丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』再読

二〇〇七年に読んだ時に書いたメモが残っていた。

この文章はわたしの背中を押してくれる、というか、わたしに力をくれる、と感じたくだりを引用してみる。上記の古いメモでも同じところを引用していた。

恐れてはなりません。自分は本当に書くに値するものを持っているのだろうか、などという評論家好みの自問を発してはいけません。あなたのような書き手は、そんなくだらないことで悩む必要はないのです。あなたがペンを握ると同時に書いてしまうことが、あなたにとって書くに値するテーマなのです。あなたは自分が何を書きたいのか知りたくて書いているのです。

丸山健二著『まだ見ぬ書き手へ』朝日新聞社(1994年刊)190ページ「文学の大海原ですれ違う日まで」より

要するに書いてみなくてはわからないということです。書いてみなくてはわからないというところに、この仕事の面白さがあるのです。やってみなくてはわからないことなのに、やっていないときにくよくよ悩んだりしても始まりません。今は書くのを中断していても、いつの日かきっと、火山が爆発するように書くだろう、というようなことを夢見てはいけません。五年経っても、十年経っても、そこに待ち構えているのは、きょうと同じような、書く気があるのかないのか自分でもよくわからないような日々なのです。書かなかった分だけ腕が落ちて、ますます書きたくない理由が増えるのです。それだったら、ともかく毎日書きつづけた方がいいということになりませんか。
(中略)
ともかく事務的に毎日少しずつ書くのです。持てる力の半分くらいの力を出して、リラックスして、書きつづけるのです。気分が乗るとか乗らないとかの御託は、書いた後で好きなだけしてください。一日分の仕事をすませてから、愚痴でも何でもこぼせばいいでしょう。

同上 193-194ページ

わたしには才も能もない。何も書こうとしなければ、その事実から目を背けていられる。でも、「毎日何か書く」という試行は、日を重ねる毎に嫌というほど自分の中身のなさ、薄っぺらさを突きつけてくる。一日にたった一首の歌だって書けない日の方が多いのだ。(この歌を読み手に差し出すことを自分に許していいか)と自問しだすと、手が止まってしまう。
書きたいと思う気持ちは業のようなものだ。よう手放さんこの業が、ある時はわたしを苦しめ、またある時はわたしを生かしてくれているのかもしれない。

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