『選ばれない自分』(1)
あらすじ
結婚を間近に控えた桧山さんから、主人公の冴縞は好きだと告白される。冴縞はいつでも「選ばれない人生」だった。人生の岐路で、自分が選ばれたことは一度もなかった。しかし桧山さん冴縞の事を博識で、尊敬ができると言ってくれた。婚約者よりも、常に冴縞の事を考えてしまうと言ってくれた。冴縞も桧山さんに好意を抱いていたが、バツイチで引きこもりの息子と同居しており、桧山さんとは年の差もあった。これまでの人生、きわめて常識的に生きてきた冴縞にとって、自分が桧山さんを幸せにすることなどできる訳がない考えていた。だが冴縞は、桧山さんが自分を選んでくれた事で、自分の気持ちに素直に生きるかどうか、激しく葛藤する。
【FICTION】
「……」
桧山さんが、さらに小さな声で何かを言った。
「えっ?」
私は無粋にも聞き返してしまった。
「私は…、私は冴縞さんが好きです…」
その言葉を聞いて、私は頭の中が真っ白になった。体は固まり、リアクションする事もできなかった。
「いきなりこんな事、既婚者の冴縞さんにお話ししてごめんなさい。でもどうしても、自分の気持ちを冴縞さんにお伝えしたかったんです。冴縞さんに、私の気持ちを知ってもらいたかったんです」
桧山さんが顔を上げ、私を見つめた。目からは涙がこぼれ落ちていた。
「冴縞さんと出会った時に、とても感じのいい人だなと思ったんです。その後、自分でも気付かないうちにどんどん冴縞さんの事を好きになっていました。その事に気付いたのが、半年ほど前です。婚約者と一緒にいるときでも、私はいつも冴縞さんの事を考えていました。この1年、毎日冴縞さんと会える事が私の楽しみでした。そして気付いてしまったら、もう気持ちを抑え込む事はできませんでした」
小さいがハッキリした声で、桧山さんは私に告げた。私はその桧山さんの言葉が、正直嬉しかった。40年を超える人生で、一番嬉しい出来事だと言っていいかもしれない。桧山さんはさらに話を続けた。
「冴縞さんに、奥様がいらっしゃる事はわかっています。でも、私はどうしても自分の気持ちに嘘をつく事ができません。自分が一番好きなのは冴縞さんなんです。冴縞さんにとって私は特別な人間ではなく、ただのアルバイトの一人かもしれませんが、それでも私は冴縞さんの事が好きなんです。特別な関係になりたいとか、ずっと側にいさせてくださいとか、そういう事ではないんです。とにかく、私が冴縞さんを好きである事を、冴縞さんに知ってもらいたかったんです」
桧山さんの声は次第に大きくなり、最後ははっきりとした強い口調だった。そしてすべてを言い終わった後、彼女は涙をぬぐって笑顔になった。
「突然失礼なことを言ってしまって、本当にごめんなさい。結婚する前にどうしても、冴縞さんに私の気持ちをお伝えしたかったんです。でもこれでスッキリしました。ありがとうございました」
もし、私もこの場を笑って過ごせば、私と桧山さんの間にはこのまま何も起こらずに終了するだろう。だがそれでいいのだろうか。私は迷っていた。選ばれない私の人生の中で、これほどまでにはっきりと私を選んでくれた人は、桧山さんだけだ。そして私も、桧山さんの事が誰よりも好きであった。今が自分の人生の大きな岐路ではないだろうか。この選択を間違えれば、私は一生後悔するかもしれない。感情だけに任せて行動を起こすのはもちろん愚かなことである。しかし、時には感情を開放する事も必要なのではないだろうか。
「桧山さん…」
私は意を決した。
「はい」
桧山さんが明るく返事をした。
「私も桧山さんの事が好きです。だから桧山さんに好きと言われて、本当に嬉しかった」
桧山さんは再び涙を流し始めた。しかしその顔は泣き顔ではなく笑顔だった。
「ありがとうございます。嘘でも冴縞さんに好きだと言ってもらえて、私は幸せです」
「嘘ではないです。本当に桧山さんの事が好きです。だからもし、桧山さんが結婚をとりやめるのであれば、複雑ですが嬉しい気持ちの方が大きいです。失礼を承知で言いますが、それが私の本当の気持ちです」
自分が何を言っているのか、自分でもよくわからなかった。数週間後に結婚式を控えている女性に対して言う言葉ではない。しかしもう、自分を止める事ができなかった。これまで押さえていた思いがすべて爆発してしまった。堰を切ったように、私は自分の気持ちを打ち明けた。
「冴縞さんにそう言ってもらえるなら…、私、結婚をやめようかと思います」
桧山さんの声の中に、喜びの音が含まれているようにも感じた。そして私は後先の事を考えもせず、ただただ嬉しかった。桧山さんは続けた。
「決して冴縞さんにはご迷惑をお掛けしませんので、今まで通り冴縞さんの側にいさせてもらえませんか」
ほんの数秒間、私は彼女と見つめあった。そして目を閉じて彼女とキスをした。長いキスだった。
これまでの人生で、私はできるだけ常識的な選択をしてきたつもりだった。しかしもう、それもやめようと思った。おそらく、この後我々の進む道はとても険しい物になるだろう。年の差の問題もある。家族、知人からも距離を取って暮らす事になるに違いない。それでも私は何よりも桧山さんの事を、私を選んでくれた桧山さんの事を一番大切に考えて生きて行きたいと思った。
『選ばれない自分』(1)
『選ばれない自分』(2)
『選ばれない自分』(3)
『選ばれない自分』(4)
『選ばれない自分』(5)
『選ばれない自分』(6)
『選ばれない自分』(7)
『選ばれない自分』(8)
よろしければこちらもお読みください
渋谷の墓参り|K2sato
房総高校書道部物語
いいなと思ったら応援しよう!
こんな辺境の文章を読んでいただきまして、本当にありがとうございます!