『選ばれない自分』(5)
【冬】
ハロウィンが過ぎ、街は年末の様相を呈してきた。書店にとっては年末商戦はあまり関係ない。かつては絵本や児童書もクリスマスプレゼントとしてよく利用されたが、現在では絵本がわずかに売れる程度である。それでも雑誌類の増刊号や新年号が発行され、カレンダーや手帳類なども販売されるため店頭は賑やかになる。そんなある日、私は桧山さんから結婚式の日取りを聞かされた。
結婚式が5月中旬なので、GW明けから1カ月近くお休みが欲しいと桧山さんが言った。私は当然それを受諾した。3月から4月は新学期に向けて図書の発行が多くなるが、GW以降は一息着く。学生のアルバイトも5月にはだいたいシフトが安定して来るので、その期間はそれほど人繰りに苦労しない。桧山さんとしても、そのあたりも考えてくれたようだった。
とてもおめでたい話である。桧山さんなら、きっといい奥さんになるに違いない。私は桧山さんに「おめでとうございます」と言った。しかし心の中は複雑だった。結婚の準備のために前職を辞めているのだから、いずれ結婚する事はわかっていた。わかっていたはずだった。しかし、頭と心は別物だった。頭で理解できても、心の中は割り切れない思いで一杯だった。私はやはり、桧山さんに恋愛感情を抱いていたのだ。その晩私は、文字通り一睡もできずに朝を迎えた。
そして年が明けた。今の書店に配属になってから1年が過ぎた。藤田は年末に日本を出たようだった。その後はまだ、連絡はない。新年をどこかの国で、穏やかに迎えた事を祈るばかりだ。一方私自身は、あまり穏やかではない2カ月を過ごしていた。勤務中は平静を装っていたが、部屋に戻るとふさぎこむ毎日だった。完全な失恋であった。40代も半ばになって、失恋する事になるとは想像できなかった。だが、間違いなく失恋である。
これまで私は、失恋を経験した事はなかった。と言うよりも、それ以前に恋愛経験がほとんどなかった。中学、高校と地味な学生生活を送った私は、大学時代も恋愛よりも文章と向き合う事に一生懸命だった。当時の私にとって、文章を書く事が何よりも大切だったのだ。妻が部屋を出た時も大きなショックを受けたが、それは失恋と言う感情とは別物だった。妻とは夫婦というよりも、家族と言うユニットの一員という感覚で接していたからだ。
2月になり学生が長期休暇に入った。書店は比較的客足が少なくなり、時間によっては店内にまったく人がいないときもある。旅行のために長く休む学生のアルバイトもいるため、私は桧山さんと二人きりになる時間が多くなっていた。
「『ラ・ラ・ランド』って映画、ご存知ですか?」
休憩時間に、桧山さんが訪ねてきた。
「はい、知ってます。今年のアカデミー賞の最有力候補ですよね」
「やっぱり! 冴縞さんならご存知だと思いました。とても面白そうですよね」
「ええ、僕も楽しみにしています」
「本当ですか! …あの、一緒に観に行ってもらえませんか?」
桧山さんが明るく問いかけてきた。私は意外な展開に驚いていた。映画自体は興味があったので、一人でも観に行くつもりだった。しかしまさか、桧山さんから誘いを受けるとは思わなかった。
「私は構いませんけれども…」
その後に続く「婚約者の方と観に行かなくていいんですか?」と言う言葉は飲み込んだ。
「ありがとうございます! では、日程の候補日を考えておきますね」
桧山さんは、私が飲み込んだ言葉を察したのだろうか。それはわからない。ただ、桧山さんから誘ってきたのだから、私が婚約者の事をいろいろと考えてもあまり意味はない。問題がないから私を誘ったのだろう。少なくとも桧山さんはそう考えている。
一方、私は桧山さんの誘いを断ればよかったのかもしれない、とも思った。こんな気持ちで映画を観に行けば、さらに自分の気持ちを割り切れなくなるのではないか。自分がもっと苦しむ事になるかもしれないのだ。しかし私は断ることができなかった。たとえ自分を苦しめる事になるかもしれなくても、桧山さんが私を誘ってくれた事の喜びを感じずにはいられなかった。
シネコンプレックスの館内は、ポップコーンの甘い匂いで満たされていた。平日のナイトショーであったが、売店のカウンターには結構な人が列を作っていた。
「私、このポップコーンの匂い好きなんですよ」
「ポップコーン、食べますか?」
「まさか。今食事したばかりじゃないですか。ここで食べたら太っちゃいますよ」
私と桧山さんは、早番で店を出た後、軽く食事をしていた。
「ディズニー・リゾートも、ポップコーンの匂いがするじゃないですか。なんだかこの匂いがするだけでウキウキしませんか」
「ディズニー・リゾート、今のマンションから目と鼻の先なんですけど、行ったことないんですよね」
「そうなんですか? お子さんと一緒に行ったりしないんですか?」
「子どもはどちらかと言えばインドア派なので、そういう場所はあまり好きではないみたいなんですよ、男の子ですし。マンションから、夜の花火は見えますけど」
桧山さんに流星の事は話していなかった。流星は小さい頃からディズニーのキャラクターにはまったく興味を示さず、小学生になってからも、旅行や外出などはあまりしたがらなかった。小学校低学年の頃は、夏に海やプールに連れて行った事もあったが、本人があまり喜ばないので出かける回数も少なくなった。親としては、外出するよりも手が掛らないので、本人が望むままにゲームを買い与えていた。そう言う部分も、親として失格だったのだろう。
「でも、興味がなくても連れていけば、好きになったのかもしれませんね。親として失格ですね」
「そんな事ないですよ。お子さんが望んでいないのに無理やり連れて行ったら、逆にディズニーを嫌いになってしまいますよ。それって不幸な事だと思います」
「そうでしょうか…。そもそも、私自身がそれほど興味がなかったので、一度も行った事がないんです」
「本当に? 奥様ともですか?」
「妻もあまり興味がないようで…」
「でも、冴縞さんの年代って、ちょうど子どもの時にディズニー・ランドがオープンした世代ですよね?」
「そうですね。小学校5年生の時だったかな。特に、女の子にとっては憧れの遊園地でした。当時は『テーマパーク』なんて言葉は、誰も使っていなかったですからね」
「私は『遊園地』って、あんまり使わないですね…。函館公園の中に『こどものくに』って言う小さな小さな遊園地があって、遊園地って言うとそれくらいの規模をイメージしちゃいます」
「どれくらいの規模なんですか」
「本当に小さいです。一応、メリーゴーラウンドなんかもあるんですけど、それも小さくて、せいぜい小学校低学年の子ども向けって感じですね。でも、日本最古の観覧車があったり、GWには桜が綺麗だったりで、地元の人には愛されているんです。私も小さい頃に両親によく連れて行ってもらって、楽しい思い出もたくさんあります」
桧山さんは、とても楽しそうに遊園地の話をした。ご両親から愛されて育った事がよくわかる。桧山さんは愛情を受けて真っ直ぐに成長し、そしてこの後も真っ直ぐな人生を歩んで行くのだ。私にとって桧山さんは、本当にまぶしい存在だった。
そしてそのまぶしさに私は、快さを感じる半面痛みも感じていた。どんなに手を延ばしても、決して届く存在でない。想いを強くすれば強くするほど、後で自分が苦しくなるだけと言う事も十分わかっていた。しかしそれでも、やはり自分の気持ちを整理する事ができない。桧山さんが、ずっと自分の側にいてくれる事を願わずにはいられなかった。
「『ラ・ラ・ランド』、本当に面白かったですね」
映画を観た後の余韻のためか、心なしか桧山さんの足取りが軽やかに見えた。それは、私が映画の余韻に浸っていたためそう見えただけで、実際の桧山さんの足取りは普通だったのかもしれない。
「本当に、表現しようのないほどカッコいいラヴストーリーでしたね」
「そうか、ラヴストーリーですよね。なんかいろいろとすごくて、興奮状態です」
「この監督の前作『セッション』は、音楽学校をテーマにした作品なんですけど、ラストがちょっと後味悪かったんです」
「どんな感じだったんですか」
「スパルタ教師と生徒、その生徒も純粋に音楽を愛している訳ではなく、メジャーになって世間を見返してやろうと考えている生徒なのですが、終始二人が激しくぶつかり合うんです。そしてクライマックス直前に二人は和解したように見えるんですが、実際にはラストでも裏切り合う。その裏切り合いがかなり生々しくて、私はちょっと引いてしまいました」
「珍しい展開の映画ですね」
「そうですね。それに比べると、この『ラ・ラ・ランド』は本当に清々しかった」
「でもラストで二人は結ばれないですよ」
「ええ。でも、それもいいんじゃないでしょうか。結ばれるだけが愛情の形じゃないと、僕は思います」
「冴縞さん、カッコいい事いいますね!」
「いやいや、カッコいいのは私じゃなくて、映画です。こんなカッコいいラヴストーリーの映画、ここ何年も観た事なかったです」
「でも本当に雰囲気のいい映画でしたね」
「画面の色使いも最高でしたね。パーティーのシーンなんかは、50年代の総天然色の映画ポスターみたいで。一方夜間のシーンは、まるでエドワード・ホッパーの名画『ナイトホークス』のような静寂さで、メリハリがすごく機能していました。街角にはストーリーに関係ない通行人や車がほとんど存在せず、あたかも生でミュージカルを観ているかのような、非日常的な演出も素晴らしかった」
桧山さんは突然立ち止った。そしてつぶやくように言った。
「映画を観て、自分はこのまま結婚していいのかな、ってちょっと思っちゃいました…」
私は桧山さんの言葉の意味がわからなかった。
「…どういう事ですか?」
「なんて言うか…、彼の事は好きなんですけど、私の中で彼が一番じゃない事に気付いてしまったんです、半年くらい前に。そんな気持ちで結婚していいのかなって、ずっと思っていたんですけど、この映画を観てさらにわからなくなってしまって…」
「…彼よりも好きな人がいるんですか?」
少しの沈黙があった。
「…そう、…ですね」
胸の鼓動が早くなった。桧山さんは、私の目の前でうつむいていた。そして彼女は顔を上げながら言った。
「…だから結婚を迷っているんです。彼はすごくいい人なんですけど…」
彼女の目は、さらに何かを言いたげであった。
「マリッジブルーですか。桧山さんでも迷う事があるんですね」
私はその場を取り繕うように言った。しかし桧山さんの表情がやや曇った。明らかに彼女が期待している答えではなかった。私はこの期に及んで間抜けな事しか言えない。
「マリッジブルーともちょっと違うのかな…。結婚について不安がある訳ではないんです。私の気持ちの整理の問題なんです」
桧山さんは再びうつむいてしまった。桧山さんが婚約者よりも好きな人、それが自分であればいいと私は願った。だがそんな事があるだろうか。この状況で桧山さんが私に「結婚を迷っている」と言う事は、その可能性は十分にあった。私はこれまで出した事のない勇気を出して、尋ねてみた。
「桧山さんの一番好きな人って、どんな人ですか」
一瞬、桧山さんが反応した。どんな反応か、表現する事は難しかった。だが間違いなく、桧山さんは私の言葉に反応していた。
「そうですね…。とても知的で博識で、とても不器用で優しい人です…」
小さな小さな声で、桧山さんは言った。彼女も、かなり勇気を振り絞って答えてくれたようだ。
気まずい沈黙が訪れた。私はここで、自分の気持ちを桧山さんに伝えようかとも思った。しかしそんな事をすれば、きっと私は暴走してしまう。これまで抑えていた自分の気持ちが一気にあふれ出て、自分でも止める事ができなくなるだろう。そもそも、数週間後に結婚式を控えている女性に対して、自分の思いを告げるなど非常識も甚だしい。
「今迷っていても、桧山さんならきっと幸せな結婚になると思いますよ」
私は自分の気持ちを無理矢理抑え込んで言った。渾身の力を込めて自分を抑えたうえで出た言葉だったが、これ以上ない平凡な言葉になってしまった。かつて文筆業を志していた人間としては、このような凡百な言葉しか使えないと言う事は、恥ずべき事態だ。
「……」
桧山さんが、さらに小さな声で何かを言った。
「えっ?」
私は無粋にも聞き返してしまった。
「私は…、私は冴縞さんが好きです…」
その言葉を聞いて、私は頭の中が真っ白になった。体は固まり、リアクションする事もできなかった。
「いきなりこんな事、既婚者の冴縞さんにお話ししてごめんなさい。でもどうしても、自分の気持ちを冴縞さんにお伝えしたかったんです。冴縞さんに、私の気持ちを知ってもらいたかったんです」
桧山さんが顔を上げ、私を見つめた。目からは涙がこぼれ落ちていた。
「冴縞さんと出会った時に、とても感じのいい人だなと思ったんです。その後、自分でも気付かないうちにどんどん冴縞さんの事を好きになっていました。その事に気付いたのが、半年ほど前です。婚約者と一緒にいるときでも、私はいつも冴縞さんの事を考えていました。この1年、毎日冴縞さんと会える事が私の楽しみでした。そして気付いてしまったら、もう気持ちを抑え込む事はできませんでした」
小さいがハッキリした声で、桧山さんは私に告げた。私はその桧山さんの言葉が、正直嬉しかった。40年を超える人生で、一番嬉しい出来事だと言っていいかもしれない。桧山さんはさらに話を続けた。
「冴縞さんに、奥様がいらっしゃる事はわかっています。でも、私はどうしても自分の気持ちに嘘をつく事ができません。自分が一番好きなのは冴縞さんなんです。冴縞さんにとって私は特別な人間ではなく、ただのアルバイトの一人かもしれませんが、それでも私は冴縞さんの事が好きなんです。特別な関係になりたいとか、ずっと側にいさせてくださいとか、そういう事ではないんです。とにかく、私が冴縞さんを好きである事を、冴縞さんに知ってもらいたかったんです」
桧山さんの声は次第に大きくなり、最後ははっきりとした強い口調だった。そしてすべてを言い終わった後、彼女は涙をぬぐって笑顔になった。
「突然失礼なことを言ってしまって、本当にごめんなさい。結婚する前にどうしても、冴縞さんに私の気持ちをお伝えしたかったんです。でもこれでスッキリしました。ありがとうございました」
もし、私もこの場を笑って過ごせば、私と桧山さんの間にはこのまま何も起こらずに終了するだろう。だがそれでいいのだろうか。私は迷っていた。選ばれない私の人生の中で、これほどまでにはっきりと私を選んでくれた人は、桧山さんだけだ。そして私も、桧山さんの事が誰よりも好きであった。今が自分の人生の大きな岐路ではないだろうか。この選択を間違えれば、私は一生後悔するかもしれない。感情だけに任せて行動を起こすのはもちろん愚かなことである。しかし、時には感情を開放する事も必要なのではないだろうか。
『選ばれない自分』(1)
『選ばれない自分』(2)
『選ばれない自分』(3)
『選ばれない自分』(4)
『選ばれない自分』(5)
『選ばれない自分』(6)
『選ばれない自分』(7)
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