見出し画像

🏰04.何もかもうまくいかない日々

屋敷を出て三日目。
泣くのは、もう終わりにした。

鏡の前で背筋を伸ばす。
だけど、ほんの一瞬、視線が定まらなかった。

小さな部屋の、小さなキッチン。
歩けばギシッと鳴る床。

「……よく見ると、悪くありませんわね」

そう言ってカーテンを開ける。

いつもなら、手入れの行き届いた庭園が広がる時間なのに、今見えるのは向かいの壁と細い空だけ。それでも、光は差し込んでいる。

「静かで、よろしいですわ」

遠くの方から通りの音が聞こえても、部屋の中は静まり返っている。

カレンは窓枠に手を置いた。

「平気ですわ」

その言葉だけが、やけに響いた。

ある日。
カレンは洗濯機の前で立ち尽くしていた。
スイッチが、思ったより多い。

説明書を開いてみる。
読めば理解はできるが、「適量」という言葉につまずき、また止まる。

「複雑ですこと」

白いブラウスと、お気に入りの薔薇色のハンカチ。洗剤を入れて、ひとまず回してみる。

ぐるぐると回る洗濯槽を、腕を組んで見つめる。まるで、試験の結果を待つみたいに。

終了の音が鳴る。

「……あら?」

ブラウスが、うっすら桃色に染まっている。

「……流行色ですわ」

そう言って、ほんの少しだけ視線を逸らした。

別の日。
朝出したはずのゴミ袋が、夕方そのまま置かれている。見ると『可燃ごみは火曜・金曜です』の貼り紙。

今日は水曜日だった。

「……曜日など、誤差。ですわ」

袋を持って、そっと部屋に戻る。
靴も脱がずに、玄関でうずくまる。


しばらくして。
ポストに、見慣れない紙が入っていた。
電気、水道、それにガス。

「……明細?」

数字の意味は分かる。けれど、これが高いのかどうかは分からない。屋敷にいた頃は、明細など見る機会はなく、まして金額を判断することなど、あるはずもなかった。

これが、自分の生活の数字。
その事実だけで、すでに重い。

「この程度……。平気ですわ」

そう言って、机の端に置いた。


気づけば、しばらく経っていた。
手続きは済み、最低限の生活用品も揃い、近所の店の場所も覚えた。

生活は形になりかけた……けれど。

夜になると、音が消える。
誰かが廊下を歩く音も、ノックの音もない。
無論、紅茶が用意されるはずもない。

カレンは小さなキッチンに立ち、自分で淹れた紅茶を両手で包む。

ぬるい。屋敷では、いつも絶妙な温度だった。

「別に。ぬるくたって飲めますもの」

「平気ですわ」

窓の外を見ながら、そう言う。
誰かが階段を駆け上がる音がした。

生活の音が、すぐそばを通り過ぎていく。
けれど、それ以上は何も起こらない。

何かを用意されることも、「やっておきました」と言われることもない。ただ、自分でやって、自分で終わらせるだけ。

カップの紅茶は、いつの間にか冷たくなっていた。

「平気ですわ」

胸の奥が、じわりと冷える。

「平気……ですわ……」

声が震える。
カップを持つ手も。

「わたくし……」

言葉が続かない。
完璧でいようとするほど、心は静かになっていく。

ぽとり、と涙が落ちた。

それは誰にも頼らずとも平気だと
証明し続けることに疲れた涙だった。


⬅️前の話へ ・ 次の話へ➡️



▶ 最初から順番に歩きたい方へ

▶︎この森が初めての方へ





いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集