北野武の感性が最初に触れた“音の光”。 ── 鈴木慶一とムーンライダーズ『火の玉ボーイ』
記憶の針を落とす Vol.17
少年の耳に残った、火の玉の余韻
私が地方都市でバンド少年だったことは、以前にも書いた。
ベースギターを抱え、原付バイクで走り回り、レコード店を溜まり場にし、雑誌の立ち読みで得た断片的な知識を、あたかも自分の人生経験のように語る。
そういう“音楽に取り憑かれた”少年たちには、ちょっとした特典のようなものがあった。客入りの悪いコンサートに、プロモーターから声がかかるのだ。
「ムーンライダーズのコンサートに行ってくれないか」
顔なじみのプロモート会社の人にそう言われたのが、私が高校一年生の時だった。
1977年、音楽シーンは雑多で、そして大きく曲がる直前だった
当時の日本の音楽シーンは、いま振り返ると驚くほど混沌としていた。
歌謡曲はテレビの中心にあり、都はるみが「北の宿から」を熱唱し、キャンディーズは絶頂期のまま解散へ向かっていて、山口百恵は“スター”から“アーティスト”へ移り変わる途中にいた。
ニューミュージックはユーミン、太田裕美、チューリップ、風が頭角を現し、レコード店の棚にはフォーク、歌謡曲、洋楽のヒット盤が雑多に並んでいた。
洋楽では、西海岸からイーグルスが“ホテル・カリフォルニア”を響かせ、地方の高校生たちも、ギターを持ってはウェストコーストのコード進行に挑戦していた。
ロンドンではパンクとニューウェーブの胎動が始まっていたのだが、仙台に暮らす高校生の私はまだ、その変化を知らない。
そんな音楽シーンが転換期を迎えていた時代、
仙台のローカルFMから流れてきた音でもなければ、雑誌の端に挟まれた写真でもない。
ただ、プロモーターの口から突然落ちてきた奇妙な名前
――「ムーンライダーズ」。
「ムーンライダーズ?」
レコード店をたまり場にしていた私でも、その名を知らなかった。
当時のバンド少年は、音楽雑誌と洋楽FMで情報を必死に掻き集め、誰よりも新しい音を知っているつもりでいた。
だが、ムーンライダーズという名前は、正直まったく聞いたことがなかった。だからこそ、どこか不思議な興味もわいていたのだと思う。
キャパ1300の大ホールに観客40〜50名。
コンサート当日、私たちは仙台市民会館へ向かった。
キャパ1,300ほどの大ホール。
しかし、客席にいたのは40〜50名ほど。
そのうち何人がチケットを買っていたのかはわからない。
私たちバンド仲間は8人ほどで、会場の中腹あたりに固まって座った。
開演。
バンドメンバーがステージに現れると、リーダーの鈴木慶一さんが最初にこう言った。
「みんな、来てくれてありがとう。前の席、空いてるからさ。よかったら前においで」
このひと言に、会場の空気がふっとやわらいだ。
観客たちはぞろぞろと席を移動し、ステージ前に集まった。
慶一さんはその様子をひと通り眺めてから、
「折角来てくれたんだから、楽しんでいってください」
と告げて演奏が始まった。
曲はひとつも知らない。だが後半には全員が総立ちだった。
この日どんな曲を演奏したのか、
じつはまったく覚えていない。
名前も知らないバンドで、もちろん曲も知らなかった。
だが、後半には観客全員が総立ちになり、両手を上へ突き上げながら音に身を委ねていた。
高校生の私はポカンとしながらも、「なんだかわからないが、すごいバンドだ」という直感だけはあった。
ムーンライダーズ実質的デビュー作『火の玉ボーイ』

翌日、いつものレコード店で真っ先に探したのが、“鈴木慶一とムーンライダーズ”名義の『火の玉ボーイ』。私がライブで出会った前年、1976年に発売されたアルバムだ。
おそらくあの時のステージも、このアルバムを中心に構成されていたのだろう。
『火の玉ボーイ』は、一言でいうと“時代から浮いたアルバム”だった。
カントリー、フォーク、ブルーグラス、R&Bといったアメリカン・ルーツを基盤にしながら、どこか映画のような語り口と、鋭いのにやさしいユーモアが漂っている。歌謡曲でもフォークでも洋楽コピーでもない。
日本語ロックのどの枠にも収まらない、奇妙で美しいポップスだった。
ムーンライダーズの前身“はちみつぱい”

後になって調べてみると、ムーンライダーズには “はちみつぱい”という前身バンド があった。
1970年代初頭、“はっぴいえんど”と共に日本語ロックの先駆者のひとつ。
フォークでもロックでも、カントリーでもブルーグラスでもない、ジャンルの境界を曖昧にした“雑味のあるポップス”を鳴らしていた。
その音は、後に私がムーンライダーズに感じる“どの枠にも収まらない響き”の原型だった。
『センチメンタル通り』を残して解散した彼らは、メンバーを再編しながらムーンライダーズへつながっていく。
あの夜ステージで鳴っていた音の底には、“はちみつぱい”の土壌が確かに息づいていた。
あの日、音の向こう側に触れたこと
当時の私は、ギターの弾き方やコード進行の面白さで音楽を判断していた。
だから『火の玉ボーイ』は、最初は“よくわからない”アルバムだった。
派手なギターソロもない。
ロック的な“カッコよさ”も、フォークの“等身大”もない。
だが繰り返し聴いていると、曲の向こう側に“物語”があることに気づく。
ひとつひとつの曲が、まるで短編映画のように独立していて、それでいてアルバム全体を通すと一本のロードムービーのように流れていく。
高校生の私は、初めて“音楽の奥にある世界”に触れたような気がした。
特に好きな3曲
アルバム全体に惹かれているのだが、そのなかでもとりわけ心をつかまれた3曲を紹介したい。
[1曲目]あの娘のラブレター
アルバムのオープニングナンバー。
軽快なカントリー調に乗せて “手紙” をめぐる小さなドラマが描かれる。
当時の私は、恋愛経験もほとんどない高校生だったが、なぜかこの曲の“気まずさと甘酸っぱさ”がすっと胸に入り込んできた。
物語を音楽にするってこういうことなのか、と感心したのを覚えている。
[2曲目]スカンピン
都会の片隅で、すれ違う人生の風景を、どこか投げやりなのに優しい視線で描いている。高校生の私でも、この曲の“ダメさの中の格好よさ”がわかった。ロックスターのヒーロー像とは違う、“生活者の匂いのする音楽”を初めて聴いた瞬間かもしれない。
[9曲目]髭と口紅とバルコニー
これはタイトルからしてもう映画のようだ。
登場人物の姿が、音の隙間にふっと浮かんでくる。
高校生の私は、歌詞の意味すべてを理解していたわけではないが、曲の“影と光のコントラスト”に惹かれた。音楽を聴くというより、“場面を覗き込んでいる”感覚に近かった。
あの夜のステージと、『火の玉ボーイ』で開いた扉
あの仙台市民会館の観客席で体験したライブは、のちにムーンライダーズを深く聴くきっかけになった。そして『火の玉ボーイ』は、私の中で“音楽は物語になり得る”という扉を開いてしまった作品になった。
派手なアルバムではない。
流行でもない。
当時、売れたわけでもない。
だからこそ私は強烈に惹かれたのだと思う。“どこにも属さない音”は、地方都市のバンド少年の心を静かに揺らし、その揺れはいまでも、胸の奥に残っている。
その後のムーンライダーズは“時代の端を歩くバンド”になっていく
私が高校生として出会ったムーンライダーズは、その後の活動で“日本の音楽の裏街道”を歩きながら、しかし確実に影響力を持つ存在へと変わっていった。
彼らは80年代に入ると、テクノ、ニューウェーブ、民族音楽、実験音楽など、あらゆる要素を取り込みながらも、どのジャンルにも属さない“ムーンライダーズというジャンルそのもの”を作っていった。
決して大衆的に売れることはなかったが、熱狂的な支持を集め、多くのミュージシャンが“必ず通るべきバンド”として名前を挙げるようになる。
私が十代で見た仙台の客席40名のバンドは、いつの間にか日本のポップス史の地層の中に深く根を張る存在になっていた。
鈴木慶一は“日本の音楽を支える職人”として再評価されていく
鈴木慶一は、バンドマンという枠を軽々と超え、ソロ、プロデューサー、CM音楽、映画音楽と幅広いフィールドで活躍していく。
ほかの誰も書けない、どこかひねくれていて、しかし温かく、物語的な旋律とハーモニー。
慶一さんの音楽は、後年になって次々と再評価され、今では“日本のポップカルチャーを支える職人”のひとりとして確固たる位置にある。
その代表が、あのゲーム音楽。
ゲーム『MOTHER』——世界中の人を泣かせたあのメロディ

任天堂の『MOTHER』(1989)、そして『MOTHER2』(1994)。
このゲームをきっかけに、鈴木慶一の名前は世界に知られるようになる。
ほのかな郷愁、子どもの視点のまま残ったような透明感、だがどこか寂しさを抱えたメロディ。『MOTHER』の音楽には、ムーンライダーズに通じる“映画的語り口”が宿っている。
私のように、十代の頃にムーンライダーズを体験した世代には、「やっぱりこの人の音だ」とすぐにわかる。音楽が優しく、物語がある。
慶一さんの本質が、ゲームという新しい器にぴたりとはまっていた。
いまやゲーム音楽史に残る名作として、世界中のプレイヤーから愛され続けている。
北野映画との出会い——音が“風景になる”瞬間

さらに、鈴木慶一の映画音楽の仕事は特筆すべきものがある。
特に北野武監督作『座頭市』の音楽は、その革新性で世界の映画祭でも高い評価を受けた。
太鼓、下駄の音、生活のリズムを曲に取り込むような構造は、まさに“音が風景になる”瞬間だった。北野映画の作家性と慶一さんの音楽が、あの作品で完璧に結びついたと言っていい。
映画音楽という枠を超え、“物語を身体で感じさせる音楽”という領域に踏み込んでいた。
十代の私は、仙台市民会館でステージ前に移動しながら拳を振り上げていたが、まさかその数十年後に、同じ人が世界で喝采を浴びる映画音楽を作っているとは想像もしていなかった。
あの夜の“よくわからない凄さ”は、正しかった

いま振り返ると、あの高校一年生の夜に感じた“よくわからないけれど凄い”という直感は、まったく間違っていなかった。
ムーンライダーズは日本ポップ史の中で“どこにも分類できないバンド”として不動の存在となり、鈴木慶一はゲーム音楽、映画音楽、CM、バンド活動のすべてで確かな足跡を残した。
あの仙台市民会館の40名の観客は、もしかしたら“未来の名盤の発芽”を目撃していたのだと思う。
『火の玉ボーイ』はいま聴いても新しい。
あの仙台のステージで胸の奥に灯った火は、消えるどころか、むしろ年を重ねるほどに静かに大きくなっている。
※『火の玉ボーイ』全曲はこちらから聴けます。記事の続きとしてぜひ
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