🏰02.屋敷が終わった日
屋敷の朝は、いつも通りだった。
磨き上げられた床と、美しく整えられた庭園。
呼べばすぐ来る執事。
だけど、何かがいつもと違う。
「今日はなんだか静かですわね」
違和感は小さい。けれど、執事の足音が止まっているし、いつものようなメイドたちの声もない。
廊下の先で、父と母が低い声で話しているのが聞こえた。普段は決して聞こえない、張りつめた声。
カレンはドアを開けようとして、手を止めた。
──お嬢様たるもの、立ち聞きなどしてはいけない。
それが、この家の礼儀だったから。
だが、普段とあまりに違う空気に違和感を感じ、扉に耳をそっと近付けた。

すぐには、意味のある言葉は聞こえてこなかった。
かすれた声。短く途切れる会話。
何かを押し殺すような沈黙。
断片だけが、壁越しに滲んでくる。
「……凍結……」
「……売却は避けられない……」
「使用人は全員、今日中に──」
言葉が、そこで途切れた。
カレンは、その場で固まった。
今、何を言われたのか。
頭の中でうまく繋がらない。
『売却』。
その一語だけが、遅れて浮かび上がる。
この屋敷が……売られる?
本当に?
意味は分かるはずなのに、
現実として受け取れない。
指先の感覚だけが、先に冷えていく。
しばらく、そこから動けなかった。
◆
昼になっても、違和感は消えなかった。
メイドたちは頭を下げ、誰も目を合わせようとしない。
「どういうことですの?」
いくら聞いても誰も答えない。
やがて父が、節目がちに告げた。
「カレン。屋敷は手放す」
「……冗談ですわよね?
そんなこと、あるはずが……!」

母は視線を逸らす。
父は否定せず、まっすぐに答えた。
「カレン。この家は、もう終わりだ」
屋敷の時間が、そこで止まった。
◆
午後には、屋敷はもう別の顔をしていた。
箱が積まれ、額縁が外され、
花瓶が片づけられていく。
あれほど整っていた空間が、急に“物件”の
顔をする。人の出入りが続き、
見慣れた景色が、少しずつ剥がれていく。
気づけば、窓の外の光が傾いていた。
夕方が来て、そのまま何も区切りのないまま、夜になった。
その夜、カレンの荷物は最小限にまとめられた。
ドレスは置いていく。宝石も置いていく。
思い出も……、ほとんど置いていく。
手元に残ったのは、数冊の本と、
小さなトランクひとつ。
玄関でテキパキが唇を噛む。
「お嬢様……」
シレットも、静かに言う。
「また、どこかで」
カレンは顎を上げた。
泣かない。取り乱したりしない。
だってそれが“お嬢様”だから。
「平気ですわ。わたくしを誰だと思って?」
声は、少しだけ震えていた。
門が閉まる音が、やけに大きく響いた。
振り返ったとき、屋敷はもう“家”ではなかった。
──何の前触れもなく始まった、一人暮らし。
知らない街。知らない路地裏。
屋敷なら物置に使われていそうな、小さなアパートの一室。
天井は低くて廊下も短い。
扉を閉めると、妙に音が響く。
呼べば誰かが来る、それが当り前だった世界。
ほんの数時間前までの話だ。
カレンは立ったまま、しばらく動けなかった。
「……」
「わたくし……これからどうすれば……」
独り言だけが、部屋いっぱいに広がった。
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