何でもない日常に差す、0.1%の影
「ただいま。」
夕方6時。コートを脱いでリビングに入ると、やけに静かだった。いつもなら、ガチャガチャとゲームの音が響いている時間なのに。
外はもう真っ暗で、長男はまだ帰っていない。
「もう来年6年生だし、すぐ帰ってくるでしょ」
夫は、気にも留めていなかった。そう言われれば、そうかもしれない。と思い直しかけた、そのとき。
半泣きの顔で、玄関のドアが開いた。
転んで、膝をぶつけたのだという。痛くて動けず、しばらくその場に座り込んでいたらしい。
この子は昔から、説明がうまくない。何があって、どこをどうぶつけたのか、話を聞いても要領を得なかった。
膝を見ても、血は出ていないし、腫れてもいない。けれど、彼の「痛い」という言葉が、いつもより低く、重く響いた。
「大げさかな」という迷いを、得体の知れない胸のざわつきが上回った。
念のため、病院へ行った。
レントゲンを撮ると、膝の骨には異常はなかった。ほっとした、その直後。
「そのすぐ下に、影がありますね」
影、という言葉だけが、耳に残った。
「大きな病院で、精密検査をしましょう。それまでは安静にしてください」
診察室の時計の音が、やけに大きく聞こえた。
いつもなら、放課後の公園を駆け回り、家の中でも無駄に動き回る。休日はソフトボール。
精密検査までの一週間、家の同じ場所で、つまらなそうに座り込んでいる背中を見ていると、考えても仕方ないことが、頭の中でぐるぐると回り続けた。
迎えたMRI検査。
放射線を使わず、体への負担は少ない。頭では分かっていても、初めてのことはやっぱり怖い。
大きな音が鳴り続ける筒の中で、何十分もじっとしていなければならない。落ち着きのないこの子が、耐えられるだろうか。
ソワソワしたのは私だけで、検査が終わると、何ともない顔で戻ってきた。
受付に行くと、中身の見えない分厚い封筒だけを渡された。
「結果は、かかりつけの先生から聞いてください」
正体のわからない「宣告」を預けられたような気がして、私はそれを診察券と一緒に、バッグの奥へ押し込めた。
「99.9%、問題ない腫瘍です。成長とともに消えていくでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、体の力が抜けた。
世界の色が、一瞬で塗り替えられたようだった。
けれど同時に、残りの0.1%が常にどこかに潜んでいることも、今の私は知っている。
私たちの日常は、これほどまでに脆いバランスの上に成り立っていたのだと、突きつけられた気がした。
それから2ヶ月。
すっかり膝はよくなって、
今日も彼は自転車に跨る。
「練習終わったら、そのまま行くから」
お昼はソフトの仲間と、子ども食堂へ。
「わかった。気をつけてね」
遠ざかる、自転車のベルの音。
自分自身の足で、どこかへ向かう。
また一歩、私の手の届かない場所へ踏み出したその後ろ姿を、私はただ、眩しく眺めていた。

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