渋谷の墓参り
(1)渋谷の菩提寺
私の母方の菩提寺は渋谷にある。そのため、物心ついた時から私にとって渋谷とは、墓参りに行く場所であった。
正確には、渋谷と恵比寿のちょうど中間と言ったあたりで、山手線の内側、明治通りから少し東に入った少々わかりづらい場所だ。隣にはやや大きめの神社があり、その奥には國學院大學がある。

あまり広くない墓地は、東から西に下がる急な斜面に作られている。そのため墓石は階段状に並んでおり、ほとんどの墓石は東側に面して設置されていた。墓石が東に面していると、墓参者は西方浄土に向かって手を合わせる事になるそうだ。菩提寺の入り口は斜面の下側に作られているため、墓石まではちょっと急な階段を上らなければならない。そろそろ還暦間近の私には、なかなかきつい階段である。
父が岩手の出身で、そう簡単に父方の墓参りができなかったという事もあり、春と秋の彼岸は毎回この母方の墓参りに行くのが我が家の通例だった。小学生までは電車に乗る機会も少なかったため、だいたい両親と一緒にこの墓参りに私も付いて行った。両親とも体が丈夫ではなかった事もあり、母もしくは父と私の二人だけと言うことも珍しくはなかった。今から考えると、母方の菩提寺に父と二人で墓参りするというのも不思議な話だが、当時は特に違和感を感じなかった。
その頃の渋谷は、今の渋谷ヒカリエの場所に東急文化会館があった。地下を含めて複数のフロアに映画館があり、最上階はプラネタリウムだった。2階部分には渋谷駅からの連絡通路が設置され、当時は渋谷の中心的な存在であった。私も回数は多くないが、墓参りの後で昼食を食べた事もあるし、映画を観たりプラネタリウムに連れて行ってもらった事もある。兄は早くから自立心が強かったためか、子供の頃から家族と行動を共にする事は少なかった。そして私も、中学で電車通学を始めたあたりから、思春期で親と行動する事に抵抗を感じ始めたため、渋谷の菩提寺からは足が遠のいてしまう。高校時代は、渋谷の駅を挟んで真逆の方向となるセンター街にはよく遊びに行った。しかしその時に墓参りに行く事はなかった。だが大学生になってからは、健康的な理由で自分が墓参りに行きづらくなった母に頼まれ、たびたび私が一人で墓参りをするようになった。
(2)祖父母と母の兄妹
そもそもこの渋谷の墓は、母が墓守をしているものではなかった。当時この墓に骨壺が納められていた先祖は、私が知る限りでは私の祖父母までだ。祖父母と幼くして亡くなった母の兄、姉、そして祖父母の弟夫婦である。それより前の先祖は、江戸時代までは士族、明治になってからは警官をしていたらしいと、母が言っていた。しかし私は彼らの名前も知らないし、渋谷の墓に彼らが埋葬されていたのかも聞いていない。おそらく母も、母の両親以前の先祖については、詳しくは知らなかったのだと思う。ひょっとすると菩提寺に過去帳が納められていたかもしれないが、母がそれを見たという話も聞いていない。祖父母と一緒に墓に埋葬されていた母の兄、姉は、祖父の前妻との間に生まれた子供だ。母はこの祖父の前妻との間の兄姉は記憶にないと言っていた。母の母、つまり私の祖母は後妻で、母は祖母の実子である母の兄、妹と3人兄妹として育てられた。

(3)昭和初期の渋谷
母は昭和7年生まれ、いわゆる戦前派だ。祖父は前妻との間の子供を皆、幼くして亡くしていたためか、前妻とは仲が悪かったらしい。そして千葉から今の江東区の木場に花嫁修業に来ていた若い祖母と出会い、駆け落ち同然で家を出てしまった。年の差は30歳近くあったとの事だ。祖父はその事で、実家から勘当されてしまう。
元々祖父の生家が何の商売を生業にしていたのかは、よくわからない。しかしかなり羽振りが良かったようで、後述するが青山から六本木にかけて広く土地を持っていたらしい。そこから推測すると、農家だったのではないかと思う。ただ、祖母と結婚するために生家を出た祖父は八百屋を始めたそうなので、生家も八百屋だった可能性もある。
祖父が始めた八百屋は宮内庁御用達だったそうだ。皇居に出入りするための木製の鑑札のような物が残されていて、母は死ぬまでそれを大事そうにしまい込んでいた。祖父と祖母が暮らし始めた場所、つまり母が生まれた家の場所を、母はうろ覚えで「青山の交差点の明治屋」と言っていた。しかし青山の交差点近くにあったのは紀伊国屋で、明治屋があったのは現在の地下鉄六本木駅の真上のビルだ。どちらも母の菩提寺からは大差ない距離で徒歩圏でもある。だからどちらかが母が生まれた生家であった事は、間違いないだろう。
祖父と祖母は結婚後、しばらくは平穏無事に暮らしていたらしい。若い娘に手を出すような人物なので、祖父は仕事も精力的にこなして商売も順調だったようだ。しかしその時点で、祖父はもう50歳を超えていた。今とは異なり、昭和になったばかりの50歳だからもう初老と言ってもいいだろう。そこから祖母との間に男児一人、女児二人が生まれるが、祖父はすぐに脳卒中で他界してしまう。祖母は幼子3人を抱えながら、番頭に近かった人と渋谷の宮益坂に移り八百屋を続けたそうだ。
当時の渋谷はまだ小さな宿場町、NHKの朝ドラ「らんまん」でも取り上げられていたが、日が暮れると人通りもなくかなり寂しい街だったようだ。母はおぼろ気に当時の記憶が残っていて、今の宮益坂からは考えられないが、昼でもキツネやタヌキが道を横切っていたそうだ。
(4)祖父母の死
場所もさることながら、商才のあった祖父と比べ、祖母は元々は千葉の漁師町のお嬢様で、当然商才と呼べる物も皆無だった。そのため、祖父の死後は店の経営は一気に傾いてしまった。その後店は中野に移転するも、やはり経営はうまくいかず、戦争のどさくさもあり頼みの番頭さんにも逃げられてしまう。戦争が激しくなったため、祖母は母とまだ小さかった叔母を連れて、生まれ故郷の千葉の房総に戻る。すでに高校生になっていた伯父だけは、神田神保町に嫁いでいた祖父の妹の家に引き取られた。
祖母は実家に戻ったものの、年の離れた祖父との結婚は両親に認められていなかったため、家には入れてもらえなかった。仕方なく海辺の浜小屋のような掘立小屋で、母と叔母の3人で暮らし始める。この時の生活は、戦時中だったと言う事もあり本当にみじめなものだったらしく、母はあまり多くは語らなかった。母が生まれた頃は祖父もまだ元気で商売をしていたため、家には何人かお手伝いさんがいるほど羽振りが良かった。母にはその記憶が少し残っていたため、そこからどんどん貧しくなって行くその転落ぶりが、子供ながらにみじめだったのだろう。母が時折千葉時代の話をするときは、言葉の端々から悔しさが伝わってきた。
やがて祖母も他界する。この時、神保町の祖父の妹と祖母の実家が話し合い、先に引き取られていた母の兄、つまり私の伯父に加えて私の母もそちらに身を寄せる事になった。それは母の希望もあったようだ。母はそれほど千葉での暮らしが嫌だったのだ。一方まだ幼かった叔母は、房総の祖母の実家の世話になる。だが、叔母は祖母の実家でかなりひどい目にあったらしく、中学を卒業すると近所の別の家に身を寄せ、そこから嫁いだそうだ。

伯父と母が身を寄せる事になった神保町の大叔母の家は、かなり裕福だったらしい。大叔母の連れ添いは元々商才があった事に加え、戦後の混乱期だった事もあり、今のJR水道橋駅から神保町の交差点までの土地を、広く所有していたと聞いている。伯父はこの大叔母の家から、日大の建築学科に進んだ。東大の一次試験にも受かっていたが、二次試験当日に大叔母の連れ添いが亡くなったため受験する事ができなかった、そのため日大に進んだのだと母は言っていた。しかしさすがにそれは、フィクションではないかと私は思っている。
(5)大叔父と母の従兄
本来は、祖父の実家の資産はこの伯父が相続するはずだった。しかし祖父が勘当されていたため、その財産は祖父の弟、私の大叔父から母たちの従兄に引き継がれた。資産はほとんどが土地だったようだが、今の港区から渋谷区にかけて広い土地を所有していたため、母の従兄はかなり裕福だった。大叔父は早くに結婚したらしく、相続をした従兄は母や伯父より20歳近く年上だった。従兄は戦前だが大学まで通い、学生時代は旧華族たちと一緒に赤倉でスキーをしていたらしい。そして従兄はかなりいい年になるまで、相続した資産で生活をして就職をしなかった。従兄が資産を食いつぶして就職をしたのはおそらく40歳過ぎで、夫婦で住み込みのマンションの管理員をしていた。そして資産を相続したこの従兄こそが、本来の渋谷の母方の墓守だった。

母は自分が墓守ではなかったが、この墓には母の両親の骨壺も納められていたため、春秋の彼岸に墓参りを欠かさなかったのだ。墓守の従兄の両親もこの墓に埋葬されていたはずだが、従兄の家族が墓参りに来ていた様子はあまりなかった。菩提寺は墓周りの管理もしっかり行ってくれるので、供えた花や線香の燃え残りは数日後に綺麗に片付けてくれる。私が両親と墓参りをしていた頃から、たいてい花立と線香立は綺麗になっており、直前に誰かが墓参りをした形跡はほとんど見かけなかった。なおその墓守の従兄とは、母の葬儀の後は、従兄自身がかなりの高齢で体調を崩していた事もあり音信不通となってしまった。
(6)母
裕福な従兄の生活と異なり、母たちはかなり苦労をしていた。母は神保町の大叔母の家に引き取られるものの、戦後の混乱時でもあったためほとんど学校に通えていない。だが、大叔母の家には子供が多く、特に同じ女性の従姉が4人いてみな姉妹のように接してくれていた。母が一番年少だったが、年の離れた従姉たちの長姉は特に母の事を不憫に思い、気遣ってくれた。母と父は見合いで結婚をしているが、その見合いも長姉の紹介だったと聞いている。結婚後も母は長姉を実の母のように慕っており、よく渋谷の墓参りの後、長姉が住んでいた飯田橋に寄っていた。その縁もあり兄と私は、長姉が住む飯田橋の中学校に越境入学した。長姉が亡くなった時、私は高校生だったが母に言われて葬儀に参列している。

母は中学卒業後、神保町にあった印刷会社の社長宅で、住み込みのお手伝いさんとして働きだした。この社長夫妻は後に両親の仲人もしてくれた。母はその頃、盲腸をこじらせて生死の境をさまよった事があったそうだ。そのためその後も、死ぬまで内臓の不調を訴えることが多く、私や兄にはよく「ヤブ医者のせいでエライ目にあった」と言っていた。しかし、本人には知らされていなかったのだが、実はその時冗談でははなく母は本当に生死の境をさまよっていたのだ。お手伝いさんをしていた母は蓄財もなく、少々の痛みなどでは病院にも行かずに我慢をしていた。その時も盲腸がかなり進行していたのに我慢をしたため、手の施しようがないほど腹膜炎が進行してしまっていたのだ。担当した医師は手術で開腹したものの何もできずにそのまま閉じ、病院に駆け付けた叔母に、明日の朝までの命ですと告げた。しかし母はなぜか一命を取り留め、そのまま69歳まで生存した。医師が叔母に明日までの命と告げたことを母本人は死ぬまで知らず、私と兄が叔母からその話を聞いたのは母の葬儀の時だった。
(7)伯父
その頃伯父は大学生だったようだが、ちょうど学生運動が盛んになり始めた時代であった。リベラル思想で先頭で赤旗を振ってしまった伯父はまともな就職ができずに、生涯独身で小さな建設会社を渡り歩く。酒が好きで、同じく酒が好きだった私の父、そして叔母の連れ添いである私の義理の叔父とはウマがあったようで、年末年始や夏休みは、必ず私の家か房総の叔母の家を訪れていた。子供のいなかった伯父は、私や私の兄、そして私の従妹になる叔母の二人の娘をかわいがり、来るたびにおもちゃや本を買ってくれた。

最期は埼玉の小さな建設会社に現場監督として勤務をしていたが、仕事中に脳卒中で倒れてしまう。病院に運び込まれたが意識不明の状態が続き、父と私が様子を見に行く事になった。病院は私が住んでいた都内からは少々距離があったが、ちょうど遠距離通勤をしていた父の職場の近隣であったのと、伯父が自分に似ていると私を殊更かわいがってくれていたこともあり、母が「お前の声を聞けば目が覚めるかもしれない」と言ったからだ。プロ野球のヤクルトスワローズがリーグ初優勝をした昭和53年秋の出来事で、父が医師から伯父の病状を聞いているとき、私は誰もいない待合室のテレビで、阪急ブレーブスの上田監督が大杉選手のホームランはファールだと長時間抗議する日本シリーズを一人で見ていた。その後、伯父の会社の人の案内で、伯父が住んでいた部屋を父と見に行く。古いアパートの部屋は狭くてほとんどがベッドで占められており、それ以外のスペースは壁の本棚を含めて本で埋まっていた。たぶんもう伯父は目を覚まさないだろうからと父に言われ、私はそこから少し興味を持った歴史の本を数冊もらって帰る。
伯父はその1週間後に他界し、自分が墓守にはならなかった渋谷の墓に埋葬された。うろ覚えではあるが、たぶん50歳前後だったと思う。伯父の葬儀の時、誰が知らせたのか、伯父の大学時代の友人と思わしき人たちから花輪が届いた。肩書が皆、東京都の課長や大手建設会社の部長クラスで、母親は学生運動さえしなければ伯父も幸せな人生だったのではないかと、つぶやいていた事を覚えている。伯父の家から持ち帰った本はどれも小学生の自分には難しく、結局1冊も開くことはなく、私が結婚して実家を出るときに処分してしまった。
(8)父
伯父が死んでから6年後、父が末期の病に倒れる。それまでも両親とも体が弱かったため、代わる代わる寝込むような状態だったが、父は何度か入院をしていた。一番最初の入院は、私がまだ物心ついていない頃だった。肉体労働がたたり、椎間板ヘルニアの手術をすることになったのだが、母は兄と私に駅前の映画館でゴジラの映画を見せ、映画館の人に頼んで自分は病院に見舞いに通ったこともあった。今なら椎間板ヘルニアはそれほど難しくない手術だが、まだ昭和40年代だった当時は大手術で、手術の日は丸1日、母は病院で父の手術の付き添いをした。その時は叔母が千葉から上京して、私と兄の面倒を見てくれた。
父は退院後も、しばらく自宅で静養をしていた。たしか、私はまだ幼稚園に通う前で、兄は小学校に入ったばかりだったと思う。毎日父が家にいて遊んでくれたことを、朧気に記憶している。父が病欠しているので生活はかなり苦しかったと思うが、父の手術が無事終了して母が安心していたこともあり、両親そして私と兄にとって、この頃が一番幸せだったようにも思える。
父は岩手の山奥の出身の三男で、私が把握している父の兄弟は、父の姉が一人、兄二人、妹一人だった。その他にも幼少の頃に亡くなった兄弟がいたようだが、詳しい話は聞いていない。父の父である祖父は、長兄が家督を継いだ後は、父に長兄のサポートをしてもらいたかったらしい。長兄は戦争で満州に渡り、終戦後はシベリアに抑留されていた。それほどかからず復員できたようだが、それでも体はボロボロだったようだ。夏に家族で岩手に帰省した時も、長兄は入院をしていた事が何度かあった。さらに次兄は、生まれたときから体が弱かった。だから祖父は、父に期待をしていたようだ。しかし兄弟の中では勉強のできた父は、東京に出る事を夢見ていた。元々山奥で、冬は雪深いために学校に通う事ができなかった事もあり、父は中学卒業を待たずに上京する。そして下町の小さな個人経営のソース工場に勤め始めた。その頃の父の様子は、母もよくわかっていなかったようだ。母と結婚後、給料が遅配するソース工場の経営状態を危ぶみ、母が父に転職をさせた事もあり、ソース工場を辞めた後は、その時代の父の知人とはほとんど付き合いがなかったようである。
(9)両親の結婚
父と母の見合いを取り持ったのは、父の妹の連れ添いである義理の叔父の親族らしい。叔母と義理の叔父はもう他界しているため詳細は確認できないが、前述の母の従姉の長姉と義理の叔父の親族が、どちらも飯田橋近隣に住んでいたようである。父の状況はよくわからないが、母にはそれ以前にも見合いの話があったようだ。しかしどれも年の離れた人ばかりだったので、唯一年齢が近かった父と結婚をした。

結婚した父と母は、阿佐ヶ谷のアパートで暮らし始めたのだが、生活はかなり苦しかったらしい。父はいい意味でも悪い意味でも欲のない人間で、働き者でよく体を動かすが、金儲けをして蓄財をするという意識がまったくなかった。毎日汗を流して働き、夜に一杯の酒が飲めればそれで幸せと考えていたのだ。ただ、昭和30年代という時代を考えると、そのレベルの生活は決して珍しいものではなかったと思う。東京でも多くの人たちが、両親と同じような暮らしをしていたのではないだろうか。私はまだ生まれる前だったが、当時のモノクロの写真を見ると、幼少の頃の兄がたくさん映っていた。兄は生まれた時は体が小さかったので、柳行李に寝かされていたそうだ。写真の中で、柳行李の中の赤ん坊の兄が幸せそうに笑っていた。
父は本当に無欲で趣味の無かった人で、酒とタバコだけが楽しみだった。それ以外ではⅤ9時代のジャイアンツが大好きだった。当時は毎夜テレビの地上波でナイターを中継していたが、父は残業で遅く帰宅するためにナイターを見ることができなかった。そのため往復の電車の中で、ポケット型のラジオでナイターを聞き、帰宅後に酒を飲みながらニュースでジャイアンツの試合結果を見るのが楽しみだった。また、年6場所の大相撲も楽しみにしていたが、こちらも平日は見ることができないので、初日、中日、千秋楽のテレビ中継を楽しみにしていた。父の趣味と言えばそれくらいだ。欠点は酒好きのところで、あればあっただけ飲んでしまう。そのため母親も、家にはあまり酒を置かないようにしていた。それでも家族には内緒で、こっそり酒屋でワンカップなどを買っては道端で飲んでいた事もあったようだ。さすがに飲んで暴れるような事はなかったが、酔って母や兄や私に、訳の分からない事を言いながら絡んでくる事がしばしばあった。私はそんな父が嫌いで、軽蔑もしていた。学歴もなく、父のようにはなりたくないと思っていた。だが今考えると、父の実直さは尊敬に値するレベルだった。酔うと機嫌が良く饒舌になったが、シラフの時には寡黙でよく働き、当時には珍しく、食器の後片付けなどの家事もしていた。なぜ父の生前に、この父の実直さに気づけなかったのだろうとも思う。
(10)私の子供時代
第二子の私が生まれることになり、岩手の祖父が父のために一戸建てを買ってくれた。当時「文化住宅」と呼ばれた建売住宅だ。それゆえそれ以降は住居費は掛からなかったが、もし賃貸生活を続けていたら我が家はもっと貧しい生活だったのかもしれない。
新たな生活を始めた江戸川区は、当時少しずつ水田を開発して分譲住宅が建てられていた。昔からの地主の一族はとても裕福で、学校の友達と自分の家の格差が大きかったことをよく覚えている。幼稚園の頃、同じクラスの子供たちは毎月発行される絵本を定期購読していた。他の子はみんな絵本を受け取っているのに、先生が私には渡してくれなかったのを覚えている。その事を先生に尋ねた事もあったが、先生は申し訳なさそうに「あなたの分はないの」と答えた。その後も、同じような状況はずっと続いた。友達の多くは、その頃流行った超合金のロボットのおもちゃを買ってもらっていたが、私は買ってもらったことはなかった。当時は、両親が体が弱く無理が効かないのだという事も理解できなかったため、なぜ自分の家は貧乏なのだろうと悔しく思ったものだ。
父の岩手の実家には、私が小学校の低学年の頃までは毎年お盆休みに遊びに行っていた。岩手への帰省は我が家にとって夏の一大イベントだった。当時は新幹線などは当然走っておらず、特急でも上野から10時間くらい掛かっていた。父は一か月前から発売される特急の指定券を購入するために、毎年みどりの窓口に早朝から並んでいた。たいてい行きは夜行列車で、ボックス席に家族で折り重なるように寝たのを覚えている。一度だけ、上京していた父の甥の車で帰省したことがあった。実家に車で帰省することが父の夢だったようだが、我が家の経済状態では車の購入はおろか、父が免許を取得することも難しかった。当時は東北自動車道も開通前だったため、岩手までずっと一般道だった。往復ともかなりの時間を要した記憶がある。
私が小学校に上がる頃に父方の祖父は他界し、その数年後に祖母も他界した。祖母の生前までは、毎年無理をしてでも家族で父の実家を訪れていたが、祖母が他界してからは行く事はなくなった。一度だけ父が一人で帰省したが、あまりいい顔をされなかったらしく、翌年からは父も帰省する事はなかった。兄が大学生になって運転免許を取り、我が家も中古車を購入したが、父が兄の運転する車で岩手に帰省をしたい、と言う事もなかった。
(11)父の死
母は自分があまり学校に通えなかったこともあり、息子二人をどうしても大学に進学させたかった。そのため爪に火を点すような生活をしながら、私と兄を都心の公立学校に越境入学させてくれ、大学までの学費も貯めてくれた。母自身も体調を崩してよく寝込みながら内職を続けていたが、転勤で長距離通勤になった父が、何度も体調不良で入退院を繰り返すようになる。父は私が高校生の頃に大きな手術をしたが、会社がその事を考慮してくれその後は自宅から近い本社での勤務となった。しかし当時の医療技術では、父の悪いところを手術ですべて取り除くことができなかった。父は私が浪人の時の夏に他界する。具合が悪いと言って再入院してからわずか1週間、まだ53歳だった。母と兄は父の入院直後に、医師から余命1か月の宣告を受けていた。私は直接医師から説明を受けなかったが、二人の様子から父がもう長くない事を感じていた。父は欲のない人間だったが、常々体の具合が悪くても長生きしたいと言っていた。今思えば、父にももっと長生きしてもらいたかった。
父の葬儀は、母のたっての希望もあり葬儀場ではなく自宅で行った。自宅は祖父が購入してくれた建売住宅の土地を利用して、父の死去の3年前に、全面的に建て替えを行っていた。新しくはなっていたが、元々の土地が狭かったため建坪もそれほど取れずに小さな住戸で、葬儀の時も僧侶の控室もまともに用意はできなかった。それでも母は、家族が暮らした家から父を送り出したかったようだ。私は泣くつもりはなかったが、出棺の時に母が棺に縋り付いて号泣しているのを見て涙がこぼれてしまった。
父が死んだ時、兄は大学4年生で、教員採用試験を控える重要な時期でもあった。だがなんとか翌春に教員になる。小さい頃に教員になる事を夢見ていた母は、兄が教員になった事をたいそう喜んだ。浪人をしていた私は父が死んだ事で、一時期は大学進学を諦めた。しかし国立大学の募集要項に、近一年の間に主たる学費負担者が死去している場合は、入学金、授業料とも免除になるシステムがある事がわかったため、大学に進学した。父が死んだ夏前から約5か月近く、ほぼ受験勉強ができるような状況ではなかったが、残り2か月で私はなんとか国立大学受験の対策を間に合わせた。兄も国立大学であまり学費はかかっていなかったが、私の学費がまったくかからない事を母は喜んでくれた。東京の東から西まで通っていたため通学定期はそこそこの値段だったが、私はこれも途中からバイトで賄う事にした。私は大学の時、できるだけ親からの援助を受けずに卒業しようと考えた。そのため、授業があった時はもちろん、夏と春の長期休暇もすべてバイトで埋めていた。私は学生時代、どこかに旅行をした事もほとんどない。
兄が教員になり、私が大学に通い始めたため、母は少し安堵したのかもしれない。しかし私は大学卒業後、希望の職種に就けず職を転々とする。と言っても失業期間は設けず、必ず次の仕事を決めてから退職していた。だが常に希望の職種とは異なったため、私は一時期かなり自暴自棄になっていた。そして母はそれをひどく心配していた。私が社会人1年目に、兄が大きな事故を起こしたこともあった。兄は3か月近く入院し、半年以上リハビリをした。子供のころから兄弟そろって母には苦労と迷惑をかけ通しだったが、社会人になってもそれはあまり変わらなかった。
(12)母と孫
母が生前、一番幸せだと言ったのは、私と兄が結婚して孫が生まれたときだった。私は結婚して先に家を出ていたが、兄は結婚後も母と一緒に実家で暮らすことも考えていたようだ。しかし母はそれを固辞する。お互い気を遣って生活するなんてまっぴらごめんだと言っていた。そのため、母は実家で一人暮らしを始める。私と兄は申し合わせたわけではないが、毎週どちらかが孫を連れて実家に母の様子を見に行っていた。母は孫が来るのをたいそう楽しみにしており、食べ物や着る物、おもちゃなどを買って待っていた。一度、私の子どもが風邪を引いたため私が一人で様子を見に行ったら、お前だけなら来なくてもよかったのに、とはっきり言われた事もあった。
一度、母がすべて負担をしてくれて、兄家族、私の家族と一緒に1泊2日の旅行に行った事がある。6月の房総の旅館で、シーズン前ということもあり道路も宿も空いていた。どこかに寄るわけでもなく、旅館に着くとすぐ、母は孫たちと一緒に旅館の目の前の浜辺で遊び始めた。孫たちは押し寄せる波を見てきゃーきゃーと喜び、みんなで貝殻を拾い集めていた。その翌日は叔母の家に寄ったのだが、母はとても嬉しそうだった。
また、私が家族と一緒に母親をディズニーランドに連れて行った事もある。母は孫と一緒にディズニーランドに行く事がうれしかったようで、ディズニーランドそのものには興味がなかったようだ。開園と同時に入園したが、母は夕方には疲れてしまい、夜のパレードまで待てないというのでそのまま帰宅した。
母は孫に囲まれている時が一番の幸せで、孫がいない友人に、こんな事を言うのは申し訳ないけど、孫といるときが本当に幸せなの、と、嬉しそうに語っていたらしい。その事は、母の葬儀の時に母の友人から聞いたのだが、少しは親孝行ができたのかもしれないと思った。
(13)母の死
ある年の夏の終わりの朝、母を定期健診に連れていくために兄が実家に迎えに行くと、部屋の中で母が倒れており、その時はもう息絶えていた。連絡を受けた私が実家に到着した時には警察の検死医が母を見た後で、心臓麻痺で間違いないでしょう、と言った。倒れたのは前々日だったらしいが、その半年前にも同じような事があった。
その年は夏に父の17回忌を控えていた。4月の下旬だったがかなり肌寒い日曜の夜で、私は自宅で子供を風呂に入れていた。すると兄から連絡が入った。胸が苦しくなった母が、兄に助けの電話をしたらしい。その時は、兄の住居よりも私の方がかなり実家に近かったので、兄は私に先に実家に向かうように連絡をしてきたのだ。私は慌てて服を着て車に飛び乗り実家に向かった。実家に着くと、母が部屋の中で胸を押さえて苦しんでいた。まだ救急車を呼んでいないと言うので、急いで救急車を呼ぶ。その夜はなぜか救急搬送が多かったらしく、救急車が到着するまでにかなり時間が掛かった。私は表通りに出て、寒空の下で救急車を待った。やがて救急車が到着し、ちょうど兄も実家に到着した。私が救急車に乗り込み、兄が後から車で追いかけて病院に搬送してもらう。検査は深夜にまで及んだが、結局その時は原因はよくわからず、母はおよそ1か月ほど様子を見る形で入院をした。その後無事に父の17回忌を終え、夏が終わりに向かっていた。毎年行われる花火大会で兄家族と私の家族が実家に集まり、私の長男の誕生日を祝うのが恒例だったが、その年も母はとてもうれしそうに長男を祝ってくれた。その後、母は盆踊りで兄の娘を抱いて踊るなど、元気になったように見えた。もうすぐ私の次男の誕生日という事で、母は孫と一緒におもちゃ売り場に下見に行ったりもしていた。しかしその数日後、母は急逝する。母は兼ねがね、父の17回忌まではなんとしても元気でいないとと言っていたが、春先に倒れた時が本当の寿命で、母方の祖父母や伯父、そして父が、17回忌まで母を延命してくれたのではないかとも思った。ただ、あれだけ孫の事が大好きだったので、せめて孫のランドセル姿を見せてあげたかったな、とも思う。一番大きかった私の長男も、まだ幼稚園の年長の夏だったため、ランドセルを買うという話は出ていなかった。
母の葬儀は葬儀場で行った。父の時と同様、実家で葬儀をするのかと思ったが、兄夫婦が教員だったこともあり、小さな実家から送り出すのは難しいと、兄が判断したのだ。実際、兄夫婦の学校関係者が多く参列してくれたため、実家での葬儀は不可能だった。それと同時に、実家の近隣の人たちも多く参列してくれた。母は神田神保町で育った事もあり、おせっかいでずけずけと物を言う性格だった。悪気はないのだが言い方があまりにもストレートだったので、よくもめ事も起こしていた。そのため近所でも、母をよく思っていなかった人も多かったと思う。しかしそれでも、私が子供のころから知っている顔なじみの近所の人たちが何人も参列してくれた。
母の死亡届を役所に提出した後、本籍地のある役所に本籍抹消の手続きに行かなければならない事がわかった。本籍は両親が最初に住み始めた阿佐ヶ谷がある杉並区に置いていた。すでに私と兄は結婚して本籍を移していたため、そこに残っていたのは父と母だけだった。父の生前から、戸籍謄本を杉並まで取りに行く事がやや不便だったため、母は父の死後、兄、私を含めて本籍を江戸川区に移そうとしたことがあった。しかし日本では死亡した者の本籍は移せない法律になっているらしく、亡くなった父を一人だけ杉並に残すのは忍びないからと、母は本籍を江戸川区に移すことをやめていた。私はその事を事前に知っていた事もあり、抹消された両親だけの本籍の謄本を見て、両親の歴史はここで始まり、ここで終了したんだなと実感した。
母は父の死後、渋谷とは別の墓地に墓を買ってそこに父の骨を納めた。そしてその16年後に、自分もその墓に埋葬された。それまでの間、母は夏の父の命日に加え、春秋の彼岸と正月の、年4回の墓参りを欠かさなかった。父の墓は駅からかなり離れていたため、いつも兄か私が母を車に乗せて墓参りをしていた。私は命日と彼岸には一緒に墓参りをしていたが、正月に墓参りをする事は気が進まなかったので、正月は兄の担当となっていた。ある時、私が母を乗せて墓参りに行く事になったのだが、彼岸の渋滞を見越して早めに家を出発したものの、事故渋滞で車がまったく動かなくなってしまった事がある。私はその日午後からちょっと重要な用事があったため、運転中もかなり不機嫌になってしまった。横に乗っていた母はずっと、「申し訳ない、申し訳ない」と言っていたが、もちろん母のせいではない。私も母にあたるような事はしなかったが、終始イライラした態度になってしまい、後から反省をした記憶がある。
(14)千葉の叔母と叔父
千葉の叔母は、コロナ禍の直前に他界している。その叔母も生前、両親と兄の眠る渋谷の墓参りをしたいとよく言っていた。叔母が最後に菩提寺に行ったのは、おそらく伯父の納骨の時だろう。私は叔母に、もし菩提寺に行くことがあったら案内をしますよ、と話はしていたが、結局それが実現する事はなかった。母は千葉に残った叔母は苦労していないと言っていたが、叔母の葬儀の時、叔母が祖母の生家から煙たがられ、中学卒業後に近所の親族の家に移ったと聞いた。叔母はそこから農家の本家に嫁ぐのだが、義父が先見の明がある人で、これからは農業だけでは食べていくのは難しいと考え、自分の息子は大工にして稼がせ、持っていた農地はすべて嫁である叔母に管理させた。本家と言っても分家に土地を分け与えていたためそれほどの大農地ではなかったようだが、叔母は二人の娘を育てながら、そこそこの農地を一人で管理をしていた。そのため、元々体が弱かったのに嫁入り後に丈夫になっちゃったわよ、と笑っていた。
叔父も酒とタバコの好きな人で、何度か手術をしている。ただ伯父や父の頃と異なり、医療技術も飛躍的に向上していて手術も上手く行き、入退院を繰り返しながらも80歳過ぎまで生きた。何回目かの叔父の退院直後、何年に一度の大型台風が原因で千葉全体が停電など大きな被害を受けたとき、叔母は畑から帰ってきた後に脳卒中で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。そして叔父もその2年後に他界する。
ある時、渋谷の墓石の墓誌を見て、独身を通した伯父の33回忌が翌年である事に気づいた事があった。叔母にその事を伝えるかどうか、私は兄に相談した。だが、祖父母と伯父、そして我々の両親の月命日に必ず仏壇に手を合わせる叔母が、伯父の33回忌に気づいてない訳がないと兄が言った。もし渋谷の墓参りをする気があるのなら叔母から連絡があるはずで、それがないのは健康上など墓参りに来ることができない理由があるに違いないからだと言われ、私は叔母に連絡をしなかった。ただ今思えば、連絡をすれば叔母は多少無理をしてでも渋谷の墓参りに来てくれたのではないか、とも思う。
(15)渋谷の墓参り
渋谷の墓には、母の死後も私は春秋の墓参りを欠かさなかった。それが母の遺言のように思えたからだ。兄は千葉で教員をしていたため渋谷に出る機会は1年に1回もなかったが、私の職場は常に山手線内だったため、平日の仕事前に墓参りをすることも可能だった。私が子供の頃に両親と墓参りをしたように、私も休みの日に子供を連れて墓参りをした事も何度もあった。桜の開花が早い年は、菩提寺の入り口の桜が綺麗に咲いていた。
だが、父の33回忌と母の17回忌を一緒に執り行ってから、私もあまり渋谷の墓参りに行かなくなった。それまでは必ず春秋の年2回、彼岸には無理にでも墓参りに行っていた。しかし、生きている者が無理をしても、死んだ者は喜ばないから、が母の口癖だった事もあり、私も無理はしないようになった。もちろん、祖父母、伯父にも会ったことがない私の子供たちに、渋谷の墓参りを引き継ぐつもりはさらさらない。
すでに祖父母はどこかのタイミングで散骨されており、墓石の下に骨壺も残っていないようだと、生前の母から聞いた。伯父の骨壺も残っているかどうか、わからない。叔母の娘の千葉の従妹たちはおそらく、渋谷の菩提寺の位置も、正確にはわかっていないだろう。だから、本来の墓守である母の従兄の子孫が墓参りをしなければ、完全に誰も訪れることはなくなってしまう。そしてその可能性は低くないと思われる。
墓石の墓誌には、すでに墓守であるはずの母の従兄の名前が刻まれている。その連れ添いの名前は刻まれていないが、そもそも母の従兄がなくなった後、その従兄の子孫が墓を管理しているのかどうかも疑問である。菩提寺は墓周りの管理もしっかり行ってくれるので、供えた花や線香の燃え残りは綺麗に片付けてくれる。そして私が彼岸に一人で墓参りに行くようになってからも、直前に誰かが墓参りに訪れた形跡はなかった。あるいは、遠方で暮らしていてそう簡単には渋谷に来ることができないのかもしれない。そのため菩提寺に管理費は納めているものの、墓参りは彼岸以外の従兄の命日にだけ行っている可能性もある。だが、渋谷の墓参りという意味では、おそらく私が最後の一人ではないかと思う。
誰も墓参りをしなくなった時点で、100年にも及ぶ祖父母の歴史も完全に終了となる。母と叔母から話を聞いただけで、一度も会ったことはない祖父母だが、二人が3人の子供たちの人生をどう思ったか、天国で話をする機会があったらゆっくりと聞いてみたい。
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『選ばれない自分』(1)
房総高校書道部物語
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こんな辺境の文章を読んでいただきまして、本当にありがとうございます!