
いや、嘘だ。喜ぶことにした、のだと思う。
母からは謝罪の言葉は何もなかった。けど母が帰ってきたなら、『家族』として喜ぶべきだ。許すべきだ。
『愛』とは全てを許すことなのだから———。
そうして家族も、僕も、全て解決したと思っていた。

けど僕の内面は、実は何も解決してなかったんだ。
確かに『家族』は戻った。
でもぼくの傷は、何も癒えてなかった。
ただ、蓋をしただけ。
苦しむぼくを直視できず、僕はぼくを意識の外へと追い出しただけだった。

友利花さんと出会って、全てを受け入れてくれる友利花さんを通して、意識の外に閉じ込められたぼくは、息を吹き返した。
同時に、ぼくが抱える痛みも蘇った。
友利花さんが、直樹さんに、抱かれる。
大切な人が———決して奪われてはいけない人が———誰かに抱かれる。
そんな妄念と共に、ぼくの痛みを蘇らせた。
10年以上もの年月を超えて。

僕がこれまで必死になって作り上げてきた世界。
ぼくを押し殺してまで必死に守ってきた世界。
幸せ。家族。愛。

もう、限界だ———

僕は両親に全てを打ち明けることにした。全てを。
妻のヒステリーに耐えられなくなっていること。
妻に対してもパニック発作が出始めていること。
母の不倫の傷がまだ癒えていないこと。

「妻を、家族を愛せない自分を、もう許してほしい」
僕はそう両親に伝えた。

許してほしい?
そうか僕は、親に許してもらうために、ここまで走ってきたのか———

父は、否定した。僕を根本から否定した。僕の話は何も聞こうとせずに。
「おまえは間違っている」「俺が変わったからおまえの母さんもこうして帰ってきたんだ」「おまえも変われる」「俺がそうしたように、おまえも妻や子どもを愛さなくてはならない」「家族を幸せにするのがおまえの役目だ」「早く体を治せ」

なんだ、これ?なんだこれ?
『家族』って、こういうものなのか?

そうか、そういうことか。
僕の『幸せ』は、父の『幸せ』だったんだ。
僕の『愛』は、父の『愛』だったんだ。
僕の『家族』は———

父の傲慢な押し付けを、僕は僕のものとして、必死に自分の世界で作り上げてしまった。
そしてその世界の手で、ぼくは殺された。

母は硬い表情のまま、僕に向かってこう言った。
「お父さんは洸太のことを心配して言ってるんだよ」

僕のことを心配?どの口がそんなこと言えるんだ?
なんだ、これ?
全てが、馬鹿馬鹿しかった。
自分は息子として、こんなにも傲慢な人たちを幸せにしようと、安心させようと、自分の体を壊すまで、頑張ってきたのか。
こうして体を壊し、勇気を出して弱みを曝け出し、変わろうとしているのに、それすら理解してもらえない。話すら、聞いてもらえない。

誰もいない。
僕の味方は、誰もいない。
妻も、父も、母も、誰もいない。

友利花さん———。
友利花さんがいる———。

馬鹿げている。本当に馬鹿げている。
でも僕は本気でそう思った。
たとえ肉親を失おうが、妻を失おうが、僕には友利花さんがいる。どんなぼくも受け入れ、優しく耳を傾けてくれる、友利花さんがいる。どうしようもなくつながっている、友利花さんがいる。

そんな気持ちが僕を奮い立たせていた。
もう僕は、自分に嘘をついて生きたくはなかった。
もう嘘をついては、生きられない。
また『死』に襲われてしまう。
僕はぼくを幸せにしないといけない。
父から与えられた『幸せ』でもなく、世間が作り上げた『幸せ』でもなく、本当の、本当のぼくの幸せを、掴みたかった。
それをどこかで、友利花さんが、応援してくれている気がした。

僕は、父を怒鳴り散らした。人生で初めての、反抗だった。
おまえのくだらない『愛』や『幸せ』をぼくに押し付けるな。おまえが言うその『愛』や『幸せ』とやらは、自分を正当化するための欺瞞でしかない。あんたはそのことに、自分ですら気づいてない。いい加減にしてくれ。
そう、父を罵った。
感情が抑えきれず、大人気なかったとは思う。
でももう、我慢の限界だった。
これしか僕には、ぼくの救い方がわからなかった。

それでも親とはわかり合えなかった。
僕は、親と絶縁することにした。
着信拒否をして、LINEもブロックした。
僕はぼくを守ることにしたのだ。

その後待っていたのは、自由ではなく、とてつもない恐怖だった。
拠り所を失った、恐怖。
僕は本当に、ひとりぼっちだった。
眩暈がした。世界が視界の中で回っていた。足が宙に浮いている。自分がどこにいるのかさえ、わからなかった。
肉親も、妻も、誰も僕の味方はいない。
僕が、間違っているのかな?
「すみませんでした」って謝って、僕がまた我慢すればいいのかな?

友利花さん———

ひとり彷徨い歩く夜、僕は気づいたら友利花さんにメッセージを送っていた。
数週間ぶりに。

「本当に、ひとりぼっちになっちゃった」
そう言って、僕は泣いた。自分でも驚くほど、涙が出た。
友利花さんも電話の向こうで、泣いていた。

友利花さんに出会ってしまって、僕は変わってしまった。僕の世界も一緒に。
でも僕は、友利花さんと出会ったおかげで、変わることができた。僕の世界を、変えることができた。
後悔はない。ひとつも。

東京———。

ベランダから見える東京は、どこか白々しい。
「パパー、ご飯できたよー」
家の中から娘の声が聞こえる。
「ああ、うん」
僕は振り返り、答える。

キッチンで黙々と夕食を作る妻の姿が見える。
親と絶縁してから、妻とも何度か話し合いの場を設けた。
自分の気持ちを可能な限り曝け出した。妻の話も聞いた。
でも何度話し合っても、どこか、妻とは通じ合えていない感覚がある。
言葉は交わされているのに、何かがすれ違っている。言葉が単なる音として発されている感覚。意味と意味、共感と共感として、なぜか、交わりを持てない。
いや、当然なんだ。
僕と妻は今まで本当の意味で、話し合ったことがなかったんだ。
何事もない平穏な夫婦。そんな『夫婦』を演じていただけなんだ。
そして、ここまで来てしまった。
そんな偽りによってここまで積み上げてきてしまった。
ゼロから、やり直さないといけないのかもしれない。

僕はもう一度、東京の夜に目を向ける。
あらゆるものを吸い込み、自らの力に変えてしまうような魔力を、東京の夜に感じる。
そんな東京に今、友利花さんはいる。
そして今夜、友利花さんは、直樹さんに会い、告白される。

胸が、軋むように痛む。

いやでも、これでいいんだ。
僕には妻がいて、娘がいる。そして友利花さんには、直樹さんがいる。
いいんだ。これでいいんだ。
それが友利花さんの幸せなら。

友利花さんは本当に、直樹さんのことが好きなの?

これでいいはずなのに、気が狂いそうだ。
直樹さんと友利花さん、二人が結ばれてしまう事実が。

僕はどうなる?

僕は妻と、娘と、なんら変わらない日常が待っている。
それでいいじゃないか。
今までとなんら変わらない、幸せな日常。

幸せ?
その幸せは本当に、ぼくの幸せなのか?

「洸太さんは、どうなんですか?誤魔化してないんですか?自分の気持ち」

もし直樹さんと付き合ったら、友利花さんはちゃんと直樹さんの彼女になるのだろう。直樹さんをもっともっと好きになろうとするのだろう。
僕の入る隙間なんて、あるのだろうか。

友利花さんのいない世界。
考えるだけで、友利花さんによって彩られた僕の世界は急速にモノクロに戻っていく。

でも、友利花さんがそれを望んでいるなら。
友利花さんが直樹さんと付き合うことを望んでいるなら。
それが友利花さんの、幸せなら———

僕のスマホが鳴る。

友利花さんからだ。
昨日からずっと、無視されてたのに。

PV?
何かの曲のPVが送られてきた。
僕はタップして再生してみる。

あれ、この曲———

僕の心が、旋律と共に画面上に浮き上がってくる意味を読む。歌う。

好きと言って 私の胸がそう叫ぶ時
いつも あなたの声を 思い出してしまう
好きと言っていい? あなたにそう聞いたなら
もう全て 壊れてしまいそうで

音が、僕の胸の奥をぎゅっと握りしめてくる。
でも友利花さんはなんで、こんな曲を?
続けて聞こえてくる音を、それが持つ情念のようなものを、心の中に僕は引き込む。

そんなことわかってる 
叶うはずない いっときの恋
でもどうして 
世界の方が 間違っているかもしれない
この気持ち 許して ただ抱きしめてよ

揺れるような歌声が、僕の心をゆっくりと震わせる。
その瞬間、全ての意味が、僕にはわかった。
音と共に、友利花さんの気持ちが、僕に届いてくる。

もしこれが愛なら 運命なら
つかんで離しちゃいけない気がするから
叶わなくてもいい
I just love you
永遠に きみに届いて

PVを消すと、友利花さんからLINEが届いていた。

「昨日の夜、この曲が急に流れてきて、それから何回も聴いちゃうんです。これが私の気持ちなのかもしれないって。重い、ですよね」

友利花さんの気持ち。
友利花さんの、気持ち———

からだが、引き裂かれそうだ。真っ二つに。引き裂かれそうだ。
過去と未来。責任と自由。僕とぼく。
全てが、真っ二つに、引き裂かれそうだ。
認められない。けど、認めたい。
僕はもう、限界なんだ。
認めたい。けど、認められない。
本当にごめん。本当に、ごめん。
僕はもう––––—

次の瞬間、友利花さんの声が、僕を取り巻く夜闇を揺らした。

———洸太さんは、間違ってない。

その振動は僕の全身を一瞬にして駆け巡り、黒くて重たい栓のようなものを奥底から勢いよく引っこ抜いた。と同時に、ぽっかりと空いた胸の穴から、感情の渦が、激しく、洪水のように、流れ出てきた。何年もの間そこに溜まり滞っていた感情の汚水のようなものが、怒涛の勢いで流れ出てきた。
とてつもない勢いで涙が、嗚咽を携え流れ出てきて、僕は泣いた。震えるほど、僕は、泣いた。
僕が———そう、『僕』自身が———感情の津波によって押し出され、一気に流されていった。



ベランダに吹き込んでくる夜風に、揺り起こされる。
嵐が過ぎ去った後の静けさがそこにはあった。
ゆっくりと顔を上げると、体はまるで憑き物が取れたかのようにぐったりとしていた。

あの東京の夜に、友利花さんがいる。
先ほどまでこちらを見下ろしていた東京の夜は、今は手を伸ばせば届くほど、近くにあった。
実際に手を伸ばし、東京の夜を手のひらで掬い上げ、ゆっくりと握りしめてみる。
世界が、軽い。

涙を拭き、呼吸を整え、スマホの内カメラで自分の顔を確かめる。
目のあたりが少し赤い。
でもそれ以上に、表情からはどこか力が抜け、不思議と清々しくも見えた。

なるほど––––

ぼくは僕に、優しく笑いかける。

そういうことか––––

何がわかったのかは、わからなかった。けど、わかっていた。ずっと、わかっていたのだ。
僕はぼくを、抱き上げた。と同時に、ぼくが僕を救ったんだ。
ふたりは初めて、抱き合った。友利花さんの力を借りて。

振り返り、家の中を見る。
そこには日常がある。夕食の準備はもうほとんど済んでいた。
ただそれはもう、ぼくの日常ではなかった。

ありがとう———

何かに、そうつぶやく。

窓を開け、スリッパを脱ぎ、部屋に戻る。
いつもよりしっかりと、重力を感じる。それを確かめるように、ゆっくりと、歩く。

「あのさ、」
リビングテーブルに向かい合って座る妻と娘に、淀みのない声が真っ直ぐに放たれる。
「ちょっと、電話してくる」

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【あらすじと初回話】


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